大さん橋

提供: miniwiki
2018/9/30/ (日) 12:05時点におけるAdmin (トーク | 投稿記録)による版 (1版 をインポートしました)
(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
移動先:案内検索
横浜港 > 大さん橋

横浜港大さん橋ふ頭
Osanbashi Pier
大さん橋の位置
<div style="position: absolute; z-index: 2; top: 構文エラー: * の演算対象がありません。%; left: -44152.8%; height: 0; width: 0; margin: 0; padding: 0;">
情報
設計者 アレハンドロ・ザエラ・ポロ,
ファッシド・ムサヴィ
(エフ・オー・アーキテクツ)
構造設計者 渡辺邦夫+構造設計集団(SDG)
施工 清水東亜建設工業・東亜建設産業・日本鋼管工事・松尾JV鹿島フジタ相鉄・工藤JV、戸田東急・山岸・駿河JV
構造形式 混構造(R+S造)、折板構造+ガーダー構造
建築面積 27,270m2 m²
延床面積 34,732m2 m²
竣工 2002年(平成14年)11月
テンプレートを表示

大さん橋(おおさんばし)は、神奈川県横浜市中区にある横浜港港湾施設。1894年明治27年)に完成した鉄桟橋を前身とし、「税関桟橋」「横浜桟橋」「山下町桟橋」等のさまざまな名称があったが、その後、「大桟橋」に落ち着いた[1]。その他、太平洋戦争後連合軍に接収されていた間は「サウスピア」と呼ばれ[2][注 1]、明治の末頃から1970年頃までは「メリケン波止場」とも呼ばれていた[3]。前身施設は名実ともに桟橋であったが、2002年平成14年)に完成した現在の大さん橋は構造的には“桟橋”ではなく“岸壁”であり、平仮名混じりの「大さん橋」が正式な表記である[4][5]

横浜港大さん橋ふ頭及び横浜港大さん橋国際客船ターミナルにより構成され、横浜港における国内及び外国航路客船の主要発着埠頭である。横浜港の象徴的存在であると同時に、横浜市や横浜港における主要観光地としても知られている[6]

日本郵船の子会社・郵船クルーズクルーズ客船である飛鳥IIは横浜港が船籍港(母港)であり、大さん橋を拠点としている。また、横浜港周遊船であるロイヤルウイング伊豆諸島への離島旅客航路も持っている[7]

歴史と趨勢

ファイル:Osanbashi Pier from see.JPG
海上から見る大さん橋ふ頭

横浜開港から大桟橋建設まで

横浜港は1859年の開港以来急増する貨物量に対し、イギリス波止場(のちの「象の鼻」波止場と呼ばれる)やフランス波止場[8]と呼ばれる荷役に必要な小規模の船溜まりこそあったものの、直接岸壁に接岸し荷役を行える施設がなかった。増加一途の貨物量は艀荷役だけでは対応しきれなくなり、接岸荷役を可能にする近代埠頭の必要性が高まっていった[9]。艀荷役は、慢性的な埠頭不足により、近年のコンテナ輸送への質的転換迄、息長くことになるのだが、まずは近代国家に相応しい埠頭を建設することが当時の早急の課題とされた。明治維新直後から井上馨大蔵大輔や、神奈川県知事からの要請等により、1870年に工部省お雇い外国人の英国人技師リチャード・ヘンリー・プラントンによる横浜築港桟橋計画の提案[10]や、1874年には内務省お雇い外国人オランダ人技師ファン・ドールンにより築港計画提案[11]に至り、大隈重信大蔵卿からも接岸荷役体制に向けた築港計画が上申される等、多くの要望があったが実現できなかった[11]。また当時既に東京港建設の機運があり、品川沖に築港する案もあったが、横浜からの反対や財政難により、これも実現しなかった。

