名護屋城

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名護屋城
佐賀県
別名 名護屋御旅館
城郭構造 梯郭式平山城
天守構造 望楼型5重7階(非現存)
築城主 豊臣秀吉
築城年 天正19年(1591年
主な改修者 なし
主な城主 豊臣秀吉
廃城年 慶長3年(1598年
遺構 石垣、空堀、井戸
指定文化財 国特別史跡
位置 北緯33度31分48.12秒
東経129度52分9.75秒
地図
名護屋城の位置
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名護屋城

名護屋城(なごやじょう)は、肥前国松浦郡名護屋(現在の佐賀県唐津市(旧東松浦郡鎮西町呼子町)、東松浦郡玄海町)にあった日本の城豊臣秀吉文禄・慶長の役に際し築かれた。国の特別史跡に指定されている。平成18年(2006年)には日本100名城(87番)に選定された。

概要

名護屋(古くは名久野)は海岸線沿いに細長く広がる松浦郡の北東部の小さな湾内に位置し、中世には松浦党の交易拠点の一つであった。ここにはもともと松浦党の旗頭・波多氏の一族である名護屋氏の居城、垣添城があったが、豊臣秀吉は大陸への進攻を企図した際、ここを前線基地として大掛かりな築城を行った。

名護屋城は波戸岬の丘陵(標高約90メートルほど)を中心に170,000平方メートルにわたり築かれた平山城の陣城である。五重天守や御殿が建てられ、周囲約3キロメートル内に120ヵ所ほどの陣屋がおかれた[1]。 城の周囲には城下町が築かれ、最盛期には人口10万人を超えるほど繁栄した。

秀吉の死後、大陸進攻が中止されたために城は廃城となったと考えられており、建物は寺沢広高によって唐津城に移築されたと伝わる[2]。石垣も江戸時代の島原の乱の後に一揆などの立て篭もりを防ぐ目的で要所が破却され、現在は部分が残る。歴史上人為的に破却された城跡であり、破却箇所の状況が復元保存されている[3]

黒澤明監督による『』(昭和60年(1985年)公開)のロケ地の一つに、名護屋城が選ばれ撮影が行われた。

名称

ファイル:NagoyaC Otemon.jpg
名護屋城大手門跡

史跡名称は、「名護屋城跡並陣跡」であるが、鎮西町教育委員会の堀苑孝志は、陣跡以外の遺物や遺跡の様子から、より包括的な名称として「肥前名護屋軍事都市遺跡」という名称を提唱している[4]

歴史・沿革

背景

天正15年(1587年)、豊臣秀吉九州平定をすると、天正18年(1590年)、奥州伊達政宗を服属させ、北条氏直を降し(小田原征伐)、徳川家康関東に移封し、天下統一を成し遂げた。国内統一を果たした秀吉は、世界に目を転じた。「高麗」つまり李氏朝鮮に、服属と征伐への協力を要請したが、朝鮮は拒絶した。その後も対馬宗義調らが複数の交渉を重ねるが、朝鮮側は拒絶の意志を変えなかった。なお秀吉は同様に琉球呂宋高山国台湾)にも使者を出した。

築城

ファイル:Sagoyajo01.jpg
浅野文庫所蔵 諸国古城之図[5]

宗義智から交渉決裂を聞いた秀吉は、天正19年(1591年)8月、「唐入り」を翌年春に決行することを全国に告げ、肥前名護屋に前線基地としての城築造を九州の大名に命じた。秀吉は自分の地元那古野と同じナゴヤという地名を奇遇に感じ、城の立つ山の名前が勝男山と縁起がいいことにも気を良くしこの地への築城を決めたのだが、この地の領主であった波多親はこれに反対したため不興をかった。また甥の内大臣豊臣秀次関白を譲って自らは太閤となった。9月、平戸城松浦鎮信に命じて壱岐の風本に城を築かせた。その築城の担当は、松浦鎮信、日野江城有馬晴信大村城大村喜前、五島城主五島純玄であった(宇久純玄はこの年、姓を五島に改める)。なお、城跡から出土した瓦に「天正十八年」の銘があるものが発見されたことから、築城開始時期が通説の天正19年より早かった可能性も考えられている。

10月上旬、全国の諸大名が名護屋へ到着し、城普請に取りかかった[6]。『松浦古事記』によれば、20万5570あまりの兵が高麗へ渡り、名護屋在陣は10万2415兵で、総計30万7985兵で陣立てされた[6]

築城に際し、縄張りを黒田孝高、そして黒田長政加藤清正小西行長寺沢広高らが普請奉行となり、九州の諸大名を中心に動員し、突貫工事で8か月後の文禄元年(1592年)3月に完成した。規模は当時の城郭では大坂城に次ぐ広壮なものであった。

ルイス・フロイスが「あらゆる人手を欠いた荒れ地」と評した名護屋には、全国より大名衆が集結し、「野も山も空いたところがない」と水戸の平塚滝俊が書状に記している[7]。唐入りの期間は、肥前名護屋は日本の政治経済の中心となった[8]

作事衆

築城にあたっては本丸数寄屋や旅館などの作事奉行長谷川宗仁が担当した[9][6]。大手門は御牧勘兵衛尉が担当し、各所の建築が分担された[6]

構造

本丸・二の丸・三の丸・山里曲輪などを配し、本丸北西隅に望楼型5重7階の天守が築かれた。城跡からは金箔を施した瓦が出土しており、天守に葺かれていたものと考えられている。城郭の周辺には各大名の陣屋が配置された。

