入国管理局

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入国管理局(にゅうこくかんりきょく、英:Immigration Bureau)は、日本における出入国管理外国人登録難民認定という外国人関連の行政事務を併せて管轄する法務省内部部局である。一般的な略称は入管(にゅうかん)。

発足の経緯

戦前、日本の出入国管理は、内務省の所管であり、1918年(大正7年)の「外国人入国に関する件」、1939年(昭和14年)の「外国人の入国、滞在及び退去に関する件」の内務省令によって、地方長官(道府県知事)と外事警察(外事課)によって、外国人に対する取締り活動が警察活動の一環として実施されていた[1]

敗戦後、1947年(昭和22年)に内務省が解体・廃止され、外国人の出入国管理は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の管理下に置かれていたが、1951年 (昭和26年) にGHQの勧告によって、アメリカ合衆国移民法の影響を受けた「出入国管理令」が制定された。同令は、「平和条約発効に伴う特例法」によって、戦後もしばらく効力を有していた[1]

1949年(昭和24年)に、外務省の外局として「入国管理部」が発足したが、当時の主な行政課題は敗戦によって朝鮮半島を抛棄させられたため在留外国人となった在日朝鮮人平和条約国籍離脱者)の管理・取締りであり、その後、外務省から法務を所管する官庁である法務省に移管された。

外務省の外局として発足した経緯から、1990年代前半までは本省入管局長に外務省からの出向者が、ナンバー2である官房審議官に検事が充てられるなど法務省内における「外様扱い」が続いた。その後入管行政の需要対応強化のため、1990年代後半以降はその逆(本省局長が検察官、審議官が外務官僚出身者)となり、さらに現在では国家公務員Ⅰ種試験で採用されたプロパーである法務キャリアが局長以下、官房審議官、各課室長を占め、充職検事は局内に1名のみにまで減少している。

外国人登録業務

外国人登録業務については、政策立案・総合管理的な業務を本省入管局で行うほか、外国人登録証明書の調製を一部の地方入国管理局で行うが、登録の申請受付などの窓口業務は地方自治体に委任されている。

沿革

8月10日外務省管理局に「入国管理部」が設置される。
10月1日:外務省の外局として「出入国管理庁」が設置される(入国管理部は廃止)。これに伴い、外国人登録業務が法務府民事局から移管される。
11月1日:外務省の外局として「入国管理庁」が設置される(出入国管理庁は廃止)。
8月1日:法務省の内部部局へ移行し「法務省入国管理局」となる(入国管理庁は廃止)。
4月1日地方支分部局の整理により、各地に置かれていた出先機関の「入国管理事務所」が「地方入国管理局」に再編される。
4月6日:法務省入国管理局総務課に「難民認定室」が設置される。
5月16日:学識経験者等の中から法務大臣が任命する「難民審査参与員」制度(若干名・非常勤)が施行される。

組織

幹部

  • 局長
  • 官房審議官(入国管理局担当)

内部組織

  • 参事官
  • 総務課(長)
    • 難民認定室(長)
    • 出入国管理情報官(長)
    • 入国管理企画官
    • 出入国情報分析官
    • 入国管理調整官
  • 入国在留課(長)
    • 審査指導官
  • 審判課(長)
  • 警備課(長)
    • 警備指導官
  • 登録管理官

