公傷制度

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公傷制度(こうしょうせいど)は、大相撲にかつて存在した、負傷休場した横綱以外の力士に対する救済措置である。

概要

横綱以外の力士が、本場所の取組において発生した怪我による休場については、通常の休場(休みの日数によっては負け越し扱い)とはしないようにする制度であった。

公傷が認められた場合、その場所は休みを負けに換算して番付を編成するが、次の場所は休場しても、その次の場所は同じ地位に留まれる[1]。公傷は1回の怪我につき、1場所までの全休が認められた。

歴史

昭和32年(1957年)に11月場所(九州場所)が行われるようになるまで、大相撲の本場所は年2~4場所制だったため、制度の必要性は皆無に等しかった。

例えば1年休んだ場合、現在では6場所もの長期休場となるが、昭和20年代までの休場期間は長くても2~4場所でしかなかったため、番付的にはよほどの重症でもない限り挽回可能だった。その後昭和33年(1958年)に7月場所(名古屋場所)も始まって年6場所制となったことで、負傷による休場の影響が大きく出るようになっていった。

昭和46年(1971年)になると、7月場所で、藤ノ川増位山が相次いで負傷し、回復不十分のまま翌9月場所に強行出場、同年10月11日横綱玉の海が急病により現役のまま死去、11月場所で、元小結でその場所前頭4枚目の龍虎が左アキレス腱断裂で長期休場を余儀なくされ、休んでいる間に幕下42枚目まで番付を下げた。

これらの出来事をきっかけに、翌昭和47年(1972年)1月場所から公傷制度が取り入れられた。最初の適用者は同年5月場所の、幕下の宍戸であった。宍戸は同年3月場所の対朝ノ花(のち若三杉、横綱2代若乃花)戦で右膝関節を脱臼し、初めて公傷が認められた。十両では同年7月場所の鷲羽山、幕内で公傷が初適用された力士は昭和48年(1973年)5月場所の丸山である。

当時、大相撲以外のプロスポーツには公傷制度がなかったことから適用基準も厳しく、「土俵で立ち上がれたら公傷にはしない」「古傷の再発は公傷にしない」と言われていた。昭和54年(1979年)5月場所、前場所を肩の脱臼で休場した十両千代の富士が、公傷の認定がされなかったために場所途中(3日目)から出場した(一説には手続きの不手際とも言われている)。しかしこれをきっかけに、千代の富士は相撲ぶりを出足を重視するものに変え、それがのちに大関及び横綱への昇進につながったと言われている。

また、当初は2場所連続負け越さないと陥落しない大関については公傷制度の適用対象外であったが、徐々に適用範囲が広がり、昭和58年(1983年)からは大関も公傷制度の適用対象となった。なお大関力士の公傷適用第1号は、同年9月場所8日目の隆の里戦で負傷した朝潮であり、大関で最後に公傷適用されたのは、平成15年(2003年)1月場所5日目の出島戦で負傷した栃東であった。

平成時代に入ってからは「全治2ヶ月以上の診断書が提出されたら公傷認定」と言われるまでになり(「やたらと全治2ヶ月の診断書が出て来る」ともいわれた)、場所中の休場力士の増加につながったとされた。このきっかけは、平成4年(1992年)11月場所7日目、東張出大関で当時カド番霧島が西張出関脇水戸泉戦で、右足首靱帯断裂の大怪我により途中休場した時の事である[2]。その後「全治3か月」の診断書が出たものの、当時の審判部長を務めた佐渡ヶ嶽親方(元横綱・琴櫻)が「霧島は右足首負傷後も自力で花道を歩いて帰った」との理由で、公傷を認定するための「現認証明書」が発行されず、一旦は公傷を認めなかった。だが、数日後の緊急理事会において「ケガの具合を正確に調査するため、診断書の提出を当日限りから3日以内に訂正する」と変更され、霧島は公傷認定により、西張出関脇の地位だった平成5年(1993年)1月場所を全休するものの、翌3月場所も同じ西張出関脇の地位に留まった[3]。しかしこれが結果的に、公傷認定による全休力士が急増する要因にもなった。

この理由もあり、当時の理事長北の湖の「鶴の一声」によって、平成15年(2003年)11月場所を最後に公傷制度の廃止が決定した。最後に適用された力士は琴ノ若。公傷廃止後、制度不適用の第1号となった力士は平成16年(2004年)1月場所で当時十両の若天狼だった。

この廃止前に、公傷制度を維持したまま、運用の改善で凌ごうとしたこともあったが、大関武双山が平成15年(2003年)3月場所6日目に、肩の脱臼で途中休場するものの公傷が認められず、翌5月場所は大関カド番になった場所で強行出場しながらも、同5月場所の千秋楽で8勝7敗と勝ち越してカド番を脱出した。またその際、武双山の師匠でもある武蔵川理事(元横綱・三重ノ海)が「なぜ武双山の公傷を認めなかったのか」と理事会で審判部を追及したことから、「必要のない公傷を申請している力士が多数いる」「認めたり認めなかったりしたら、それぞれの力士の師匠に突っ込まれてどうにもならない」という認識ができ、結局廃止に至った。

なお公傷制度の廃止の際、救済措置として幕内の定員が40人から42人に、十両の定員が26人から28人に、それぞれ増員された。

大相撲八百長問題を受け、大相撲新生委員会(委員長=島村宜伸元農相)が平成23年(2011年)4月15日に相撲協会に提言した8項目の防止案として新たな公傷制度の創設がその1つに含まれていた。 しかしこの日協会幹部と面会した島村委員長は「公傷制度には抵抗があるみたいだ。先送りかな」と述べ、結局現在に至るまで実際の創設には至っていない。[4]

脚注

  1. 昭和58年(1983年)までは同じ地位に張り出される形であった。
  2. 霧島は2場所連続負け越しにより、同11月場所限りで大関から関脇陥落が決定した。
  3. この場所で霧島は10勝以上すれば大関特例復帰を果たせたが、結局5勝10敗の負け越しに終わった。
  4. 慎重な議論必要…“公傷制度復活”は当面見送り Sponichi Annex 2011年5月3日 06:00

関連項目


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