横浜開港から27年が経過した1886年になり、機運はいよいよ高まり、内務省からオランダ人技師デ・リーケへの設計要請や、神奈川県より英国陸軍大佐であり技官であったヘンリー・スペンサー・パーマーへの設計要請となった[12]。しかし両者の設計案は時の明治政府内でも議論が拮抗し、さらに政府内ではその上位案件として、東京港建設と横浜港建設のどちらを先行させるかといった議論が深まっていた。時に外務大臣になっていた大隈重信は横浜港建設を強く進言し、さらにパーマーが英国タイムス記者を兼職し同紙上で日本を好意的に報道した実績[9]や、不平等条約改正に向けた日英同盟への動きと相交じり、正式にパーマーの横浜港築港案が採択された[9]。さらに下関砲撃事件での賠償のうち、米国への支払った賠償金が、1883年にグラント大統領及び米国議会承認より日本への償還が承認されており、償還賠償金785,000ドルを充当させることで資金的目処も整った[9]

この時期に横浜築港が正式決定されたことが、後年の横浜港や横浜市の発展に繋がる決定的瞬間であったともいえる。

こうして1889年に横浜築港第一期工事が始まり、接岸荷役が可能な埠頭の建設が始まった。しかし基礎に必要な螺旋杭は当時の日本の精錬所からは供給できなかったため、大量の螺旋杭を輸入して建築された。こうして1894年に現在の大さん橋の前身となる「鉄桟橋」が完成した[13]。鉄桟橋は陸地からの総延長738メートル、桟橋部分は457メートル、幅19.2メートルの当時の技術で最先端を行く近代埠頭であった。

鉄桟橋の完成をみたものの、横浜港の貨物取扱量は近代日本の急成長と共に急増の一途をたどり、外航路客船はともかく、依然として艀荷役に依存せざるを得ない状況であった。これは貨物滞留や物流遅延を招き、横浜経済財界人からも更なる横浜港拡充の要請が強まっていった。これが横浜築港第二期工事と繋がり、新港埠頭建設へと繋がっていった[14]。横浜築港第二期工事では「鉄桟橋」も拡張され幅42.8メートルとなり、2つの木造2層型上屋が新設され、低層部は貨物倉庫、上層部は旅客施設や旅具検査場、並びに電信電話設備や事務室が併設された。1913年に第二期工事は完成した[13]

こうして鉄桟橋は外国航路の貨客船における日本の主要拠点となり、当時の日本郵船、東洋汽船大阪商船など日本海運業界の表玄関の一つとして利用され、外国海運業界の外国定期航路の拠点として活躍した。欧州航路では英国P&O、北ドイツ・ロイド、フランス郵船、北米航路では米国太平洋郵船、カナダ太平洋汽船、アメリカンプレジデントライン等が定期航路を敷くようになった。新港埠頭が完成すると、外国航路の一部を移譲した。新港埠頭4号岸壁は日本郵船の北米航路が使用し。9号岸壁は欧州航路が接岸する等鉄桟橋の負荷を緩和させた。鉄桟橋は外国籍船と日本郵船のシアトル航路が発着するようになった。新港埠頭4号岸壁からは、太平洋戦争後もシアトル航路に復帰した日本郵船の氷川丸が発着を続けた。しかし氷川丸は1960年に最終航海を終了させるに伴い新港埠頭の旅客業務も終了した。

鉄桟橋(後の大桟橋)を含む横浜港からは生糸が主要な輸出品であり、当時の日本に大きな外貨獲得機会をもたらした[13]。生糸や茶貿易で大きく成長した横浜商社もあった。原三渓の歴史や、現在も観光名所である三渓園シルクセンターに往事を偲ぶことができる。輸入品としては大豆小麦綿花石炭等があった。

関東大震災による倒壊と復興

1923年9月1日の関東大震災により大桟橋は崩壊した[12]。大桟橋には当時3隻の客船が接岸しており、カナダ太平洋汽船のエンプレス・オブ・オーストラリアの船長サミュエル・ロビンソンが当時の救出活動や罹災状況につき詳細な記録を残している[15]。ロビンソンは被災者の船上への救出活動などで活躍し、紅綬褒章を受章したのを始め、各国でも救助活動を高く評価され勲章を与えられている。大桟橋の復旧は1923年10月から始まり、1925年9月には完成した[16]。1928年迄に2棟の上屋が建設され、チャータード銀行、香港上海銀行支店が開設され、帝国ホテル直営の桟橋レストランが開業した[16]

