以仁王

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以仁王(もちひとおう、仁平元年(1151年) - 治承4年5月26日1180年6月20日))は、平安時代末期の皇族後白河天皇の第三皇子。「以仁王の令旨」を出して源氏平氏打倒の挙兵を促した事で知られる。邸宅が三条高倉にあったことから、三条宮高倉宮と称された。

生涯

後白河天皇の第三皇子だが、『平家物語』では兄の守覚法親王が仏門に入ったため第二皇子とされている。同母姉に歌人として名高い式子内親王がいる。母親は藤原季成の娘・成子

幼くして天台座主最雲法親王の弟子となるが、応保2年(1162年)に最雲が亡くなり還俗永万元年(1165年)に人目を忍んで近衛河原の大宮御所で元服したという。その後、八条院暲子内親王猶子となる[1]。幼少から英才の誉れが高く、学問や詩歌、特に書や笛に秀でていた。母の実家は閑院流藤原氏で家柄も良く、皇位継承において有力候補であったが、異母弟である憲仁親王(のちの高倉天皇)の生母であり権勢を誇った平滋子(建春門院)の妨害に遭って阻止されたという。

特に仁安元年(1166年)、母方の伯父である藤原公光が権中納言・左衛門督を解官されて失脚したことで、以仁王の皇位継承の可能性は消滅し、親王宣下も受けられなかった[2][3]

治承3年(1179年)11月、平清盛はクーデターを起こし後白河法皇を幽閉、関白・松殿基房を追放するが(治承三年の政変)、以仁王も長年知行してきた城興寺領を没収された[4]。治承4年(1180年)4月、ついに平氏討伐を決意した以仁王は、源頼政の勧めに従って、平氏追討の令旨を全国に雌伏する源氏に発し、平氏打倒の挙兵・武装蜂起を促した。

また自らも「最勝親王」と称して挙兵を試みたが、準備が整わないうちに計画が平氏方に漏れた。5月15日、平氏の圧力による勅命と院宣で以仁王は皇族籍を剥奪され、源姓を下賜され「源以光」となり、土佐国への配流が決まった。その日の夜、検非違使の土岐光長源兼綱(頼政の子)が以仁王の館を襲撃したが、以仁王はすでに物詣を装って脱出していた。16日に入って以仁王が園城寺に逃れていることが判明し、21日に平氏は園城寺への攻撃を決定する。その中の大将には頼政も入っており、この時点では平氏は以仁王単独の謀反と考えていたと思われる[5]

頼政はその日のうちに子息たちを率いて園城寺に入り以仁王と合流した。しかし園城寺と対立していた延暦寺の協力を得ることができず、また園城寺内でも親平氏派が少なくなく、このままでは勝ち目が薄いと判断した以仁王と頼政は南都の寺院勢力を頼ることに決めた。

治承4年(1180年)5月26日、頼政が宇治で防戦して時間を稼いでいる間に以仁王は興福寺へ向かったが、同日中に南山城の加幡河原で平氏家人の藤原景高伊藤忠綱らが率いる追討軍に追いつかれて討たれた。『平家物語』は、飛騨守景家に軍勢によって光明山鳥居の前で戦死したとする。

しかし王の顔を知るものは少なく、東国生存説が巷に流れた。以仁王自身の平氏追討計画は失敗に終わったが、彼の令旨を受けて源頼朝木曾義仲など各地の源氏が挙兵し、これが平氏滅亡の糸口となった。なお朝廷は当初この令旨を偽物と考えていたが、後にこれが事実の疑いが出てきたこと、加えて以仁王が高倉天皇(以仁王の弟)及び安徳天皇(以仁王の甥)に替わって即位することを仄めかす文章が含まれていたことに強く反発した。後白河法皇にとって高倉天皇は治天の権威によって自らが選んだ後継者であり、その子孫に皇位を継承させることは京都の公家社会では共通の認識であったためである。このため、京都では以仁王の行動は次第に皇位簒奪を謀ったものと受け取られるようになっていった[6]。乱から16年が経過した建久7年(1196年)になっても以仁王は「刑人」と呼称されて謀反人としての扱いを受けている(『玉葉』建久7年正月15日条)[7]

第一王子の北陸宮は義仲のもとに逃れてその旗頭に奉じられ、また第二王子の若宮は平氏に捕まり、道尊と名乗って仏門に入った。八条院三位局(高階盛章の娘)が産んだ王女である三条宮姫宮は、建久7年(1196年)に八条院より安楽寿院・歓喜光院などを一期分として譲与されている。

墓・霊廟

  • 京都府木津川市にある高倉神社には以仁王が祀られており、境内には王の墓と伝えられる陵墓がある。後世、村人によって神社境内に葬られたという。
  • 高倉神社のそばにある筒井浄妙墓という塚があり、この塚も以仁王墓の陪冢として王墓とともに宮内庁が管理している。

