前田吟

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前田 吟(まえだ ぎん、1944年昭和19年)2月21日 - )は、日本俳優。本名及び旧芸名は前田 信明(まえだ のぶあき)。マエダ企画所属。次男は俳優の前田淳、四男は競技ダンス選手の前田亨。

来歴・人物

1944年2月21日に山口県防府市にて生まれる。父親は同盟通信(現在の共同通信)山口支局に勤務する記者、母親はタイプライター教師であった。家庭環境不良のため、生後間もなくして前田家の養子に入るが、5歳の時に養母を、12歳の時に養父を亡くす。その後は実家に戻らず、知り合いの家を転々とし、中学卒業後は山口県立防府高等学校に進学するが1960年に1年で中退する。

高校中退後は大阪の家具屋に就職していたが、黒澤明監督の『野良犬』や『七人の侍』を見て感動。役者を志し、演劇研究所に通うようになる。それと並行して高校卒業の資格を取るために通信教育の高校へも入る。1962年、通信教育による高校卒業資格取得後、本格的に役者を目指して上京する。東京芸術座研究所第1期生となり、1963年、劇団俳優座養成所15期生となる。同期に地井武男原田芳雄夏八木勲小野武彦村井国夫林隆三高橋長英秋野太作浜畑賢吉竜崎勝栗原小巻太地喜和子赤座美代子三田和代らがいる。工事現場や印刷工、サンドウィッチマンなどの労働に励みながら役者になるチャンスをうかがった。1964年、2学年上の妻と結婚する。

大阪の家具屋時代には、当時大阪市淀川区十三で新婚生活を送っていた大村崑兵庫県尼崎への引っ越しを手伝ったことがある。

デビューから1966年までは本名の前田信明で活動し、翌1967年より現在の芸名へ改名し活動中。

俳優仲間からは「吟ちゃん」、後輩の役者達やタレント陣からは「吟さん」の愛称で呼ばれる。

1964年、『判決』第1シリーズ・第105話「沖縄の子」(NET)でデビュー。1965年、『純愛物語』(朝日放送)に主役として出演する。

1968年、現在の芸名に改名直後に出演した『ドレイ工場』で誠実な工員役を演じる。この演技が山田洋次監督の目にとまり、1969年、山田監督の映画『男はつらいよ』に寅次郎の妹さくらに惚れる印刷工・諏訪博役として出演した。この役柄に前田の人柄がベストマッチし、さくらと結婚した博としてシリーズ48作全部に出演した。26年の付き合いとなった渥美清からは一度も演技についての助言はなかったが哲学者みたいに『吟ちゃん、スーパーマンは飛べないんだよ』と言われることはあり、僕の解釈としては、『映画の中のスーパーマンは空を飛べるけど、スーパーマンを演じる役者は空を飛べない』ということ。役者は全てを自分で表現するしかない。寅さんはみんなを笑わせて劇場で大歓声を受けているけど、あれは役柄としての『寅さん』であって、『俺自身はあんなに人を笑わせたり楽しませたりできないんだよ』と渥美さんは言いたかったんじゃないかなと推測している。

1973年には深作欣二監督『仁義なき戦い 広島死闘篇』で広能組々長(菅原文太)の子分・島田幸一を演じる。

橋田壽賀子石井ふく子関連作品には多数出演しており、特に『渡る世間は鬼ばかり』での野田弥生の夫・野田良役は20数年に渡って演じたキャラクターとして有名。

大映ドラマへの起用も多く、しぶとい悪役を好演した。

2002年4月、テレビ朝日系の『スーパーモーニング』の司会を務めたことがある。

また、歌手としてもシングルレコード3枚、シングルCD1枚をリリースしている。

近年ではテレビ・ラジオのバラエティ番組やトーク番組、新聞・雑誌等のインタビューへの出演も多い。

出演

テレビドラマ

※2017年9月18日に放送した渡る世間は鬼ばかり 史上初3時間スペシャルに出演

映画

舞台

ネットドラマ

バラエティ

情報番組

トーク番組

CM

歌手活動

シングルレコード

『ささやかな人生』は、主演映画『看護婦のオヤジがんばる』(原作:藤田健次)の主題歌。
『あゝ単身赴任〜昭和ひとり旅〜』は、同じく俳優の安井昌二ビクターエンタテインメント)・蟹江敬三日本クラウン)との競作。
武田薬品工業「タケダ胃腸薬21」CMソング。芦川よしみ矢崎滋日本クラウン)・日野美歌葵司朗徳間ジャパン)らとの競作。前田は滝里美とのデュエット。

シングルCD

2曲ともに、三笠優子とのデュエット。

脚注

  1. 作品情報『フローレンスは眠る』”. 映画.com. . 2016閲覧.

関連項目