北面武士

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北面武士(ほくめんのぶし)とは、院御所の北面(北側の部屋)の下に詰め、上皇の身辺を警衛、あるいは御幸に供奉した武士のこと。11世紀末に白河法皇が創設した。院の直属軍として、主に寺社の強訴を防ぐために動員された。

概要

北面について『愚管抄』は次のように説明している。

「此御時、院中上下の北面を置かれて上は諸大夫、下は衛府所司允(じょう)が多く候(さぶらい)て、下北面御幸の御後には箭(や)負(おい)て、つかまつりけり、後にも皆其例也」

そこにいわれるように、北面は上北面と下北面に分かれている。「上」(シャウ)は殿上の2間が詰所となって、四位・五位の諸大夫層が中心となる。その多くは文官で、最終的に公卿まで昇進する者もいた。これに対して、「下」(カ、またはケ)は殿上ではなく御所の北の築地に沿う五間屋であり、六位の身分の者が中心となる。近習や護持僧もいるが大部分は武士であり、一般的に北面武士といえば、下北面(北面下臈とも)を指す。

創設の時期は、白河法皇の政治介入に批判的だった関白藤原師通が急逝し、摂関家が弱体化した康和年間(1099年1104年)と推測される[1]。当初の北面は近習や寵童(男色の相手)など、院と個人的に関係の深い者で構成されていたが、院の権勢が高まると摂関家に伺候していた軍事貴族も包摂するようになり、その規模は急激に膨張した。新たに北面に加わった軍事貴族は、それぞれがある程度の武士団を従えた将軍・将校クラスであり、元永元年(1118年)、延暦寺の強訴を防ぐため賀茂河原に派遣された部隊だけで「千余人」に達したという(『中右記』5月22日条)。

従来、院の警護を担当していた武者所は機能を吸収され、北面武士の郎党となる者も現れてその地位は低落した[2]。また白河法皇は北面武士を次々に検非違使に抜擢し、検非違使別当を介さず直接に指示を下したため、検非違使庁の形骸化も進行した。平正盛忠盛父子は北面武士の筆頭となり、それをテコに院庁での地位を上昇させていった。

北面武士の在籍者

創設期

近習・寵童・護持僧

軍事貴族

白河院政末期〜鳥羽院政期

坂戸源氏

越後平氏

美濃源氏

伊勢平氏正衡

伊勢平氏貞季

伊勢平氏直方

清和源氏満政

河内源氏義家

藤原北家秀郷流佐藤氏

その他

後白河院政期

後鳥羽院政期

後鳥羽院政期には、他に西面武士も設立された。承久の乱後に廃止となる。

承久の乱以降

後花園天皇期

甲斐源氏加賀美氏流

承久の乱で、院の武力組織は壊滅した。北面武士は残されたものの、その規模は縮小して単なる御所の警備隊と化し、室町時代安土桃山時代江戸時代と変遷するにしたがって警備隊の機能すら失った。近世で最も御所に兵火が迫った禁門の変においても全く登場する事がなかったが、家柄を表す名目として明治維新まで存続する。江戸時代の北面武士としては三上景文などがいる。

脚注

  1. 『為房卿記』康和5年(1103年)8月17日条に「北面伺候五位六位十人許」とあるのが、北面の初見である。
  2. 天永4年(1113年)に白河院武者所・宗友が盗賊追捕の賞により左兵衛尉に任じられたが、宗友は平忠盛郎等と記されている(『長秋記』3月14日条)。
  3. 為義については摂関家の家人であり北面ではないとする見解が一般的であるが、『愚管抄』に「キタオモテ(北面)」と明記され、院主催の流鏑馬行事や強訴防御にも登場することから、北面に在籍していたとする説もある(横澤大典「白河・鳥羽院政期における京都の軍事警察制度-院権力と軍事動員-」『古代文化』527、2002年平成14年))。

参考文献

関連項目