大韓帝国

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大韓帝国
朝鮮語表記
ハングル 대한제국
朝鮮の漢字 大韓帝國
日本語読み: だいかんていこく
片仮名転写: テハンジェグク
ラテン文字転写: RR:Daehan Jeguk
MR:Taehan Cheguk
中国語表記
繁体字 大韓帝國
簡体字 大韩帝国
ピンイン Dàhán Dìguó
英語表記
アルファベット Korean Empire
Empire of Korea
Imperial Korea
朝鮮歷史
朝鮮の歴史
考古学 櫛目文土器時代 8000 BC-1500 BC
無文土器時代 1500 BC-300 AD
伝説 檀君朝鮮
史前 箕子朝鮮
辰国 衛氏朝鮮
原三国 辰韓 弁韓 漢四郡
馬韓 帯方郡 楽浪郡

三国 伽耶
42-
562
百済
前18-660
高句麗
前37-668
新羅
前57-
南北国 熊津安東都護府
統一新羅
鶏林州都督府
676-892
安東
都護府
668-756
渤海
698
-926
後三国 新羅
-935

百済

892
-936
後高句麗
901
-918
女真
統一
王朝
高麗 918-
遼陽行省
東寧双城耽羅
元朝
高麗 1356-1392
李氏朝鮮 1392-1897
大韓帝国 1897-1910
近代 日本統治 1910-1945
現代 連合軍軍政期 1945-1948
大韓民国
1948-
朝鮮民主主義
人民共和国

1948-
Portal:朝鮮
ファイル:Korean Emperor Kojong and Crown Prince Yi Wang.jpg
清から独立した大韓帝国皇帝高宗と皇太子純宗
ファイル:Sunjong of the Korean Empire 02.jpg
大日本帝国の大礼服と大勲位菊花章頸飾など様々な勲章を纏った純宗
ファイル:Sunjong of the Korean Empire.jpg
大日本帝国の大礼服と勲章を纏って座っている純宗
ファイル:Korean map in 1899.jpg
『大韓全図』(1899、玄采『大韓地誌』附図)

大韓帝国(だいかんていこく、朝鮮語: 대한제국〈テハンジェグク〉)は、1897年から1910年までの間李氏朝鮮が使用していた国号大韓国(だいかんこく、대한국〈テハングク〉)、韓国(かんこく、한국〈ハングク〉)とも言った。また、現在の大韓民国(韓国)と区別するため、「旧韓国(きゅうかんこく)」と呼ばれることもある。

朝鮮半島最後の専制君主国であるが、日露戦争後は日本の保護国となり、1910年8月の韓国併合によって滅亡した。

現在の韓国政府はこの「大韓帝国」の領土に竹島(韓国名: 独島〈朝鮮語: 독도; 獨島〉)も含まれていたと主張する[1]

国名

国号大韓は、高句麗百済新羅の三国(三韓)統一を達する名称として出た。

原文
奉天承運皇帝詔曰:「朕惟檀、箕以來、疆土分張、各據一隅、互相爭雄、及高麗時、呑竝馬韓、辰韓、弁韓、是謂統合三韓。及我太祖龍興之初、輿圖以外、拓地益廣。(以下省略)」
現代韓国語による大意
奉天承運皇帝[2]高宗)は次のようにを下された。「が思うに、檀君箕子以来、(朝鮮は)領土が分離され各々(の勢力)が各地を占めては互いに覇権を争ってきたが、高麗の時代に馬韓辰韓弁韓のいわゆる三韓を統合した[3]。そして我の太祖李成桂)が王位に就いた初期のうちに(従来の)国土以外にも領土を広げた[4]。(以下省略)」

— 高宗実録36巻、高宗34年10月13日(陽暦)2番目の記事より[5]。全文は、国史編纂委員会が公式ホームページを設けて公開している[6]

高宗実録によると、からの冊封体制離脱に当たり、朝鮮王宮ではから下賜された国号「朝鮮」を変更する提案が家臣から高宗になされた。その際、高宗は朝鮮を「三韓の地」と認識しており、かつ「韓」を含む名称が歴代の統一朝鮮王朝の国号として使われていなかった。そのため、国号としての格が従来より上がる漢字一文字の「韓」に、修飾語の「」を加えた[7]「大韓」が新しい国号に定められたという。

