宋書

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宋書』(そうしょ)は、中国南朝について書かれた歴史書。宋・に仕えた沈約441年 - 513年)が斉の武帝に命ぜられて編纂した。本紀10巻・列伝60巻・志30巻の計100巻からなる紀伝体二十四史の一つ。

宋代のうちに何承天山謙之蘇宝生徐爰らが『宋書』を書いており、沈約はそれらを元に作業することができた[1]。本紀・列伝は1年ほどで完成したが、志の完成には10年の歳月がかかり、完成は梁代に入ってからになる[2]。宋が滅亡(479年)して間もない、まだ多くの関係者が存命の時代に編纂されたために同時代資料を多く収録しており、資料的価値は高い。

北宋の時代には欠落が多くなっていたため、『南史』や高氏(高峻)『小史』などの書を使って補ったという[3]

日本については「夷蛮伝」(いばんでん)の記述の中に、倭の五王と呼ばれる日本の支配者から朝貢が行われたことが記されており、この時代の日本の貴重な資料となっている。

内容

本紀

  1. 本紀第一 - 武帝
  2. 本紀第二 - 武帝中
  3. 本紀第三 - 武帝下
  4. 本紀第四 - 少帝
  5. 本紀第五 - 文帝
  6. 本紀第六 - 孝武帝
  7. 本紀第七 - 前廃帝
  8. 本紀第八 - 明帝
  9. 本紀第九 - 後廃帝
  10. 本紀第十 - 順帝

  1. 志第一 - 志序・律暦上
  2. 志第二 - 律暦中
  3. 志第三 - 律暦下
  4. 志第四 - 礼一
  5. 志第五 - 礼二
  6. 志第六 - 礼三
  7. 志第七 - 礼四
  8. 志第八 - 礼五
  9. 志第九 - 楽一
  10. 志第十 - 楽二
  11. 志第十一 - 楽三
  12. 志第十二 - 楽四
  13. 志第十三 - 天文一
  14. 志第十四 - 天文二
  15. 志第十五 - 天文三
  16. 志第十六 - 天文四
  17. 志第十七 - 符瑞上
  18. 志第十八 - 符瑞中
  19. 志第十九 - 符瑞下
  20. 志第二十 - 五行一
  21. 志第二十一 - 五行二
  22. 志第二十二 - 五行三
  23. 志第二十三 - 五行四
  24. 志第二十四 - 五行五
  25. 志第二十五 - 州郡一
  26. 志第二十六 - 州郡二
  27. 志第二十七 - 州郡三
  28. 志第二十八 - 州郡四
  29. 志第二十九 - 百官上
  30. 志第三十 - 百官下

