似島

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似島
座標 北緯34度17分-19分
東経132度25分-27分
面積 3.87 km²
海岸線長 16.0 km
最高標高 278 m
所在海域 瀬戸内海広島湾
所属国・地域 日本広島県
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似島(にのしま)とは、瀬戸内海広島湾に浮かぶ。行政区分としては広島県広島市南区似島町に属し、市域の最南端に位置する。広島市内の島としては最も大きい。2018年6月末時点の人口は797人、世帯数は498世帯[1]

地理

ランドサット衛星写真より作成。
広島港側から見た「安芸小富士」

広島港の南、約3kmに位置する。島の北側には安芸小富士(あきのこふじ)と呼ばれる山(標高278m)があり、広島市街や広島湾岸からも望むことができる。また、中区富士見町は、この安芸小富士が綺麗に見えるところから、その名が付いたという。

島には平地が少なく、山がちである。南側には天然の砂浜と干潟がある。

歴史

江戸時代には、荷継ぎの港として栄え「荷の島」と呼ばれていた。これは、広島湾が遠浅で、大きな船舶が岸まで入れなかったためで、一度似島に荷を下ろし、そこからより小さな船で本土へと運んでいたという。古い文献では「二の島」・「見の島」・「似の嶋」・「箕島」などの表記も見られるが、後に「富士山た山のある」から来ているといわれる似島の表記が定着する。

行政区分上は江戸時代から1929年に至るまで安芸郡仁保島村(のち仁保村)に属していた。1929年に仁保村が広島市に編入合併されて以降は「仁保町」の一部であり、1933年に仁保町から分離して「似島町」が新設され現在に至っている。

1895年明治28年)から第二次世界大戦終了直後まで陸軍似島検疫所が置かれており、現在でも当時の軍事施設の遺構が残っている。日露戦争第一次世界大戦当時は検疫所内に捕虜収容所も併設された。第一次大戦時に収容されていたドイツ人捕虜カール・ユーハイムが、収容中に日本初のバウムクーヘンを焼いたというエピソードがあり、日本におけるバウムクーヘン発祥の地といわれる。

1945年広島市への原子爆弾投下後には、検疫所が臨時の野戦病院として使用され、1万人とも言われる被災者が似島に運び込まれた。慰霊碑も設置されている。検疫所跡地には、原爆投下により生じた戦災孤児、戦災浮浪児に対する福祉を目的とした似島学園が設立されている。

また、早い時期からサッカーが盛んに行われた場所でもある。1919年大正8年)には、第一次世界大戦のあおりで島内の似島検疫所に収容されていたドイツ人捕虜と広島高等師範学校(現・広島大学教育学部)学生による親善試合が広島市内で行われたが、これは「日本で初めてのサッカー国際試合」とも言われる。1954年には似島中学校教師であった渡部英麿が全日本(現在のサッカー日本代表)に選ばれている。似島中学校は広島サッカー界でも古豪として知られ、1970年には第1回全国中学校サッカー大会で準優勝している。

交通

本州や他の島との間になどはなく、船舶による連絡に依存する。島の西側、家下(やじた)地区に「似島港(似島桟橋)[2]」、東側の長谷地区にある似島学園前に「似島学園前桟橋[3]」があり、似島汽船バンカー・サプライ広島港との間に定期航路を運航している。

1日13往復運航のカーフェリー。島の西側にある「似島港」と広島港(県営桟橋)とを往復し、所要時間は直行で約20分。ただし、「似島学園前桟橋」を経由する便(1日3便)では、計約50分。
1日11往復運航の高速船。島の東側にある「似島学園前桟橋」と広島市営桟橋を往復し、所要時間は約15分。

島内にはバスタクシーなどの交通機関はない。似島港近隣にて自転車の貸し出しが行われている。外周道路の南側を除く多く道路は車両の通行ができなくなっている。また、島内には信号機が一つも設置されていない。

経済

観光

魚釣り潮干狩り海水浴みかん狩りなど。

産業

かつて砂利運搬船の保有数が日本で最も多かったほど砂利採取運搬が盛んであった。

漁業では牡蛎養殖が盛んで、島を取り巻くように数百の牡蛎筏が浮かべられている。ナマコタコメバルなどの沿岸漁業も行われる。

脚注

  1. 広島市 人口,世帯数(町丁目別) 2018年8月9日閲覧。
  2. 乗り場案内”. 似島汽船. . 2011閲覧.
  3. 似島定期航路”. バンカー・サプライ. . 2011閲覧.

関連項目

外部リンク

テンプレート:芸予諸島