伝承

  • 新潟県長岡市(旧小国町)には、以仁王が平氏から逃れる際に越後国小国郷に辿り着き、そこで生活したという言い伝えがある。
  • 福島県南会津郡下郷町の大内宿にも潜行伝説がある。以仁王を祀る高倉神社が存在する。
  • 長野県木曽郡上松町小川一帯には、以仁王の姫宮に関する伝承がある。姫宮は以仁王が木曽谷に潜伏していると聞いて密かに木曽谷を目指すが、上松で平家に見つかってしまう。姫宮は小川の上流へ逃げるが、持っていた麝香袋の匂いで見つかってしまい、深い淵に身を投げて果てる。小川には「麝香沢」「姫渕」などの地名が残されているほか、麝香沢近くには姫宮神社(高倉八幡社)が祀られている[8][9]

系譜

脚注

  1. 八条院は永万元年(1165年)に崩御した二条天皇の准母(母親代わり)で、大宮御所には同天皇の后であった藤原多子が居住していた。このため、以仁王の還俗・元服には二条天皇親政派であった人々の支持があったと考えられる。一方で後白河法皇と二条天皇は実の父子でありながら政治的に対立関係にあり、二条天皇の支持派に擁されるということは結果的に後白河法皇ー高倉天皇の対抗馬としての意味合いを持つことになった(佐伯智広「二条親政の成立」(初出:『日本史研究』505号(2004年)/所収:佐伯『中世前期の政治構造と王家』(東京大学出版会、2015年) ISBN 978-4-13-026238-5))。
  2. 院政期に親王宣下を受けるのは、原則として正妃(女御・中宮・皇后)所生の皇子、または仏門に入った皇子(法親王)のみだった。以仁王の母・成子は女御になれず、幼少の頃には仏門にあったものの12歳のとき還俗した以仁王には親王宣下を行う根拠がなかった。
  3. 『平家物語』および『越中旧事記』に「以仁親王」と記されている。
  4. 城興寺領の没収の背景には高倉天皇およびその皇統に対抗する以仁王の経済基盤を崩す平家政権の意図があったが、その一方で城興寺は本来最雲法親王が「梨本門跡」の所領として有していたものとされ、以仁王への継承も彼が出家して最雲の法灯を継ぐことを前提にしていたと考えられている。ところが、以仁王が出家をしないで俗人のまま同領を支配することはその約束に反していた。そのため、平家政権も城興寺領の没収後は本来の所有者と言うべき「梨本門跡」(当時の門跡は明雲)に返還している(栗山圭子「城興寺のゆくえ」『中世王家の成立と院政』吉川弘文館、2012年 ISBN 978-4-642-02910-0)。
  5. 河内祥輔は5月21日以前に以仁王と頼政が謀議をしたというのは『平家物語』の創作で、実際はこの日の園城寺攻撃に反対した頼政が抗命の罪で捕らえられそうになったために、やむなく王に協力したという説を出している(河内祥輔『日本中世の朝廷・幕府体制』吉川弘文館、2007年)。
  6. 東国平定以後、三善康信など京都出身の実務官人からの情報で朝廷の以仁王に対する認識を知った頼朝は、以仁王の令旨に代わる大義名分である寿永二年十月宣旨を朝廷から引き出した。一方、義仲は以仁王の令旨を正当な主張と受け止めて北陸宮擁立論を唱えたため、結果的に公家社会と敵対し、両者の命運を分ける一因となった(河内祥輔『頼朝の時代 一一八〇年代内乱史』平凡社、1990年)。
  7. 九条兼実の外孫で後鳥羽天皇の皇女である昇子内親王は、誕生してすぐに八条院の猶子となった。その直後に重病となった八条院は、多年養育していた三条宮姫宮(以仁王の王女)の内親王宣下を兼実に要請する。これは王女が八条院領の正当な相続権者であることを内外に示すものだった。昇子内親王への八条院領の即時かつ全面的譲与を期待していた兼実は、以仁王が刑人であることを理由に内親王宣下を公式の議題にすることにも反対した。両者の折衝の結果、三条宮姫宮の一期支配の後に昇子内親王が伝領するという妥協案が成立し、王女の内親王宣下は却下された(金澤正大「八条女院と九条兼実外孫昇子内親王」『政治経済史学』232、1985年)。
  8. 長野県 赤沢自然休養林「姫渕」 (PDF) 2016年1月6日閲覧。
  9. 上松町観光協会 赤沢散策マップ 2016年1月6日閲覧。
  10. 本朝皇胤紹運録』では僧法円を北陸宮に比定している。

関連項目