原子模型

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原子模型(げんしもけい、: atomic theory, atomic model)とは、原子の内部の構造についてのモデルである。

概略

原子の中心にはプラスの電荷を持ち、原子の質量の大半を担う原子核が存在する。原子核の大きさは {{safesubst:#invoke:val|main}} 程度であり、原子の大きさ {{safesubst:#invoke:val|main}} に比べると格段に小さい。原子番号 p質量数 a の原子の原子核はプラスの電荷を持つハドロンである陽子 p 個と電気的に中性なハドロンである中性子 (ap) 個、合わせて a 個の核子からなる。陽子の数によってその原子の種類(元素)が決まる。陽子の数が同じで中性子の数が異なる原子は、同じ元素であるが質量が異なるものとなり同位体と呼ばれる。

陽子と中性子は核力と呼ばれる力によって結びついている。核力核子同士がπ中間子を交換することによって働く力であり、クーロン力よりもはるかに強い。このため、陽子同士の間にはクーロン反発があるにも関わらず、原子核は安定に存在できる。また、核力は原子核の直径程度の範囲にしか伝わらない力である。そのため、原子核の外部に対してはクーロン力のみが働くため原子核同士が簡単に融合してしまうこともない。

原子核の周りにはマイナスの電荷を持つレプトンである電子が存在する。電子1個の持つ電荷の大きさの絶対値は陽子1個のそれと等しい。すなわち電気的に中性な原子番号 p の原子内には p 個の電子が存在する。電子がこれよりも多かったり少なかったりすると、その原子は電気を帯びイオンとなる。

電子は原子核からの電気的な引力を受けているが、惑星のようにある特定の軌跡を描いて原子核の周りを運動しているわけではない。この電子の運動は量子力学によって説明されるが、これによれば電子は粒子としての性質だけでなく波動としての性質を持つ。このため、電子は原子核の周りに雲のように広がったある分布として描写される。この電子の分布のことを軌道という。原子内の電子の軌道は量子化されている。すなわち電子はある限られた軌道をとることだけが許されている。この軌道は主量子数 n 、角運動量量子数(方位量子数) l 、磁気量子数 m という3つの量子数によって指定される。電子はフェルミ粒子であるので、パウリの排他原理のため複数の電子が同一の状態を占めることはできない。電子はスピン角運動量を持ち、その方向によって2つの異なる状態を取ることができるので、1つの軌道には最大2つまでの電子が入ることができる。そのため、通常はエネルギーの一番低い軌道から順に2つずつ電子が入っていくことになる。

原子模型の歴史

近代的な原子の概念は1810年頃にドルトンによって確立されたが、彼が原子に atom(ギリシア語で不可分なもの)という名を与えたように当初は原子はそれ以上分解することは不可能であり内部に構造は存在しないものと考えられていた。

1830年頃ファラデー電気分解の研究を行い、溶液に電流を流すときに溶液中で電気を電極まで運ぶものとしてイオンを提唱した。さらに1884年にアレニウスは電離説を提唱し、溶液中に電荷を持つ原子が存在することを提唱した。これは原子が電荷を持つ何かを内部に持っていることを示唆していた。

1869年にヴィルヘルム・ヒットルフは、内部を減圧にしたガラス管内で放電を行なうとガラス管が蛍光を発するが、これが陰極から出ている何らかの放射線がガラス管に当たって出ていることを発見した。この放射線、陰極線は1890年代にJ.J.トムソンによって電荷と質量が測定されて、原子よりも極めて軽いマイナスの電荷を帯びた粒子、すなわち電子であることが明らかにされた。

一方、1897年にピーター・ゼーマンは原子の線スペクトルが磁場をかけると複数の線に分裂するゼーマン効果を発見した[1][2][3]ローレンツラーモアはこの現象を原子中に電気を持った粒子が存在しており、それが磁場で影響を受けるために起こると解釈した[4]

これらのことから、1901年ウィリアム・トムソン(ケルヴィン卿)は原子は広がった分布を持つ正電荷の中に負電荷を持つ電子が運動している構造を持つというモデルを提唱した。J.J.トムソンはさらにこのモデルの安定性を追求し、電子は正電荷の中で同心円状の軌道をとり、それぞれの軌道上には規則正しい角度で電子が配置されて回転運動しているというモデルを1904年に提唱した[5][6]。そして電子の配置のパターンは元素の化学的性質と関係していると考えた。このモデルは、電子を小粒のフルーツ、正電荷をそれが混ぜ込まれた生地に例えてブドウパンモデル: plum pudding model)と呼ばれる。また、1902年ルイス立方体モデル (cubical atomを発表した[7]

