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(しゅう、拼音: Zhōu紀元前1046年頃 - 紀元前256年)は、中国古代の王朝を倒して王朝を開いた。紀元前771年の洛邑遷都を境に、それ以前を西周、以後を東周と、2つの時期に区分される。国姓(き)。周代において中国文明が成立したとみられる[1]

歴史

克殷

周の伝説上の始祖は后稷と言い、帝に仕えて、農政に功績があったという。古公亶父の時代に周の地に定住したと言われている。

古公亶父には3人の息子があり、上から太伯・虞仲季歴と言った。季歴の子の昌(後の文王)が誕生する際にさまざまな祥瑞[2]が起こり、古公亶父は「わが子孫で栄えるのは昌の子孫であろうか」と言っていた。古公亶父が季歴に後を継がせたいと考えていることを知った太伯と虞仲は出奔して南の荊蛮の地に赴いた。太伯は句呉[3](こうご)と号して国を興し、荊蛮の人々は多くこれに従った。

昌は後を継ぐと古公亶父の期待通りに周の勢力を拡大させ、より西伯[4]に任ぜられる。文王が西伯の地位にあった時にすでに周は殷を上回る力を備えていたが、文王はあくまで殷の臣下の地位に甘んじた。

文王の息子の武王は弟周公旦太公望召公奭らの助力を借りて暴虐が募ったとされる帝辛(紂王)を牧野の戦いで破り、周王朝を建てた。

成康の治

しかし武王は建国まもなくして死去する。後を継いだ成王は未だ幼少であり、殷の残存勢力は侮れないものがあった。ここで周公旦が摂政として政治を見ることになった(周公旦が即位したという説もある)。心配されたとおり、殷の遺民たちを治めさせていた武庚禄父と、周公旦の兄弟であるが周公旦が政権を握ることに不満を持つ管叔鮮蔡叔度が共謀して乱を起こす(三監の乱中文版)。周公旦は成王の命を受けてこれを鎮圧し、その後7年して成王が成長した後に、周公は一臣下に戻った。

成長した成王は周公旦・召公奭を左右に政務に取り組み、東夷を討って勢威を明らかにした。成王の後を継いだのが康王である。康王は召公と畢公を左右にしてよく天下を治めた。成王・康王の時代は天下泰平であり、40年にわたり刑罰を用いることがなかったという。

衰退

その後は徐々に衰退する。4代目の昭王は南方へ遠征を行ったが失敗し(後代の文献では遠征中に死亡したとされているが、同時代にその記述はない)、それ以降周は軍事的に攻勢から守勢に転じるようになった。5代目の穆王以降、王は親征することが無くなり、盛んに祭祀王として祭祀儀礼を行うことことで軍事的に弱まった王の権威を補っていくことになった[5]

6代目の共王から9代目の夷王までの王は影が薄いが、この時期に礼制が改められ、王が臣下を職務に任命する冊命儀礼などを通じて臣下に対する周王室への求心力の維持を図り、ひとまずの安定を得た[6]。しかし、夷王は紀侯の讒言を信じて斉の哀公釜茹での刑(烹)に処しており、その諸侯に対する暴虐さ・暗愚さが次代の厲王らへと受け継がれていった[7]

10代厲王は、周りに分け与えられるべき財を全て独占したために諸侯の間で不満が高まり、最終的には大反乱が起き、厲王は辺境に逃げ出した。王が不在となった後、宰相の共伯和が太子静(11代宣王)を擁して政治を行った。共伯和の伯をとって、のちにこの時代のことを共和と呼ぶようになった。なお、これには別説があり、周定公中文版召穆公中文版の2人の大臣が合議制で「共に和して」政治を行ったので共和と言うという説もある。現代で共和制というのは、この別説が由来となっている。

宣王の治世でわずかに周の国勢は回復したが、宣王も後半期には政治に倦むようになったために再び衰退する。

12代幽王の時代、から迎えていた皇后を廃し褒姒を皇后としたため、申の怒りを買い、申は犬戎を伴い王都へと攻め込んだ。幽王は殺され、褒姒の子の伯服(伯盤)も殺された。そこで、携王が即位した。これに反対する諸侯は、王子宜臼を擁し、東の洛邑(王城・成周)(現在の河南省洛陽市付近)へ移り、平王を立てた。周は東西に分かれて争い、東の平王が打ち勝った。ここから周は東周と呼ばれ、時代区分では春秋時代に移行する。

春秋戦国時代

春秋時代の周は、往時と比するべくもない程まで没落した。平王の孫である桓王は王権の再強化を図ったが、繻葛の戦い前707年)で一諸侯に過ぎないに敗れた事で諸侯に対する統制力を喪失した。

