今藤幸治

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{{#invoke:Infobox3cols|infobox}} 今藤 幸治(こんどう こうじ、1972年4月28日 - 2003年4月17日)は、愛知県刈谷市出身のサッカー選手。ポジションはDF、ミッドフィールダー

来歴

刈谷市出身であり、刈谷市立依佐美中学校を卒業[1]静岡学園高校から1991年に 松下電器産業サッカー部に入部。その後ガンバ大阪の選手として活躍し、背番号固定制になる前年の1996年にはJでただ一人、当時GKしか付けることのできなかった1を除き、スタメンのフィールドプレーヤーが付けることが可能であった全ての背番号2〜11を付けたことがある。[2]ファルカン監督時代にはガンバの選手としては初の日本代表にも選出され、1994年の5月22日のオーストラリア戦でガンバ所属の選手として初めて日本代表に出場した。

1996年12月29日、第76回天皇杯 準決勝の対サンフレッチェ広島戦後半31分、広島のサントスと交錯。一度は立ち上がったものの、頭を押さえて倒れ込み痙攣を起こしたため、担架で運び出された。その後の検査の際に脳腫瘍への罹患が発覚、1998年シーズン途中でガンバ大阪を退団。4度の手術とリハビリを繰り返すも、2003年4月17日午前9時43分、30歳の若さで他界した。

人物

選手時代は創成期のガンバを不動の右サイドバックとして支え、細身の体から繰り出される鋭いクロス、卓越したスピード、豊富な運動量が武器だった。また、ユーティリティ性も兼ね備え、ボランチなどでの起用もあった。

万博に掲げられていた横断幕は、「風になれ!今藤幸治」だった。

所属クラブ

個人成績

テンプレート:サッカー選手国内成績表 top !colspan="4"|日本!!colspan="2"|リーグ戦!!colspan="2"|JSL杯/ナビスコ杯!!colspan="2"|天皇杯!!colspan="2"|期間通算 |- |1991-92||松下||21||JSL1部||0||0||0||0|||||||| |- |1992||rowspan=7|G大阪||-||rowspan=7|J||colspan="2"|-||9||0|||||||| |- |1993||-||28||0||2||0||2||0||32||0 |- |1994||-||38||0||3||0||3||0||44||0 |- |1995||-||43||4||colspan="2"|-||4||1||47||5 |- |1996||-||24||0||9||0||3||0||36||0 |- |1997||rowspan=2|8||0||0||0||0||0||0||0||0 |- |1998||0||0||0||0||colspan="2"|-||0||0 テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算始133||4||23||0|||||||| テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算行0||0||0||0|||||||| テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算終133||4|||||||||||| |}

代表歴

試合数

  • 国際Aマッチ 2試合 0得点(1994)[3]


日本代表国際Aマッチ
出場得点
1994 2 0
通算 2 0

大会出場歴

関連項目

  • 津田恒実 - 元広島投手、今藤同様に若くして脳腫瘍で死去。
  • 盛田幸妃 - 元横浜近鉄投手。現役中に脳腫瘍に罹患し、一時は全快するも、引退後に再発して死去。

出典

  1. 刈谷の星 刈谷市
  2. No.180 Jリーグも固定番号制に”. サッカーの話をしよう 大住良之オフィシャルアーカイブサイト (1997年2月17日). . 2012.8.3閲覧.
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