原文
上曰: "我邦乃三韓之地, 而國初受命, 統合爲一。 今定有天下之號曰‘大韓’, 未爲不可。 (省略)。"
舜澤曰: "自三代以來, 有天下之號, 未有承襲于前者矣。 而朝鮮乃箕子舊封之號也, 堂堂帝國, 不宜因仍其號矣。 且大韓之號, 稽之帝統之國, 無襲舊者矣。 聖旨切當, 無敢贊辭矣。"
現代韓国語による大意
お上(高宗)が言うには「我が国は三韓の地であるが、国の初め(李成桂の李朝樹立時)に天命を受けて一つの国に統合された。今、国号を‘大韓’に定めては為らぬことは無い。...」
舜澤(沈舜澤한국어版)が言うには「三代以来、国号は以前のものを踏襲した例がありません。ところで、朝鮮は箕子がかつて(武王から)封じられた時の称号であるので、堂々とした皇帝の国として、その称号(朝鮮)をそのまま使うのは正しくありません。‘大韓’の称号は、皇帝の系統を継いでいる国で考えますと、古き者から踏襲したものではありません。聖上[8](高宗)の仰られることは極めて当然のことで、あえて付け加えるような言葉はございません。」

— 高宗実録36巻、高宗34年10月11日(陽暦)3番目の記事より[9]

また、国名を「帝国」としたのは、冊封からの離脱に際し、国王の称号を「皇帝」へと変更したからである[5]小島毅は、「清という皇帝がいる国の庇護下にある王国だったのが、日本が後押しして、清から自立した帝国になり、大韓帝国を正式な国号とします」と評している[10]

概要

李氏朝鮮時代と日清戦争

朝鮮国(李氏朝鮮)は、1637年三田渡の盟約を結んで冊封国となっていた。その後、19世紀後半に列強帝国主義政策が東アジアにまで及ぶと、1875年(明治8年)の江華島事件を契機として翌1876年(明治9年)に大日本帝国と締結した日朝修好条規を始め、李氏朝鮮はアメリカフランスなどの欧米諸国と不平等条約を結ぶことになった。

このような情勢を受け、朝鮮国内では清国との冊封体制を脱して近代化をすべきだという者(開化党)と、清国との関係を維持すべきだという者(事大党)とが対立する。そうした中で1882年(明治15年)、両派の暗闘から壬午事変が起こり、日本公使館も暴徒に焼き討ちされて死亡者が発生する。公使館保護を名目とする日本と、朝鮮を属国と主張する清の両国は鎮圧を理由としてともに出兵、日清の対立は決定的となった。

当時の朝鮮半島は、共に自らの勢力圏におさめようとする日本と清朝の角逐の場であったため、日本は権益を確立するため朝鮮国に対する清朝の影響を排除する必要があった。そして、1894年(明治27年)に日清戦争が勃発し、1895年(明治28年)に日本が清国に勝利、下関条約を締結した。この条約により、大日本帝国は清国に朝鮮が自主独立国であることを認めさせ、朝鮮国(李氏朝鮮)から清国に対する貢献・臣下の典礼等を廃止させた。

冊封体制からの離脱

朝鮮国王高宗はロシア公使館に逃れていたが慶運宮へ戻った。1897年(明治30年)にもはや清の藩属国でなくなった以上、国王号を使用することは望ましくないという儒者の建言に従い以下の改革が実施された。国号を「朝鮮」から「大韓」と改め、元号も前年のグレゴリオ暦への改暦にともなって定めた「建陽」から「光武」に改元した。高宗は、圜丘壇を新たに設けて10月12日に祭天の儀式を行い、翌13日にを出して皇帝に即位した。その後、清の冊封の象徴であった迎恩門や「恥辱碑」といわれる大清皇帝功徳碑を倒して独立門を立て独立を記念した。