この頃から海運競争力維持や国威高揚も兼ねて日本船籍の新鋭客船新造が相次ぎ、外国新造大型船も続々と入港するようになり、大桟橋は黄金期を迎え多忙な桟橋となった。チャーリー・チャップリンの来日も大桟橋から始まるなど、大桟橋を場とした国際旅客の乗下船による文化交流が最も盛んな時代であったといえる。一方では、昭和恐慌により疲弊した農村部からの南米移民が急増した時代でもあり、大桟橋は南米移民の日本出発の最終拠点として周辺の移民宿と共に歴史に大きな軌跡を残していくことになる。

太平洋戦争と連合国接収、接収解除

太平洋戦争終結により大桟橋は連合国に接収され[12]サウスピアと改称された[2]降伏調印の為に米国戦艦ミズーリ号に向かった重光外相も大桟橋から小型船に乗船している。連合国も当初GHQを置いたのも大桟橋に程近いホテルニューグランドであり、大桟橋が時代の節目で日本の歴史に深くかかわることが横浜の開港以来の宿命を如実に表している。大桟橋は1952年2月15日に接収解除となり[17]、北米定期航路にはアメリカン・プレジデント・ラインの「プレジデント・ウィルソン」や「プレジデント・クリーブランド」、欧州航路にはP&Oの「チューサン」やオリエントラインの「オロンセイ」などが就航し、日本郵船の氷川丸がシアトル航路に復活するなど、第二の往事を迎えた。また移民船として「ぶらじる丸」、「あるぜんちな丸」等が就航し、1960年代初頭までの第二の南アメリカ移民ブームを支えた。またのちにナホトカ定期航路も開設され、シベリア鉄道に乗継ぐことで、安価な旅費での欧州渡航が人気を博した。この頃の氷川丸でフルブライト留学生として渡米した人々も少なくなく、また宝塚歌劇団の渡米にも利用された。1968年4月には世界一周クルーズ中のキュナード・ラインの「カロニア」が来航した(同船は出帆時に港口の白灯台を薙倒す事故を起こした)。

東京オリンピックから1970年代初頭

1964年の東京オリンピックに合わせて3度目の大改修が行われた。国際船客ターミナルとしての高機能化が図られ、2階建国際船客ターミナルが完成した。1階部分に税関・出入国管理・検疫施設を構え、2階部分に渡航旅客や歓送迎者用待合所や土産物店向け設備が整えられた。

自走式ボーディングブリッジにより、接岸船舶の高度差や位置に関わらず、ターミナルからの乗下船が容易になるなど、当時としては最高位の機能を備えていた。1970年には貨客船寄港数が過去最高となったが、海外渡航の主力は空路になっており、ボーイング747就航による航空輸送力の増強や、海路旅行者の激減、1970年代初頭の石油危機による原油価格高騰により、外航貨客船航路は急速に衰退した。

1973年には、あるぜんちな丸の最終航海によって、1世紀に渡る海外移民航路が終焉した。一方1975年3月には、クイーン・エリザベス2が初入港し、空前の52万人の見物客で溢れ返った。以降、大桟橋に寄港する客船は、全てがクルーズ客船となり「ロイヤルバイキングスター」「キャンベラ」「ロッテルダム」が、主に横浜を寄港地とするようになった。

特筆すべきは、旧ソ連極東船舶公社がナホトカ定期航路を持続運用し、1980年代全体を通して、横浜港を国際旅客定期航路保有の港としての威容を保った。

1980年代から現在

1980年代から、斜陽化する海運旅客事業を憂う声がある一方、クルーズ産業の興隆という新しいクルーズ客船の在り方が脚光を浴び始め、日本の経済成長に伴い、日本市場のクルーズ人口も拡大してきた。船舶の巨大化と、大桟橋そのものが設備更新時期を迎え、1989年から大桟橋改修事業が着手され、2002年に新たな大さん橋国際船客ターミナルが完成した。