列伝

  1. 列伝第一 后妃 - 孝穆趙皇后孝懿蕭皇后武敬臧皇后武帝張夫人少帝司馬皇后武帝胡婕妤文元袁皇后文帝路淑媛孝武文穆王皇后前廃帝何皇后文帝沈婕妤明恭王皇后明帝陳貴妃後廃帝江皇后明帝陳昭華順帝謝皇后
  2. 列伝第二 - 劉穆之王弘
  3. 列伝第三 - 徐羨之傅亮檀道済
  4. 列伝第四 - 謝晦
  5. 列伝第五 - 王鎮悪檀韶向靖劉懐慎劉粋
  6. 列伝第六 - 趙倫之王懿張邵
  7. 列伝第七 - 劉懐粛孟懐玉劉敬宣檀祗
  8. 列伝第八 - 朱齢石毛脩之傅弘之
  9. 列伝第九 - 孫処蒯恩劉鍾虞丘進
  10. 列伝第十 - 胡藩劉康祖垣護之張興世
  11. 列伝第十一 宗室 - 長沙景王道憐臨川烈武王道規営浦侯遵考
  12. 列伝第十二 - 庾悦王誕謝景仁謝述袁湛袁豹褚淡之褚叔度
  13. 列伝第十三 - 張茂度庾登之謝方明江夷
  14. 列伝第十四 - 孔季恭羊玄保沈曇慶
  15. 列伝第十五 - 臧燾徐広傅隆
  16. 列伝第十六 - 謝瞻孔琳之
  17. 列伝第十七 - 蔡廓
  18. 列伝第十八 - 王恵謝弘微王球
  19. 列伝第十九 - 殷淳張暢何偃江智淵
  20. 列伝第二十 - 范泰王准之王韶之荀伯子
  21. 列伝第二十一 武三王 - 廬陵孝献王義真江夏文献王義恭衡陽文王義季
  22. 列伝第二十二 - 羊欣張敷王微
  23. 列伝第二十三 - 王華王曇首殷景仁沈演之
  24. 列伝第二十四 - 鄭鮮之裴松之何承天
  25. 列伝第二十五 - 吉翰劉道産杜驥申恬
  26. 列伝第二十六 - 王敬弘何尚之
  27. 列伝第二十七 - 謝霊運
  28. 列伝第二十八 武二王 - 彭城王義康南郡王義宣
  29. 列伝第二十九 - 劉湛范曄
  30. 列伝第三十 - 袁淑
  31. 列伝第三十一 - 徐湛之江湛王僧綽
  32. 列伝第三十二 文九王 - 南平穆王鑠建平宣簡王宏晋熙王昶始安王休仁晋平刺王休祐鄱陽哀王休業臨慶沖王休倩新野懐王夷父巴陵哀王休若
  33. 列伝第三十三 - 顔延之
  34. 列伝第三十四 - 臧質魯爽沈攸之
  35. 列伝第三十五 - 王僧達顔竣
  36. 列伝第三十六 - 朱修之宗愨王玄謨
  37. 列伝第三十七 - 柳元景顔師伯沈慶之
  38. 列伝第三十八 - 蕭思話劉延孫
  39. 列伝第三十九 文五王 - 竟陵王誕廬江王褘武昌王渾海陵王休茂桂陽王休範
  40. 列伝第四十 孝武十四王 - 豫章王子尚晋安王子勛松滋侯子房臨海王子頊始平孝敬王子鸞永嘉王子仁始安王子真邵陵王子元斉敬王子羽淮南王子孟晋陵孝王子雲南海哀王子師淮陽思王子霄東平王子嗣武陸王賛
  41. 列伝第四十一 - 劉秀之顧琛顧覬之
  42. 列伝第四十二 - 周朗沈懐文
  43. 列伝第四十三 - 宗越呉喜黄回
  44. 列伝第四十四 - 鄧琬袁顗孔覬
  45. 列伝第四十五 - 謝荘王景文
  46. 列伝第四十六 - 殷孝祖劉勔
  47. 列伝第四十七 - 蕭恵開殷琰
  48. 列伝第四十八 - 薛安都沈文秀崔道固
  49. 列伝第四十九 - 袁粲
  50. 列伝第五十 明四王 - 邵陵殤王友随陽王翽新興王嵩始建王禧
  51. 列伝第五十一 孝義 - 龔穎劉瑜賈恩郭世道厳世期呉逵潘綜張進之王彭蒋恭徐耕孫法宗范叔孫卜天与許昭先余斉民孫棘何子平
  52. 列伝第五十二 良吏 - 王鎮之杜慧度徐豁陸徽阮長之江秉之
  53. 列伝第五十三 隠逸 - 戴顒宗炳周続之王弘之阮万齢孔淳之劉凝之龔祈翟法賜陶潜宗彧之沈道虔郭希林雷次宗朱百年王素関康之
  54. 列伝第五十四 恩倖 - 戴法興戴明宝徐爰阮佃夫王道隆楊運長
  55. 列伝第五十五 索虜 - 北魏
  56. 列伝第五十六 鮮卑吐谷渾 - 吐谷渾
  57. 列伝第五十七 夷蛮 - 林邑国扶南国師子国天竺高句驪国百済国倭国・荊雍州蛮・豫州蛮
  58. 列伝第五十八 氐胡 - 略陽清水氐楊氏胡大且渠蒙遜
  59. 列伝第五十九 二凶 - 元凶劭始興王濬
  60. 列伝第六十 自序 - 沈警沈田子沈亮沈林子沈邵沈璞沈伯玉