諸外国の動き

李氏朝鮮では、親露派の政権が誕生しており、日本とロシアは小村・ウェーバー覚書及び山縣・ロバノフ協定を結んでいた。1897年9月、ロシア公使がカール・イバノビッチ・ヴェーバーからアレクセイ・ニコラビッチ・シュペイエルへと代わり、同年10月に彼が英国人ジョン・マクレヴィ・ブラウンを強制的に解任しようとする事件が起きた。また、ロシアは、独立協会の活動を支援しているとして、アメリカの宣教師を排撃した[11]。アメリカ公使ホレイス・ニュートン・アレンは「韓国でのロシアの干渉は、現在、軍事的及び政治的問題に関連する最も親密な事柄に広がる。」と報告している[11]

しかし、その後ロシアは、三国干渉によって、1898年3月15日に清国と旅順港・大連湾租借に関する条約を結び、不凍港が手に入ることになると、韓国への関心が失われ、1898年3月23日には韓国から全てのロシアの軍事・民事アドバイザーが撤退した[11]。1898年4月25日、日本とロシアは、西・ローゼン協定を結んだ。しかし、その後、韓国政府が独立協会を排撃したため、アレンは「朝鮮人は外国勢力とそのアドバイスに学ばなければならない」として、韓国の統治能力に疑問を持ちはじめ、その状態は「ロシアの影響が完全に撤退されて以降、ますますひどくなった」と述べている[11]

財政問題及び通貨問題

1896年7月、英国人の税関長ブラウンが財政顧問となった。1897年10月、ロシア公使シュペイエルが、財政顧問を英国人ブラウンからロシア人キリル・アレキセーフへと変えようとする事件が起きた。

通貨においては、韓国の帝室が納付金を徴して白銅貨の私鋳を黙許したため、白銅貨の濫造・密輸が横行し、その悪貨によって商取引に問題が発生していた[12]。1904年10月、目賀田種太郎が財政顧問となり、同年11月、硬貨の鋳造を行っていた典圜局を閉鎖した。1905年7月、韓国は日本と同一の貨幣制度を採用し[12]、鋳造は大阪造幣局が行うようになった。1905年8月、ブラウンは税関長を辞め、韓国を去った。

近代化と大日本帝国の保護国へ

1899年(明治32年)には清と韓清通商条約を結び、独立協会を弾圧して、立法機関である法規校正所において国家基本法である9ヶ条の「大韓国国制」を制定、近代化を目指す光武改革한국어版を推進し土地調査や鉱山開発など殖産興業政策を実施するが、財源不足や諸外国の外圧により利権を奪われるなどして挫折する。

1905年(明治38年)、7月の桂・タフト協定(アメリカ)、8月の第二次日英同盟条約(イギリス)、9月成立のポーツマス条約(ロシア)により、日本の韓国に対する排他的な指導権が列強によって承認され、同年11月の第二次日韓協約韓国統監府が設けられて大日本帝国の保護国となった。

日韓併合と併合後

1910年(明治43年)の韓国併合ニ関スル条約(日韓併合条約)の締結により大日本帝国に併合され、大韓帝国は滅亡した。 大韓帝国の皇帝は、大日本帝国において1910年(明治43年)の詔勅前韓国皇帝ヲ冊シテ王ト為シ皇太子及将来ノ世嗣、太皇帝及各其儷匹ノ称呼ヲ定メ並ニ礼遇ノ件)により、昌徳宮李王に遇された。

年表

政治

大韓国国制

1899年には「大韓国国制」と呼ばれる憲法が制定され、そこでは、

  1. 大韓国が自主独立の国であること
  2. 大韓国の政治は万世不変の専制政治であること
  3. 大韓国大皇帝が無限の君権を享有すること
  4. 大韓国大皇帝は不可侵であること
  5. 大韓国大皇帝が統帥権を有すること
  6. 大韓国大皇帝が法律制定権、恩赦権を有すること
  7. 大韓国大皇帝が行政各部の官制及び俸給を定めること
  8. 大韓国大皇帝が官吏の昇任降格を決定し、栄典を授与すること
  9. 大韓国大皇帝が外交権を有し、各国に使者を派遣・駐在させ、宣戦講和及び諸般の条約を締結する。

