大正デモクラシー

提供: miniwiki
2018/7/23/ (月) 03:20時点におけるAdmin (トーク | 投稿記録)による版 (ページの作成:「日露戦後から大正末年までの間、政治、社会、文化の各方面に顕著に現れた民主主義的、自由主義的傾向をいう。中心部分を…」)
(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
移動先:案内検索

日露戦後から大正末年までの間、政治、社会、文化の各方面に顕著に現れた民主主義的、自由主義的傾向をいう。中心部分を占めるのは明治憲法体制に対抗する政治的自由獲得運動である。


第一期

1905年(明治38)の日露戦争非講和運動より1912~13年(大正1~2)の第一次護憲運動まで。非講和運動は藩閥政治打破の要求を含み、「外には帝国主義、内には立憲主義」の理念に指導された全国的な都市民衆運動であり、この点より大正デモクラシーの起点とすることができる。「外には帝国主義」の色彩は、1907年より09年にかけて展開された軍備拡張反対、悪税廃止を要求する商業会議所中心の運動を通して弱められた。2個師団増設問題を契機とする第一次護憲運動は、長州閥の桂(かつら)太郎内閣を倒したが、これは民衆運動が政府を倒した最初の例であり、政党の基礎をもたぬ政府は、天皇の詔勅の権威をもってしても維持できぬことを示した点で画期的な意味をもつ。これら諸運動の中核となったのは、日露戦争後の資本主義の発展が生み出した非特権資本家層と都市中間層であり、普通選挙、軍備縮小、満州放棄を唱えた『東洋経済新報』は、その政治意識をもっとも先鋭に代表するものであった。また美濃部達吉(みのべたつきち)の天皇機関説は、天皇の神格的絶対性を否定し、衆議院の国家機関における優越性と、政党内閣制の合憲性を主張することにより、護憲運動の要求に、憲法解釈上の合法性を与えた。この時期には市民的自由要求の声も盛り上がり、婦人解放の第一声たる平塚らいてうらの青鞜(せいとう)社、封建的な束縛に対する自我の解放をテーマとする自然主義や白樺(しらかば)派の文学運動に形象化された。


第二期

第一次護憲運動より1918年(大正7)の米騒動まで。第一次世界大戦の開始による大戦景気は、非特権資本家層の反動化をよび、護憲運動により危機に陥った体制は窮地を脱した。しかし増大する都市中間層を基盤に、デモクラシー運動の根は広がり、各地に普選を中心スローガンとする自主的な市民政社が生まれた。最大の発行部数を誇る『大阪朝日新聞』および知識人に人気のある『中央公論』を先頭に、ジャーナリズムはデモクラシー的風潮を鼓吹した。その風潮は、吉野作造(さくぞう)の民本主義に理念化されている。吉野は、主権在民を意味する「民主主義」を憲法上許容できぬとしながらも、主権運用の目的を民衆の利福の実現に置き、かつその運用を民衆の意思決定にゆだねるという「民本主義」を憲政の基本理念として設定し、これに基づく具体的政策として、内には普選と政党内閣制の採用、外には武断的侵略政策の放棄を説いた。民本主義は鈴木文治(ぶんじ)により労働運動に適用され、労働組合を媒介とする労資協調主義を唱える友愛会の結成となり、この組織は大戦中に急速に発展した。

第三期

米騒動より1924年(大正13)の第二次護憲運動まで。内には米騒動、外にはロシア革命以来のヨーロッパにおける革命的諸運動、およびILO(国際労働機関)の影響を受け、勤労民衆の政治的自覚がにわかに高まり、普選運動が全国的大衆運動として展開された。それとともに友愛会の後身日本労働総同盟を先頭とする労働組合運動、日本農民組合を主力とする農民運動、全国水平社の部落解放運動、新婦人協会などによる婦人参政権運動など民衆の実力により、言論・集会・結社の自由が実質的に拡大された。勤労民衆の要求は政治的自由より社会的自由へと拡大され、社会主義が急速に影響力を増大した。しかし社会主義のなかでも、政治行動を否定するアナルコ・サンジカリズムが支配的であったため、先進的労働者は普選運動から離脱した。平和に対する要望も広く民衆の間に強まり、シベリア出兵は国民的支持を欠いて敗北に終わり、ワシントン会議による軍備縮小は民衆に歓迎された。五・四、三・一の両民族運動のためもあって、露骨な中国侵略は手控えられ、朝鮮の武断的同化政策も修正された。最初の政党内閣たる原敬(たかし)政友会内閣の成立(1918)以来、発言権を強化した政党勢力は、デモクラシー運動の発展に適合すべき政治体制の修正をめぐって政争を繰り広げた。関東大震災と虎(とら)の門(もん)事件はにわかに支配層に革命近しの恐れを抱かせ、これを防止し、安定した支配体制を維持するための方策として、普選の採用、政党内閣制の樹立を望む憲政会・革新倶楽部(くらぶ)・政友会の護憲三派による第二次護憲運動がおこり、旧体制の保持を望む藩閥、官僚勢力および政友本党とを向こうに回しての選挙戦に勝利を得た。


結末

護憲三派を基礎として成立した加藤高明(たかあき)内閣以来、1932年(昭和7)の五・一五事件による犬養毅(いぬかいつよし)内閣の総辞職まで、政友・民政(憲政会の後身)の二大政党が交代で内閣を組織する政党政治の時代が展開する。日露戦前、山県有朋(やまがたありとも)を頂点とする藩閥官僚勢力が体制内で占めた地位を政党が奪取したのである。普選法成立(1925)の結果、日露戦前100万人に満たなかった有権者は1200万人を超え、本土人口の20%に達した。治安警察法第17条廃止(1926)および小作調停法(1924)、労働争議調停法(1926)の制定により、労働者・農民の団結権と争議権が形式的にせよ公認され、無制限の労働者搾取は緩和され、半封建的な高額小作料も20~30%減額された。労働者・農民の無産勢力は中央、地方の議会に進出し、婦人に地方議会の選挙権を与える婦人公民権法案も1930年には衆議院を通過した。国内民主化の進行と、ベルサイユ・ワシントン体制と称される第一次世界大戦後の、アメリカ主導による新国際秩序の圧力のもと、協調外交をうたう幣原(しではら)外交が日本外交の主流を占め、軍備も、第一次大戦中(1915)からの21個師団が、1926年には17個師団へと、日露戦争直後の水準に後退した。


課題

これらの成果も明治憲法体制を一新することはできなかった。憲法改正はもとより、枢密院・貴族院・参謀本部・軍令部など、議会中心主義を脅かす諸機構の権限縮小に手をつけるに至らなかった。既成政党勢力は他方では治安維持法(1925)を制定して無産勢力の政治的自由に新たな拘束を加え、また、労働組合法などの労働者保護法や、農民の耕作権を保障する小作法の制定を怠った。このため、世界大恐慌の襲来(1930)、大陸における日本権益を脅かす中国民族運動の発展という新事態に直面し、政党政治は無産勢力の要望を入れつつ局面を打開する方策をとりえず、一度は傘下に収めた中間層を含む民衆の信頼を喪失し、満州事変勃発(ぼっぱつ)以後軍部ファシズムの興隆に道を譲ることになった。しかし、大正デモクラシーを推進した民衆組織と思想は戦時下といえども潜在勢力を保持し、戦後、占領軍の非軍事化政策のもとに展開された戦後民主主義を支える基盤となった。