施設等機関

地方支分部局

歴代法務省入国管理局長等

  • 事務代理・事務取扱の掲載は局長等空位の場合のみとし、病気・海外出張時の一時的なものは記載しない。
  • 「在任中の官職」欄に「検事」とあるものはいずれも法務事務官との兼官・併任でなく、法務省入国管理局長職をいわゆる充職としている。
  • 入国管理局生抜き(プロパー)の局長については氏名を太字表示とする。
  • 出入国管理庁長官・鈴木一の入国管理庁長官への就任については入国管理庁設置令(昭和26年政令第320号)附則第2項の経過措置規定に基づく自動的な継続在任とされ、別途「入国管理庁長官に任命する」旨の就任辞令は発出されなかった。
就任年月日 氏名 在任中の官職 前職 後職
外務省管理局入国管理部長
1949年8月10日 矢口麓藏 外務事務官 連絡調整中央事務局第三部長 外務省研修所勤務
1950年8月19日 田中三男 外務事務官 神戸連絡調整事務局長 出入国管理庁第一部長
出入国管理庁長官(外務省)
1950年10月1日 鈴木一 出入国管理庁長官 侍従次長総理府事務官 入国管理庁長官
入国管理庁長官(外務省)
1951年11月1日 鈴木一 入国管理庁長官 出入国管理庁長官 法務省入国管理局長
法務省入国管理局長
1952年8月1日 鈴木一 法務事務官 入国管理庁長官 農林省畜産局競馬部監理課
1954年6月29日
(事務取扱)
宮下明義 検事(東京高等検察庁 局長空位の間、法務省入国管理局次長として法務省入国管理局長事務取扱
1954年8月17日 内田藤雄 法務事務官 外務大臣官房審議室 外務省移住局長
1957年3月22日 伊關佑二郎 法務事務官 香港日本国総領事館 外務省移住局長
1958年5月10日 勝野康助 法務事務官 外務大臣官房外務審議官 外務大臣官房審議官→在セイロン特命全権大使
1960年1月5日 高瀬侍郎 法務事務官 外務大臣官房審議官 在セイロン特命全権大使
1962年7月24日 小川清四郎 法務事務官 特命全権公使(待命) 外務大臣官房審議官→在ヴァチカン特命全権大使
1964年10月27日 八木正男 法務事務官 イラク特命全権大使→待命無職(3日間) 外務大臣官房審議官→在ハンガリー特命全権大使
1966年11月15日 中川進 法務事務官 特命全権公使(待命) 外務大臣官房審議官→在ユーゴースラヴィア特命全権大使
1969年8月22日 吉田健三 法務事務官 特命全権大使(待命) 外務省アジア局長
1972年1月18日 吉岡章 法務事務官 ホノルル日本国総領事館総領事 外務大臣官房審議官→在スリ・ランカ特命全権大使
1973年10月9日 影井梅夫 法務事務官 外務大臣官房審議官 外務大臣官房審議官→在ニュー・ジーランド特命全権大使
1976年7月13日 吉田長雄 法務事務官 シドニー日本国総領事館総領事 外務大臣官房審議官→在イスラエル特命全権大使
1978年11月7日 小杉照夫 法務事務官 プレトリア日本国総領事館総領事 外務大臣官房審議官→在ケニア特命全権大使
1981年1月13日 大鷹弘 法務事務官 フィジートンガナウル特命全権大使 外務大臣官房審議官→在スリ・ランカ特命全権大使
1983年1月18日 田中常雄 法務事務官 ロス・アンジェルス日本国総領事館総領事 外務大臣官房→在ギリシャ特命全権大使
1985年1月28日 小林俊二 法務事務官 バングラデシュ特命全権大使 外務大臣官房→在パキスタン特命全権大使
1987年10月6日 熊谷直博 法務事務官 アメリカ合衆国特命全権公使 外務大臣官房→在ケニア特命全権大使
1989年1月6日 股野景親 法務事務官 ヴィエトナム特命全権大使 外務大臣官房→公正取引委員会委員
1991年11月8日 高橋雅二 法務事務官 在ホノルル日本国総領事館総領事 外務大臣官房→国際協力事業団理事
1993年10月15日 塚田千裕 法務事務官 コロンビア特命全権大使 ブラジル特命全権大使
1995年12月15日 伊集院明夫 法務事務官 特命全権大使(待命) 外務大臣官房→国際協力事業団理事
1997年12月15日 竹中繁雄 法務事務官 金属鉱業事業団理事→外務大臣官房 外務大臣官房→在トルコ特命全権大使
1999年8月13日 町田幸雄 検事(最高検察庁 最高検察庁検事兼法務大臣官房付 最高検察庁総務部長(検事)→次長検事
2000年12月19日 中尾巧 検事(最高検察庁) 金沢地方検察庁検事正 大阪高等検察庁次席検事→大阪高等検察庁検事長
2002年8月1日 増田暢也 検事(最高検察庁) 最高検察庁検事 最高検察庁公判部長(検事)→仙台高等検察庁検事長
2004年9月10日 三浦正晴 検事(最高検察庁) 那覇地方検察庁検事正兼福岡高等検察庁那覇支部長 最高検察庁検事→大阪高等検察庁次席検事→福岡高等検察庁検事長
2006年6月30日 稲見敏夫 法務事務官 法務省大臣官房審議官(入国管理局担当) 退職
2008年7月18日 西川克行 検事(最高検察庁) 最高検察庁検事法務省保護局 最高検察庁検事法務省刑事局長→検事総長
2009年7月14日 田内正宏 検事(最高検察庁) 名古屋高等検察庁次席検事 最高検察庁公安部長→東京高等検察庁検事長
2010年12月27日 髙宅茂 法務事務官 東京入国管理局長 退職→日本大学教授
2013年4月1日 榊原一夫 検事(最高検察庁) 最高検察庁検事 大阪高検次席検事兼法務総合研究所大阪支所長→大阪地方検察庁検事正
2014年7月18日 井上宏 検事(最高検察庁) 最高検察庁検事 最高検察庁検事
2017年1月17日 和田雅樹 検事(最高検察庁) 最高検察庁検事  