設計は、国際コンペ660件の応募から、アレハンドロ・ザエラ・ポロ とファッシド・ムサヴィの設計が選定された。構造は地下1階地上2階建の鉄筋コンクリート造となっており、全床面積は44,000平方メートルとなっている。1階は駐車場となっており、約400台の普通車に対応でき、2階は出入国ロビーとして、インフォメーション、発券所、船客待合場所、店舗、レストランがあり、同階でCIQ機能を備え、税関、出入国管理、検疫施設 がある。

また 第1と第2ホールを備え、多目的に利用できるスペースを確保している。A、Bバースは延長450m、水深12mを備え、C、Dバースは延長450m、水深10〜11mとなっており3万トンクラスの客船は4隻、より大きな客船は同時2隻着岸が可能となった。バリアフリー型渡船橋4基装備により、今後のクルーズ客船増加に対応できる埠頭として整備された。

建物2Fや屋上床はブラジル産イペを使用したウッドデッキになっており、さらに天然芝の緑地を設けてある。接岸船舶からの眺望や周辺空間の眺望を遮らないことを考慮し、比較的低層構造となっている。2000年代から横浜市からも積極的な客船誘致を行い、2011年の年間客船入港数は全国港湾の中で9年連続の1位となった[18]。大さん橋の稼働能力を活かすため、より一層のクルーズ客船寄港誘致を進め、港湾機能の維持拡大や、港勢拡大を行い、乗船客及び観光集客増に結び付け、地域経済の発展に寄与させることが課題となっている。

2017年1月には訪日クルーズ客の増加を見込み、国土交通省が官民連携により施設整備を行う「国際クルーズ拠点」の一つとして、横浜港の大さん橋と新港地区を選定した。大さん橋では郵船クルーズが旅客ターミナル内に待合ラウンジを整備する計画で[19]、同社のクルーズ客船「飛鳥II」による岸壁の優先使用(15年〜20年間)が認められることとなった[20][21][22]

パナマックス問題

クルーズ客船寄港誘致が課題であるが、2000年代の超大型クルーズ船(海面上の高さ〈マスト高〉がパナマックスの高さ制限である57.91mクラス)が横浜ベイブリッジ下(主塔高175m・主塔上端から道路部まで120m=海面から道路部までの高さ約55m)のクリアランス(船が通過できる高さ)を達成出来ないため、大さん橋に着岸できない。そのため、2009年と2010年のクイーン・メリー2横浜港寄港では、旅客用の大さん橋ではなく、貨物埠頭である大黒埠頭に着岸した。

しかし、本来は貨物埠頭の上、横浜市の中心部である中区から離れている事など、クルーズ客船に乗船している乗客の不満から、キュナード・ラインはクイーン・メリー2の日本寄港地を大阪港に変更したため[23]、横浜市民からはこれを憂う声が高まった。その後、キュナード・ラインは2014年にクイーン・エリザベスを寄港させ、干潮時に横浜ベイブリッジを通過することで、大さん橋への接岸を可能にした。

横浜港における横浜ベイブリッジをくぐれない超大型クルーズ船問題の抜本的な解決策として、横浜市では横浜ベイブリッジ外側にある本牧埠頭や大黒埠頭の岸壁を超大型クルーズ船(海面上の高さ〈マスト高〉が55m以上の船)に対応した「客船ターミナル」として再整備する方針を示しており[24][25][注 2]、さらに新港埠頭山下埠頭にも客船ターミナルを整備することで、今後のクルーズ客船需要を取り込み、市内観光の活性化に繋げるための検討が進められている[25][26][注 3]