さらに、王室内で幾度も王位継承争いが発生したために周王室の力は弱体化し[8]、洛邑(王城・成周)周辺のみを支配する小国となっていった。現代の湖北省随州市付近にあった中文版の春秋時代の侯の墓に納められていた青銅器の銘文には、「周室既卑(しゅうしつすでにひくく)」と書かれている[9]。それでも権威だけは保持しており、諸侯たちはその権威を利用して諸侯の間の主導権を握ろうとした(春秋五覇)。周王室側も覇者をはじめとする諸侯に対して、西周以来の伝統と権威を強調することで祭祀を主催する立場の維持を図った[10]

しかし、その権威も春秋時代後半からは低下していった。例えば春秋時代の景公の墓の出土品の銘文では秦の君主を本来周王の称号であったはずの「天子」と称している[11]。また孔子の登場以降、西周の時代を理想化した礼制の整備が儒家や諸侯によって行われていくが、それらに対して周王室は全く主導権を発揮しておらず[12]、祭祀を主催する立場すら失っていた。

戦国時代に入ると、かつての覇者・太公望の子孫である斉(姜斉)といった周王室と歴史的に結びつきが強い諸侯が滅び、周王の権威や存在意義はますます低下していった。惠王は「王」・「天子」を称し、周王朝に取って代わる意思を示すほどであった[13]。東周23代目の王顕王は秦に対して春秋時代に覇者に対して行っていた儀礼を行うことで、秦の保護を受けようとしたが、既に春秋時代に天子を称していた秦の恵文王は王を称し、後には七雄の諸侯のみならず小国のや北辺の中山国の君主までもが王を称するようになった。秦の昭襄王田斉湣王に至っては一時「西帝」「東帝」と帝号を称した[14]

滅亡

最後の王である赧王の在位中は周王室の影響力はわずかに王畿(現在の洛陽附近)に限定され、周王室も貞定王の末子(桓公)を始祖とする西周公武公)と東周君君傑)の勢力に分裂しており、赧王は西周の武公を頼って西周(河南)に遷都した。祖父の顕王の時代よりの勢力が急速に拡大しており、諸々の政策でも周の勢力挽回は成功しなかった。

紀元前256年、武公の西周は諸侯と通じて韓と交戦中の軍を妨害したため秦の将軍楊摎の攻撃を受けた。西周君は秦へおもむき謝罪しその領土を秦に献上した。このため赧王は秦の保護下に入り、まもなく崩御した。秦が九鼎を移し、王畿を占拠したことで西周は滅亡することとなった。

赧王の死後も、昭文君の東周は7年間存続した。昭文君はの力を借りて六国の諸侯を連合させ、秦を討伐しようとしたが失敗し、その統治する地域は秦に奪われた。

ただ、国として滅びたのみで元の王族だった者達はそのまま存続を許された。

政治

周の官制については周の諸制度について周公旦が纏めたとされる『周礼』に非常に詳しい記述があるが、この書物の成立は戦国時代以降と見られているのでこれを以って周の官制を論ずるには無理がある。金文によると周には卿事寮(けいじりょう)・太史寮(たいしりょう)と呼ばれる2つの組織があった。卿事寮の長官は太保・太師の2つがあり、のちに太師だけになる。下に司馬(軍事担当)・司土(司徒、土地管理担当)・司工(司空)の職があり、各諸侯の下にも同じ職があった。太史寮の長官を太史と呼び、歴史の編纂・各種儀礼・祭祀などを行う。

身分制度については『春秋左氏伝』によると、王の下に諸侯がおり、その下に大夫(たいふ)と呼ばれる一種の貴族層があり、その下に士と呼ばれる層があり、その下が庶民となっている。ただし大夫と士と言う階級は金文には無い。前述したように取引される対象である一種の奴隷階層があったことは間違いなく、主に主人に代わって農作業を行っていた。この中には職工と思われる職もあり、青銅器鋳造に関わっていたと考えられる。

土地制度については井田制が行われていたとされるが、この制度も実際に行われていたかは疑問視する声が多い。

文化

殷の青銅器文化はその芸術性において最高の評価を与えられている。周も基本的にはその技術を受け継いでいたのだが、芸術性においては簡素化しており、殷代に比べればかなり低い評価となっている。

この時代の青銅器はほぼ全てが祭祀用であり、実用のものは少ない。器には占卜の結果を鋳込んである。これが金文と呼ばれるもので、この時代の貴重な資料となっている。殷代と比べて周代はこの文が非常に長いものとなっていることに特徴がある。

またそれまでの絶対的な祖先崇拝が薄められたことも殷と周との違いとして挙げられる。殷では祖先に対する崇拝と畏れが非常に強く、祭祀を怠ったりすればすぐにでも祟られるという考えを持っていた。

これらの青銅器に文字を鋳込む技術は王室の独占技術であったようで、諸侯には時に王室から下賜されることがあった。春秋時代に入るときの混乱から技術が諸侯にも伝播して諸侯の間でも青銅器に文字を鋳込むことが行われ始めた。