倭王済の軍号は安東将軍か安東大将軍か

『宋書』には、倭王が得た軍号が、安東将軍という記述と安東大将軍という記述があり、将軍か大将軍かをめぐって学界で議論がある。

『宋書』巻九十七・夷蛮伝・東夷・倭国条(倭国伝)には、済は、元嘉20年に安東将軍・倭王に封じられ、ついで元嘉28年に「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」が加えられたが、軍号は安東将軍のままであったと記述されている[4]

二十年,倭國王濟遣使奉獻,復以為安東將軍、倭國王。二十八年,加使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事,安東將軍如故。并除所上二十三人軍、郡。

〈二十年、倭国王済、遣使奉献。復た以て安東将軍・倭国王と為す。二十八年、使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事を加ふ。安東将軍故の如し。并びに上つる所の二十三人を軍・郡に除す[5]。〉

— 『宋書』巻九十七


一方、『宋書』巻五・文帝本紀には、済は、元嘉28年に安東将軍から安東大将軍に進号されたと記述されている。なお、『冊府元亀』巻九六三・外臣部・封冊一にも「(宋・文帝元嘉)二十八年七月、安東将軍倭王済、進号安東大将軍」とあり、元嘉28年に安東将軍から安東大将軍に進号されたと記述されている[6]

(元嘉二十年)是歲,河西國、高麗國、百濟國、倭國並遣使獻方物。(中略)(二十八年)秋七月甲辰,安東將軍倭王倭濟進號安東大將軍。

〈(元嘉)二十年、是歳、河西国・高麗国・百済国・倭国、並びに遣使して方物を献ず。二十八年秋七月甲辰、安東将軍倭王倭済、安東大将軍に進号す[7]。〉

— 『宋書』巻五


二十八年七月安東將軍倭王濟進號安東大将軍 — 『冊府元亀』巻九六三


安東将軍か安東大将軍かについては、3つの解釈に大別される。

  1. 倭国伝が正しく、本紀が誤りであり、軍号は「安東将軍」のままであったとする説(支持者:池内宏[8]宮崎市定[9]西嶋定生[10]
  2. 本紀が正しく、倭国伝が誤りであり、軍号が「安東将軍」から「安東大将軍」に進号されたとする説(支持者:高寛敏[11]田中俊明[12]
  3. 倭国伝と本紀の両方とも正しく、時間差を考慮して、まず「安東将軍」に授与され(倭国伝) 、まもなく「安東大将軍」に進号された(本紀)とする説(支持者:坂元義種[13]吉村武彦[14]荊木美行[15]

現在の日本の学界では、2.もしくは3.が通説であるが[16]、高句麗王が征東大将軍、百済王が鎮東大将軍を得たのに対し、倭王は安東将軍止まりであったなら、国際的地位に見解の差が生じるため、韓国には、1.を主張する研究者が少なからず存在する[17]

石井正敏は、倭国伝元嘉28年条の済の任官記事「安東将軍故ノ如シ」を注意しており、元嘉20年に安東将軍・倭国王に冊封された済は、元嘉28年に「使持節・都督倭、新羅、任那、加羅、秦韓、慕韓六国諸軍事」を加号されたが、安東将軍のまま変更なく、しかし済が元嘉20年に得たもう一つの称号「倭国王」は記述されず、「倭国王」の地位がどうなったのかという問題である[18]

「(官爵号)如故(もとノごとシ)」表現は、倭国伝と同じ夷蛮伝の高句麗・百済条では、高句麗王・百済王は、進号・加号された場合、以前得た官爵を継承する場合は「王」号も必ず「如故」と記述されるが、済は、安東将軍のみ「如故」され、倭国王はまったく触れずに、本来は「如故」称号には「(倭国)王」が含まれなければならないが、表現方法に不可解な相違がある[19]

(前官)使持節・都督営州諸軍事・征東将軍・高句驪王・楽浪公

(新除)征東大将軍。持節・都督・王・公如故。

  • 高句麗長寿王(大明七年)