このモデルに対して、ジャン・ペラン長岡半太郎は中心に正電荷を持つ核があり、その周囲を電子が回転運動するモデルを考えた。1901年にペランはソルボンヌ大学の講義で[8]1903年に長岡は東京数学物理学会で[9][10]、それぞれ初めて発表している。ペランは自身のモデルを太陽系になぞらえて核-惑星モデル、長岡は土星の輪の安定性に関するマクスウェルの研究を参考にモデルを導いたことから土星型モデルと呼んだ。また、フィリップ・レーナルトは陰極線を用いた研究から、電気的に中性な電気双極子から成るディナミーデン模型を提唱した[11]。しかし、これらのモデルはあまり注目されなかった。

また、トムソンや長岡の原子模型では原子1個が含む電子の数は数百個~数万個と考えられていた。

1908年から1910年にかけてと1913年の4度、ハンス・ガイガーアーネスト・マースデンEnglish版は金箔によるα線ラザフォード散乱を観察するガイガー=マースデンの実験ラザフォードの指導の下で行なった[12][13][14][15]。最初の3回の実験結果から、ラザフォードは1911年に原子の中心にはプラスの電荷を持つ重い原子核が存在すると結論付けた[16]。これにより、核-惑星モデルや土星型モデルのように原子核の周りを離れて電子が周回していることが判明した。

しかし、核-惑星モデルや土星型モデルが想定していたよりも原子核の大きさははるかに小さかった。また原子核の正電荷の量も判明し、原子中の電子の数はトムソンや長岡が考えていたよりもはるかに少ないことも判明した。ラザフォードはこれらの結果をまとめた原子模型を提案し、後にこの原子模型はラザフォードの原子模型と呼ばれるようになった。これは、原子の質量のほとんどが原子核に集中するもので、太陽系のほとんどの質量が太陽に集中する太陽系モデルのようなものであった[17][18]

しかし、古典力学によれば原子核の周りを回転運動する電子は電磁波を放射して運動エネルギーを失い、やがて原子核に落下してしまう。また、原子の発光が線スペクトルであるという観察事実を説明することができなかった。この問題を解決するため1913年にボーアプランク量子仮説を原子内の電子に適用し、電子は原子核の周りを円運動しているが、角運動量プランク定数の整数倍を2πで割ったものとなる軌道だけが許されるという量子条件仮説を提唱した[19][20][21][22][23]。そしてこの許される軌道間を電子が移るときには、そのエネルギー差にあたる光子を放出し、その振動数はアインシュタインの光量子仮説に従うとした。このボーアの原子模型により水素原子の発する線スペクトルの波長を理論的に説明する事が可能になった。アーノルト・ゾンマーフェルトはこの量子条件を楕円軌道にも拡張するボーア=ゾンマーフェルトの量子化条件を発表し[24]、これにより多電子原子にも理論が拡張された。またボーアは、様々な原子の線スペクトルから1つの軌道(殻)に入ることができる電子の数が限られていることを見出した。また、最も外側にある殻に入っている電子の数が周期表と対応することも提案した。

しかし、これらのモデルは電子は古典力学に基づいてある軌道上を運動しているという前提で構築されていたため、光の散乱などの実験事実の説明ができなかった。

これを解決する糸口となったのは1923年にド・ブロイによって提唱された物質波の概念である。その後、実際に電子線回折の実験で電子が波動性を持つことが確認された。そして、ド・ブロイの考え方を発展させたシュレーディンガーが1926年に提唱したシュレーディンガー方程式を解くことにより、電子の運動も量子力学によって説明する現在の原子模型が導かれた。

原子核についての研究もほぼ同じ時期に進められた。1918年にラザフォードが窒素ガスにα線を当てると水素ガスが生成することを見出した。これは窒素原子が壊されて水素原子ができたためであり、窒素原子核の構成要素として水素原子核があるものと考えてこれを陽子と命名した。しかし原子核が陽子だけからなると考えると原子核の電荷と質量を同時に説明できない。そのため原子核の中には過剰の陽子の電荷を中和するだけの電子(核内電子)が存在していると考えられていた。

1930年にα線をリチウムベリリウムホウ素に照射すると非常に透過力の高い放射線が出ることがW・ボーテH・ベッカーによって発見された[25][26]。1932年にチャドウィックはこの放射線の正体が陽子とほぼ同じ質量を持つ電気的に中性な粒子であることを示し、これを中性子と命名した[27][28]。これを受けてハイゼンベルクは原子核が陽子と中性子からなるという現在のモデルを提唱した[29][30][31]

このようにして現在の原子模型が確立した。

脚注

出典

参考文献

書籍

原論文

関連項目

外部リンク

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