  • 本丸は東西五十六間、南北六十一間、総高さ三十二間一尺五寸であった。
  • 乾の角に天守台があり、高さ十五間。海より池まで十二間一尺、池より三の丸まで十四間三尺五寸。三の丸より本丸まで五間三尺五寸、以上右高さ也。池の長さ百六十三間也、巾十一間より三十一間まであった[6]
  • 二ノ丸は、東西四十五間、南北五十九間。掘立柱の長屋跡が発掘されたが、これは築城時の小屋であったと推定されている。
  • 遊撃曲輪は、東西廿六間、南北二十四間。門の礎石が発見されている。
  • 弾正曲輪は長さ九十五間、横四十五間又三十間。
  • 水ノ手曲輪は十五間四方。本丸等から流れ出る水をこの曲輪に集めたと伝わり、水関連の施設があったとされる。
  • 山里曲輪は東西百八十間、南北五十間横ニ廿間四方。茶室等があったとされる。
  • 城の廻りは十五町、城への入口は五ヶ所あり、大手門、西ノ門、北ノ門、舟手門、山里通用門だった[6]
  • 三ノ丸は、東西三十四間、南北六十二間。
  • このほか、腰曲輪・小曲輪・合而十一曲輪であった [6]

完成後も度々改築を繰り返したとされ、本丸西側は築城後に石垣部分を壊すことなくそのまま埋め立てて増築された事が判明し、旧石垣も発掘展示されている。三の丸櫓台北側では築城後に改造を受けて門が設置され、その後また撤去された事が発掘調査で判明している。 本丸大手、大手口、東出丸周辺も構造や櫓、城門に大きな相違が見られ、残された「肥前名護屋城図屏風」の二枚とも、現状と異なる部分が確認されている。

出兵後

西国衆を中心に総勢15万8000の兵が9軍に編成され、4月1日5月12日)に小西行長宗義智率いる第一陣が朝鮮半島へ出兵したのを皮切りに、名護屋を出発した諸隊は壱岐・対馬を経て朝鮮に渡っていった。秀吉は京都聚楽第3月26日5月7日)に出発し4月25日6月5日)に当地に到着している。以後大政所の危篤時を除いてこの地が本営となる。在城中、秀吉は渡海した諸将に指示を出す一方で、山里曲輪に築いた茶室で茶会を楽しんだり、瓜畑で仮装大会を催したりした。文禄の役では最終的に、20万以上の兵が名護屋から朝鮮に渡った。当地には西国衆の渡海後も、東国衆と秀吉旗本衆の約10万の兵が駐屯している。多くの人員を養うには水源が足りなかったようで、水不足が原因の喧嘩が絶えなかったという。

朝鮮半島で戦線が膠着すると、翌文禄2年(1593年)4月には講和交渉が開始されるが、交渉が破談すると秀吉は、再び慶長2年(1597年)2月から14万人を朝鮮半島へと上陸させた。

この慶長の役でも、補給・連絡の中継地として名護屋は重要な役割を果たした。慶長3年8月18日1598年9月18日)、秀吉が没したために全軍撤収し、名護屋城もその役割を終えた。出兵の期間中、秀吉が当城に滞在したのは延べ1年2か月であった。

文禄・慶長の役以後

朝鮮撤退後、この地は寺沢広高の治めるところとなった。関ヶ原の戦いの後、慶長7年(1602年)、広高は唐津城の築城を開始した。この際に名護屋城を解体し、その遺材を使用した。これ以降に、二度と城が利用できないように、要となる石垣の四隅を切り崩すなどの作業が行われたが、その理由と時期については明確でない。

岸田家文書によると、島原の乱直後に巡検した江戸幕府老中の指示で、一揆が起こった際に名護屋城が利用されないように破却したと記録されている。また、それ以前の一国一城令を受けての破却とも、名護屋城を破壊することで幕府が明国や朝鮮と関係を改善する意思表示をしたとの見方もある。また、大手門は伊達政宗に与えられ、仙台城に移築されたと伝わっている。

陣屋跡

名護屋城周辺には118ヵ所の陣跡が確認されており、うち65ヵ所に遺構が残っているが特別史跡に指定された陣跡は以下の23箇所。

関連施設

脚注

  1. 学習研究社編『【決定版】図説 よみがえる名城 漆黒の要塞 豊臣の城』 学習研究社 平成20年(2008年
  2. 平井聖監修『城』(九州沖縄 8) 毎日新聞社 平成8年(1996年
  3. 中井均・三浦正幸監修「城を復元する」学習研究社編『よみがえる日本の城30』 学習研究社 平成18年(2006年
  4. 笠谷和比古・黒田慶一『秀吉の野望と誤算』 文英堂 平成12年(2000年) 37頁
  5. 『浅野文庫所蔵 諸国古城之図』(矢守一彦編 新人物往来社 1981年)広島市立図書館特別集書
  6. 6.0 6.1 6.2 6.3 6.4 6.5 6.6 『松浦古事記』巻之下(小瀬甫菴道喜撰)・六 名護屋御陣所の事[1]
  7. 笠谷和比古・黒田慶一『秀吉の野望と誤算』文英堂,2000年
  8. 笠谷和比古・黒田慶一同書36頁
  9. 『萩藩閥閲録』・『太閤記』

参考文献

  • 『定本 日本城郭事典』 西ヶ谷恭弘、秋田書店、2000年。ISBN 4-253-00375-3。

関連項目

外部リンク