問題点

難民認定

。実際、日本では難民申請が受け入れられにくく、2016年に難民認定申請を行った者は10901人でこのうち申請が認められたのは28人、在留資格を得た者と合わせても125人となっており、申請者のわずか1%に過ぎない[2]

揮発油を浴びるなど派手なパフォーマンスで一時報道を賑わせた男性父子は「クルド人なので本国では迫害を受ける」という理由で難民申請し、UNHCRからも難民として認定されていたにもかかわらず、難民不認定の取り消しが認められず、2005年1月17日仮放免の更新申請に出向いたところを強制収容され、翌日強制送還された[3][4]

難民不認定を不服として各地の入管を相手に係争中のミャンマー人原告に対し、代理人弁護士を介さず「難民認定を再申請すれば在留特別許可(在特)を与える」などと裁判外の交渉を打診していたことが報道されている[5]

入管収容者の待遇

入国管理局の収容施設や入国者収容所の医療体制の不備により収容者が適切な治療を受けられていないと指摘されている。例えば2014年11月に東京入国管理局の収容施設で死亡したスリランカ人男性は、胸の痛みを訴え治療を求めたが病院には搬送されず数時間後に急性心筋梗塞により死亡した。2017年3月に東日本入国管理センターで死亡したベトナム人男性は収容当初から体の痛みの訴え3月17日には口から泡と血を吐き失神する症状が出るも病院で治療を受けられず、21日には入管内で医師による治療を受けたが、胸部のレントゲン撮影、痛み止め、湿布剤が出されるにとどまった。24日も朝から痛みを訴えたが治療は受けられず、夜になると男性から反応がなくなり、男性が倒れていることに気づいた職員がAEDによる蘇生を行った。25日午前1時になってようやく救急車が到着し救急隊員により心肺蘇生が行われたが、すぐに死亡が確認された。2017年5月には環境改善の要望書を東京入管に提出するも入管側が受け取りを拒否したことに端を発し東京入管や名古屋入管の収容者約100人によるハンガーストライキが行われた[6]。2017年9月には2014年3月に東日本入国管理センターに収容されていたカメルーン人男性が7時間以上苦しんだ末に死亡した件に関しカメルーン在住の男性の母親が国と当時のセンター所長を相手取り1000万円の損害賠償を求めて提訴した[7]。こういった現状に対し法務省は2010年から収容施設の運営を監視する機関として入国者収容所等視察委員会を設けており、前述のスリランカ人男性のケース等に収容所の対応が不適切だったとの判断を下している。また、支援団体等から国に対して再三改善要求が出されているが、なかなか改善が進んでいないのが実態である[8][2][9]

脚注

  1. 1.0 1.1 宮崎繁樹 出入国管理と国際法 明治大学社会科学研究所紀要 1973年
  2. 2.0 2.1 ベトナム人の死と外国人収容所の過酷な実態”. 東洋経済オンライン (2017年6月9日). . 2018閲覧.
  3. I.M.. “難民訴訟…(7)”. 憲法情報Now. 法学館憲法研究所. . 2010閲覧.
  4. “UNHCR、前例のない難民の強制送還に懸念” (プレスリリース), 国連難民高等弁務官事務所, (2005年1月18日), http://www.unhcr.or.jp/news/press/pr050118.html . 2010閲覧. 
  5. 2011年1月20日 毎日新聞
  6. 東京入管の外国人収容者「ハンスト」決行背景「在留資格のない外国人には人権がない」”. 弁護士ドットコムNEWS (2017年5月25日). . 2018閲覧.
  7. 入管施設でカメルーン人体調悪化、放置され死亡…難民問題、司法が最後の砦になれるか”. 弁護士ドットコムNEWS (2017年11月4日). . 2018閲覧.
  8. 「東京入国管理局収容所」の厳しすぎる現実”. 東洋経済オンライン (2016年3月9日). . 2018閲覧.
  9. “被収容者に適切な医療を…施設前で抗議活動”. 毎日新聞. (2017年8月22日). https://mainichi.jp/articles/20170815/k00/00m/040/052000c . 2018閲覧. 

関連項目

外部リンク


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