土御門天皇

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土御門天皇(つちみかどてんのう、1195年12月4日または1196年1月3日建久6年11月1日または12月2日) - 1231年11月6日寛喜3年10月11日))は、鎌倉時代の第83代天皇(在位:1198年2月18日建久9年1月11日 ) - 1210年12月12日承元4年11月25日))。為仁(ためひと)。

後鳥羽天皇の第一皇子。母は、源通親の養女(法勝寺執行法印能円の女)承明門院・源在子

略歴

建久9年1月11日(1198年2月18日)、父・後鳥羽天皇の譲位により3歳で践祚立太子はしていなかった。同年3月3日(4月10日)、即位。事実上後鳥羽上皇による院政がしかれていた。しかし、穏和な性格が幕府との関係上心許ないと見た後鳥羽上皇は、退位を迫り、承元4年11月25日(1210年12月12日)、異母弟の順徳天皇に譲位し、同年12月5日(12月22日)、上皇

京都では、外祖父である源通親が別当として権力を掌握し、鎌倉では正治元年1月13日(1199年2月9日)に源頼朝が亡くなり、事実上北条時政による御家人政治が行われていた。

承久3年(1221年)の承久の乱のおりには、土御門上皇は何も関与していなかったので処罰の対象にはならなかったが、父である後鳥羽院が遠流であるのに自分が京にいるのは忍びないと、自ら申し出て土佐国に流された。後に、より都に近い阿波国に移された。鎌倉幕府も後鳥羽・順徳両上皇とは違って、守護に対して阿波の宮殿を造営させるなどの厚遇振りを見せている。その地は、現在の阿波市御所など諸説あり、特定されていない。

寛喜3年(1231年)10月に出家し、同月崩御。

諡号・追号・異名

土佐、阿波に流されたことから、土佐院阿波院の別称がある。

系譜

系図

テンプレート:皇室鎌倉前期

后妃・皇子女

在位中の元号

陵・霊廟

(みささぎ)は、宮内庁により京都府長岡京市金ヶ原金原寺にある金原陵(かねがはらのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は八角丘。

徳島県鳴門市大麻町池谷には土御門天皇を御祭神とする阿波神社があり、境内に火葬塚がある。

皇居では、皇霊殿宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。また、大阪府三島郡島本町水無瀬神宮では、祭神として祀られている。

関連項目