(前官)使持節・散騎常侍・督平営二州諸軍事・征東大将軍・高句驪王・楽浪公

(新除)大将軍・開府儀同三司。持節・常侍・都督・王・公如故。

  • 百済腆支王(永初元年、※「公」は高句麗王高璉と合叙されているため、「公」は高句麗王の楽浪公にかかる表記)

(前官)使持節・督百済諸軍事・鎮東将軍・百済王

(新除)鎮東大将軍。持節・都督・王・公(※)如故。

  • 倭王済(元嘉28年)

(前官)安東将軍・倭国王

(新除)使持節・都督倭、新羅、任那、加羅、秦韓、慕韓六国諸軍事。安東将軍如故。

さらに石井正敏は、『宋書』夷蛮伝や氐胡伝では、「如故」の場合は、高句麗長寿王では、使持節→持節、散騎常侍→常侍、都督営州諸軍事→都督、高句麗王→王、楽浪公→公など官爵号は略称が一般的であり[20]、「○○将軍」号が「如故」とされる場合は「○○将軍如故」ではなく、「将軍如故」或いは「軍如故」と省略するが、済の場合、倭国伝元嘉28年条「安東将軍如故」とあり、省略すべき「安東将軍如故」とフルネームが使用されていることに注意している[21]。済の軍号は高句麗・百済伝にはないが、例えば氐胡伝には事例があり、「将軍如故」の将軍は「寧朔将軍」を指している[22]

(前官)寧朔将軍・略陽太守・武都王

(新除)加督北秦州諸軍事・平羌校尉・北秦州刺史、将軍如故。

済が元嘉28年に除正を求めた記述には、「除…軍・郡」とあるが、将軍号・郡太守号の略称である[23]

二十年,倭國王濟遣使奉獻,復以為安東將軍、倭國王。二十八年,加使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事,安東將軍如故。并除所上二十三人軍、郡。 — 『宋書』巻九十七


石井正敏は、本紀には、月日や「安東大将軍に進号」するとまで具体的な記述があるから信頼できるという常識的理解のうえで[24]、「(倭国)王如故」とないこと、「『安東』将軍如故」とある夷蛮伝の高句麗王・百済王との著しい異例から、倭国伝元嘉28年条原文には誤脱があるのではないかとして、元来「二十八年、加使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、進号安東大将軍。王如故。」と記述されるべきものが、いずれかの時に誤脱が生じた結果、「二十八年、加使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東将軍如故。」と伝わった可能性を指摘している。石井正敏は、原文の誤脱の安易な主張は慎まなければならないが想定する十分な根拠があり、 夷蛮伝は早くに散逸し、遠く10世紀の趙匡胤宋 (王朝)時代に補われた可能性が指摘されていることを挙げており[25]、したがって元嘉28年に済が得た将軍号は本紀の通り「安東大将軍」であり、高句麗王(征東大将軍)・百済王(鎮東大将軍)と倭王(安東将軍)に差があったとする主張には従えないと述べている[26]

脚注

  1. 『宋書』巻百・自序に引く上表文
  2. 「楽志」で鄒衍を「鄒羨」と書き、武帝蕭衍の名を避諱しているなどの理由により、志が梁代に完成したことがわかる
  3. 四庫全書総目提要』宋書一百巻
  4. 石井 2005, p. 162
  5. 石井 2005, p. 162
  6. 石井 2005, p. 163
  7. 石井 2005, p. 162
  8. 石井 2005, p. 163
  9. 石井 2005, p. 163
  10. 石井 2005, p. 163
  11. 石井 2005, p. 163
  12. 石井 2005, p. 163
  13. 石井 2005, p. 163
  14. 石井 2005, p. 164
  15. 石井 2005, p. 164
  16. 石井 2005, p. 164
  17. 石井 2005, p. 165
  18. 石井 2005, p. 165
  19. 石井 2005, p. 166
  20. 石井 2005, p. 166
  21. 石井 2005, p. 167
  22. 石井 2005, p. 166
  23. 石井 2005, p. 166
  24. 石井 2005, p. 167
  25. 石井 2005, p. 167
  26. 石井 2005, p. 167

参考文献

関連項目