が定められた。

外交

大韓帝国は、下記の国と国交を有していた。ただし、1905年第二次日韓協約締結後は外交権を喪失したため、日本以外のすべての国と国交を断絶した。

  1. 日本の旗 大日本帝国 - 1876年1910年
  2. アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 - 1882年1905年
  3. イギリスの旗 イギリス - 1882年1905年
  4. ドイツの旗 ドイツ帝国 - 1883年1905年
  5. イタリア王国の旗 イタリア王国 - 1884年1905年
  6. ロシア帝国の旗 ロシア帝国 - 1884年1905年
  7. フランスの旗 フランス共和国 - 1886年1905年
  8. [[ファイル:テンプレート:Country flag alias AUT1869|border|25x20px|テンプレート:Country alias AUT1869の旗]] オーストリア=ハンガリー帝国 - 1892年1905年
  9. 清の旗 - 1899年1905年
  10. ベルギーの旗 ベルギー - 1901年1905年
  11. デンマークの旗 デンマーク - 1902年1905年

食文化

加藤政之助の『韓国経営』によれば、親族・郷党の相互扶助・共食の習慣があり、一種の共産主義となっていたため、怠惰を助長する面が存在したものの、飢饉においても乞食が少ないという利点があったとされる[13]。また、官吏による徴収が酷かったため、貯蓄を行うことは危険な行為と見做されており、食べて一生を送るのが安全だとの認識が広まっていたとされる[14]

主食はであった[15]。加藤政之助によれば、料理は中華料理に似るものの、それに至らないものであったとされる[15]。料理は山盛りにして出され、最初に来客や主人が食べ、その残りを息子が食べ、その残りを家人等が食べ、その残りを下僕が食べていた[15][16]

脚注

  1. 独島の歴史
  2. 皇帝の自称。
  3. ここでの三韓は高麗が統合した後高句麗後百済新羅を指す。高麗は後三国の統合を新羅の三国統一に重ねて「三国を統一した」と考え、三韓統一論を掲げた。 なお、「統一新羅は渤海と並立していた」という史学見解から、北朝鮮では高麗を三韓を統一した最初の国家と見ている。チョン・クボク(정구복)。(2013.4)。韓国の国号考、蔵書閣(우리나라 국호고. 장서각)、29、308-329より。
  4. 李朝時代になると、高麗の統治下になかった北方の平安道咸鏡道が朝鮮領となった他、土着の支配層が存在していた耽羅済州島)も朝鮮王朝の直接支配下に入った。
  5. 5.0 5.1 국호를 대한으로 하고 임금을 황제로 칭한다고 선포하다 (조선왕조실록)
  6. 朝鮮王朝實錄
  7. 矢木毅『韓国・朝鮮史の系譜: 民族意識・領域意識の変遷をたどる 』塙書房、2012年。230頁より。ISBN 978-4-82-733111-0。
  8. 存命中の自国の王を指す尊敬語
  9. 시임 대신과 원임 대신 이하의 관리들을 인견하다 (조선왕조실록)
  10. 小島毅『歴史を動かす―東アジアのなかの日本史』亜紀書房、2011/8/2、ISBN 978-4750511153、p45
  11. 11.0 11.1 11.2 11.3 Korean-American relations. 3. The period of diminishing influence, 1896 - 1905 George McAfee McCune 1989
  12. 12.0 12.1 韓国経営 加藤政之助 1905年
  13. 韓国経営 P.27-29 加藤政之助 1905年8月12日
  14. 韓国経営 P.44 加藤政之助 1905年8月12日
  15. 15.0 15.1 15.2 韓国経営 P.18-19 加藤政之助 1905年8月12日
  16. 朝鮮旅行案内記 P.96 朝鮮総督府鉄道局 1934年9月30日

関連項目

外部リンク

先代:
李氏朝鮮
朝鮮の歴史
1897年 - 1910年
次代:
日本統治時代

テンプレート:大韓民国の歴史