国際客船ターミナル機能

大さん橋国際客船ターミナル (Osanbashi International Passenger Terminal) は横浜港で大型客船が複数同時着岸できる主要旅客ターミナルとして建設された。クイーン・エリザベス2クラスの客船が2隻同時着岸できる。また3万トン以下クラスの客船であれば4隻同時着岸が可能であり、その規模は神戸港の新港第四突堤(神戸ポートターミナル)に次ぐ。建物は、内部に柱・梁がなく[27]、また階段が無くスロープやエレベータで昇り降りする非常に先取的構造となっている。また、屋上はウッドデッキ及び芝生広場となっており、24時間自由に出入りできる、公園のような場所となっている。

大さん橋は海路からの出入国の場であり、横浜港や横浜税関を経由する旅客の出入国の場である。現在でも外国航路にでるクルーズ客船に乗下船する際は、ここで通関や出入国手続きや手荷物検査を行う。乗下船は基本的にはボーディング・ブリッジを使用してターミナルを経由して行うが、寄港するだけの場合はツアーバスを停めるスペースの関係上、タラップを使用しての岸壁経由となる。

大さん橋は国内離島航路もあり、伊豆諸島に向かう東海汽船の定期航路の発着場としても広く利用されている。

大さん橋ホール

大さん橋ホール (Osanbashi Hall) は、大さん橋の2Fの奥に位置する多目的ホールである[28]相鉄企業・横浜港振興協会・相鉄エージェンシー共同事業体が管理・運営している。床面・壁面はウッドデッキ仕上げ、正面奥は強化ガラスウォールであり、横浜ベイブリッジ方面を望むことが出来る。広さは約2,000m2であり、天井高は6.5〜7.5mある。最大で1,200名の収容が可能であり、屋上フリースペースから連続した空間としての利用も可能である。 朱孝天のアルバム「On Ken's Time」に収録されている「La La La」のミュージックビデオ収録地でもある。

新しい愛称「くじらのせなか」

大さん橋屋上のフリースペースは、大型客船の入出港時等は多くの見物客で賑わい、今や横浜の一大観光スポットとなっているが、このスペースをより親しみやすい場所に育てるべく、2006年に横浜市港湾局が愛称を一般から公募した。その結果、大さん橋全体を大きなクジラに見立てイメージされた「くじらのせなか」が選定され、同年12月に公式な愛称となった[29][30]

なお、この愛称を派生させる形で、大さん橋の室内部分が「くじらのおなか」と呼ばれるケースも生じており、例えばミニコンサート等のイベントが行われる場合、「くじらのおなかコンサート」といった言葉の用いられ方が成されている[31]

交通

ギャラリー

周辺

脚注

注釈

  1. 同様に瑞穂埠頭は「ノースピア」、新港埠頭は「センターピア」と呼ばれた。
  2. ちなみに東京港においては、レインボーブリッジ外側にある「船の科学館」跡地(東京臨海副都心)に超大型クルーズ船用の客船ターミナルを建設することが決定している。
  3. 横浜港は2017年7月に国土交通省より「国際旅客船拠点形成港湾」に指定されており、横浜市ではその拠点として大さん橋や新港埠頭、山下埠頭、本牧埠頭の計4箇所を想定している(整備目標は2025年。なお、これらに含まれない大黒埠頭の扱いについては、本牧埠頭に22万総トン級の超大型クルーズ船に対応した多目的岸壁を整備する〈同年目標〉までの繋ぎとして2019年より暫定活用する方針)[25][26]