建築の分野では周に入ってからそれまでの茅葺きからが一般的になったことがわかっている。

投壺(とうこ)が始まったのも周代とされる。

都市と領土

ファイル:China map0420.gif
西周王朝、この時代、領土は点と点とを結んだネットワーク状のもので面領域ではない。よって周王朝の勢力領域を確定するのは困難であるので領域は設定せず、邑名だけ記入した。

殷代から春秋時代にかけての華北は、と呼ばれる都市国家が多数散在する時代であった。殷代、西周時代の邑は君主の住まいや宗廟等、邑の中核となる施設を丘陵上に設けて周囲を頑丈な城壁で囲い、さらにその周囲の一般居住区を比較的簡単な土壁で囲うという構造のものであった。戦時に住民は丘陵上の堅固な城壁で囲まれた区画に立てこもり防戦した。

東周時代には、外壁が強化され、内壁=城と、外壁=郭からなる二重構造、つまり、「内城外郭式」がとられるようになった。華北の城壁は、無尽蔵にある黄土を木の枠にしっかりとつき固め、堅い層を作りそれを重ねてゆく版築という工法によって築造されている。こうして作られた城壁は、極めて堅固な土壁となる。水には弱いが、もともと華北は雨量が少ない上、と呼ばれる、黄土を焼成して作られた煉瓦で城壁を覆い防水加工を施すため、あまり水の浸食を受けることもない。人為的破壊が無い限り城壁はかなり長い寿命を維持することができる。

邑は、城壁に囲まれた都市部と、その周辺の耕作地からなる。そして、その外側には、未開発地帯が広がり、狩猟・採集や牧畜経済を営む非都市生活の部族が生活していた。彼らは「」などと呼ばれ、自らの生業の産物をもって都市住民と交易を行ったがしばしば邑を襲撃し、略奪を行った。また、邑同士でも農耕や交易によって蓄積された富などを巡って武力を用いた紛争が行われていた。こうした紛争などにより存続が難しくなった小邑は、より大きな邑に政治的に従属するようになっていった。さらに春秋時代の争乱は、中小の邑の淘汰・併合をいっそう進めた。大邑による小邑の併合や、鉄器の普及による開発の進展で農地や都市人口が大規模に拡大したために、大邑はその領域を拡大して邑と邑の間に広がっていた非都市生活者の生活領域や経済活動域を消滅させてゆく。また、軍事が邑の指導者層である都市貴族戦士に担われる戦車戦から増大した農民人口によって担われる歩兵戦に重点が移行するとともにそれまで温存されていた大邑に従属する小邑が自立性を失って中央から役人が派遣されて統治を受ける「」へと変えられていった。こうして、春秋末から戦国にかけて、華北の政治形態は、都市国家群から領域国家群の併存へと発展していった。

主要諸侯

史記三世表には、周建国当時の有力な諸侯として以下の11国が記される(記載順)。

歴代王


備考

  • 周人は元々赤髪の人達であったという言い伝えがある[15]

関連項目

脚注

  1. ヴァルフラム・エバーハルト(1909-89)による。W・エバーハルト、白鳥芳郎監訳『古代中国の地方文化-華南・華東』六興出版、1987年。また佐々木高明『日本文化の多重構造−アジア的視野から日本文化を再考する』小学館、1997年、p.58
  2. めでたい兆し。聖人が生まれる際にはそのようなことが起きるとされていた。
  3. 紀元前586年寿夢が国号を句呉からに改めた。
  4. 国を東西南北に分けた時に西を管轄する権限を持つ諸侯。王の判断を待たずに独断で武力を用いてその地方を治めることを許される。
  5. 佐藤信弥『周-理想化された古代王朝-』中公新書 2016年 ISBN 978-4-12-102396-4 p.72-79
  6. 佐藤信弥『周-理想化された古代王朝-』p.82-107
  7. 佐藤信弥『周-理想化された古代王朝-』p.108
  8. 佐藤信弥『周-理想化された古代王朝-』p.166-169
  9. 佐藤信弥『周-理想化された古代王朝-』p.146
  10. 佐藤信弥『周-理想化された古代王朝-』p.172-175
  11. 佐藤信弥『周-理想化された古代王朝-』p.178-179
  12. 佐藤信弥『周-理想化された古代王朝-』p.182-202
  13. 佐藤信弥『周-理想化された古代王朝-』p.205-206
  14. 佐藤信弥『周-理想化された古代王朝-』p.206-208
  15. 陳舜臣 『中国の歴史 (三)』 講談社文庫 11刷1997年(1刷1990年) ISBN 4-06-184784-8 p.344.

参考文献

  • 『中国史1』山川出版社
  • 佐藤信弥『周-理想化された古代王朝-』中公新書 2016年 ISBN 978-4-12-102396-4