仁明天皇

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仁明天皇(にんみょうてんのう、810年弘仁元年) - 850年5月6日嘉祥3年3月21日)、在位:833年3月22日天長10年2月28日) - 850年5月4日(嘉祥3年3月19日))は、平安時代初期の第54代天皇正良(まさら)。

嵯峨天皇の第二皇子[1]。母は橘清友の娘、皇后橘嘉智子(檀林皇后)。正子内親王は同父母の妹でありかつ同年の生まれのため、双子の妹と推測される。

略歴

天長10年(833年2月28日、叔父に当たる淳和天皇の譲りを受けて即位。当初、淳和天皇の皇子恒貞親王皇太子に立てたが、承和9年(842年)の承和の変により、恒貞は廃せられ、代わりに仁明天皇の第一皇子道康親王(文徳天皇)が立太子した。これには自らの息子に皇位を継がせたい帝の意思と、それを利用して甥である道康を立太子させたい藤原良房の陰謀があったと言われている。

承和10年(843年)、文室宮田麻呂が謀反を企てているとの告発を受け、宮田麻呂一族を流罪に処した[2]。この件の遠因は諸説あるが、承和の変の影響であるとも、良房ら藤原北家が貿易利権を独占したいとの思惑の中、同じく貿易に関与している宮田麻呂を排除した、などの説がある。

承和12年(845年)、自身の更衣であり子(貞登、当時は源登[3])をも成した三国町と、女御藤原貞子の弟で自身の幼少期からの側近の藤原有貞密通を疑い、地方官に左遷する[4]

嘉祥3年(850年3月19日に病により、文徳天皇に譲位。太上天皇位に就くことなく、2日後の同年3月21日崩御

天皇は幼少時から病弱であったとされ、『続日本後紀』には7歳の頃からの様々な病歴が記載され、即位後もしばしば(丹薬・石薬)の調薬をして医師並みの知識を有していたとされる。また、『三代実録』の藤原良相の薨去の記事では、天皇は良相ら側近に自分が作成した薬の試飲を命じたとする記事が載せられている。『続日本後紀』嘉祥3年2月22日条には天皇が朝廷の会議に御簾を隔てて参加していたとする記事があり、既に重病であった自分の姿を見せないように御簾で隠して議論を聞いていたことが伺える(天皇はその1か月後に崩じている)[5]

江戸時代儒学者頼山陽は、天皇が恒貞親王が度々皇太子を辞退した際には受け付けず、事件にかこつけてこれを廃して自分の実子を立てたことを厳しく非難している(『日本政記』)。

系譜

系図

テンプレート:皇室平安初期 テンプレート:皇室平安前期

后妃・皇子女

和風諡号・異名

和風諡号は日本根子天璽豊聡慧尊(やまとねこあまつみしるしとよさとのみこと)。和風諡号を奉贈された最後の天皇である。御陵の在所を以って深草帝(ふかくさのみかど)という異称がある。

在位中の元号

陵・霊廟

(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市伏見区深草東伊達町にある深草陵(ふかくさのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は方形。

これは文久の修復のさいに造られたもので根拠が乏しく、本来の深草陵は同区深草瓦町の善福寺周辺と考えられている。

また皇居では、皇霊殿宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。

脚注

  1. 本朝皇胤紹運録』では第一皇子、『神皇正統記』・『椿葉記』では第二皇子とする。村田正志は同じ弘仁元年生まれとされている源信が、天皇よりも月日的に先に生まれたとする所伝があったと推測している(村田正志『村田正志著作集 第4巻證註椿葉記』(思文閣出版、1984年)P241)。
  2. のち、無罪であるとされた。
  3. 属籍を剥奪され出家。文徳天皇の治世に賄料が与えられるようになったがその後も冷遇され、天皇の薬の毒見役などをしていた。貞観8年(866年)に兄弟親王らの上奏により還俗したのちも「源」姓に復帰できず、「貞」姓を与えられた。
  4. 有貞は文徳天皇治世の仁寿2年(852年)に中央に復帰。
  5. 川尻秋生「陣定の成立」吉村武彦 編『日本古代の国家と王権・社会』塙書房、2014年 ISBN 978-4-8273-1268-3
  6. 一説に『源氏物語』中の桐壺更衣のモデル