出典

  1. 田中祥夫 2007年, 49 - 50頁
  2. 2.0 2.1 『横浜市史II』 第2巻(上) 7頁
  3. 田中祥夫 2007年, 107 - 115頁
  4. 「座談会 横浜港大さん橋」(『有隣』414、有隣堂、2002)
  5. 横浜市港湾関係例規集(「横浜市港湾施設使用条例第2条第2項の規定に基づく港湾施設の告示」を参照)
  6. 横浜観光情報公式サイト 横浜で遊ぶ”. 神奈川県横浜市. . 2011閲覧.
  7. 横浜港客船入港予定(スケジュール)”. 神奈川県横浜市. . 2011閲覧.
  8. よこはま事始め フランス波止場”. 神奈川県横浜市. . 2011閲覧.
  9. 9.0 9.1 9.2 9.3 『横浜大桟橋物語』 33頁
  10. 田中祥夫 2007年, 32 - 35頁
  11. 11.0 11.1 田中祥夫 2007年, 35 - 36頁
  12. 12.0 12.1 12.2 中区まちづくり方針”. 神奈川県横浜市 (2005年7月1日). . 2011閲覧.
  13. 13.0 13.1 13.2 平成18年度 横浜市包括外部監査報告書 9ページ”. 神奈川県横浜市 (2007年3月). . 2011閲覧.
  14. 『横浜大桟橋物語』 44頁
  15. 『横浜大桟橋物語』 54 - 59頁
  16. 16.0 16.1 『横浜大桟橋物語』 60頁
  17. 『横浜市史II』 第2巻(上) 332頁
  18. “横浜港が9年連続の客船寄港数日本一、震災影響も回復/神奈川”. 神奈川新聞社〈カナロコ〉. (2012年1月15日). オリジナル2013年5月1日時点によるアーカイブ。. http://archive.fo/hpYxa 
  19. 国際クルーズ拠点:計画書(目論見)の概要 (PDF) (国土交通省)
  20. 国際クルーズ拠点、横浜など6港選定 国交省(日本経済新聞 2017年1月31日)
  21. 国交省、6港を「官民連携クルーズ拠点」に、4社が投資に意欲(トラベルビジョン 2017年1月31日)
  22. 横浜港、クルーズ船母港に・・・飛鳥2など2隻(読売新聞 2017年3月2日)
  23. ベイブリッジくぐれず「クイーン・メリー2」の2011年寄港地は大阪港に、横浜港では見納めの可能性(神奈川新聞〈カナロコ〉 2010年5月28日/archive.isによる2012年7月16日時点のアーカイブ
  24. 横浜ベイブリッジをくぐれない大型客船の対応策は?(はまれぽ.com 2013年3月24日)
  25. 25.0 25.1 25.2 横浜市/国際旅客船拠点形成計画/超大型客船対応など受入機能強化(日刊建設工業新聞 2018年1月4日〈5面〉
  26. 26.0 26.1 横浜港国際旅客船拠点形成計画 (PDF) (横浜市 2017年12月)
  27. 横浜市会 会議録 平成13年第2回定例会”. 神奈川県横浜市 (2001年6月5日). . 2011閲覧.
  28. 大さん橋ホール”. 神奈川県横浜市. . 2011閲覧.
  29. 大さん橋屋上広場「くじらのせなか」愛称が決定しました。”. 横浜市 (2006年12月4日). . 2012閲覧.
  30. “大さん橋の屋上広場の愛称が「くじらのせなか」 に決定”. ヨコハマ経済新聞. (2006年12月6日). http://www.hamakei.com/headline/2037/ . 2012閲覧. 
  31. よこはま大さん橋フェスタ2016:くじらのおなかコンサート フェスタスペシャル(よこはま大さん橋フェスタ公式サイト)
  32. 日本大通り駅”. 横浜高速鉄道株式会社. . 2012閲覧.
  33. 水上バスダイヤ”. 京浜フェリーボート. . 2011閲覧.

参考文献

  • 『横浜市史II』第2巻(上)、横浜市、1999年。
  • 『横浜大桟橋物語』 客船とみなと遺産の会、JTBパブリッシング、2004年。ISBN 9784533056239。
  • 田中祥夫 『横浜港の七不思議―象の鼻・大桟橋・新港埠頭』 有隣堂、2007年。ISBN 9784896602005。

関連項目

外部リンク

座標: 東経139度38分52秒北緯35.45167度 東経139.64778度35.45167; 139.64778 テンプレート:Port of Yokohama