小林多喜二

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小林 多喜二(こばやし たきじ、1903年明治36年)12月1日[注釈 1] - 1933年昭和8年)2月20日)は、日本プロレタリア文学の代表的な作家小説家

生涯

多喜二は、秋田県北秋田郡下川沿村(現大館市)に小作農家の[注釈 2]次男として生まれた。当時北海道小樽で苦難の末に事業に成功した伯父が自分の失敗によって傾いた実家の始末を負わせていた弟夫婦(多喜二の両親)への恩返しとして「小樽の学校に通わせたい」と言う提案により長男を移住させていたが間もなく病死した。多喜二が4歳の時に伯父の計らいによって一家全員で小樽・若竹町の伯父の別宅に移住する。生活は豊かではなかったが、伯父の工場に住み込みで働く代わりに学資を受け小樽商業学校から小樽高等商業学校(現・小樽商科大学)へ進学。在学中から創作に親しみ、絵画[注釈 3]や文芸誌への投稿[注釈 4]や、校友会誌の編集委員となって自らも作品を発表するなど、文学活動に積極的に取り組んだ。小樽高商の下級生に伊藤整がおり、また同校教授であった大熊信行の教えを受ける。この前後から、自家の窮迫した境遇や、当時の深刻な不況から来る社会不安などの影響で労働運動への参加を始めている。実家からほどない小樽築港には幾つもタコ部屋が設けられ、労働者の酷使される姿は幼少期より多喜二の身近に在った[1]

1924年に卒業[2]後、北海道拓殖銀行(拓銀)小樽支店に勤務し、そのころ5歳年下の恋人田口タキ[注釈 5]に出会う[3][4]。タキは父親が残した多額の借金により13歳の頃より酌婦として飲み屋に売られていた。多喜二は友人からの借金でタキを身請けし、結婚ではなく家族という形で実家に引き取った。多喜二の家族も暖かく迎えたが、タキは身分の差に悩み7ヵ月後に家出をする[5]1928年の総選挙のときに、北海道1区から立候補した山本懸蔵の選挙運動を手伝い、羊蹄山麓の村に応援演説に行く。この経験がのちの作品『東倶知安行』に生かされている。同年に起きた三・一五事件を題材に『一九二八年三月十五日』を『戦旗』に発表。作品中の特別高等警察(特高警察)による拷問の描写が、特高警察の憤激を買い、後に拷問死させられる引き金となった。

1929年に『蟹工船』を『戦旗』に発表し、一躍プロレタリア文学の旗手として注目を集め、同年7月には土方与志らの新築地劇団(築地小劇場より分裂)によって『北緯五十度以北』という題で帝国劇場にて上演された[6]。だが、同時に警察(特に当時の特別高等警察)からも要注意人物としてマークされ始める。『蟹工船』『一九二八年三月一五日』および同年『中央公論』に発表した『不在地主』などがもとで拓銀を解雇(諭旨免職)[注釈 6]され、翌年春に東京へ転居。日本プロレタリア作家同盟書記長となる。1930年5月中旬、『戦旗』誌を発売禁止から防衛するため江口渙貴司山治片岡鉄兵らと京都大阪山田松阪を巡回講演。23日に大阪で日本共産党へ資金援助の嫌疑で逮捕され、6月7日、一旦釈放された。

しかし24日に帰京後、作家の立野信之方で再び逮捕され、7月に『蟹工船』の件で不敬罪の追起訴を受けた。8月、治安維持法で起訴、豊多摩刑務所に収容された。1931年1月22日、保釈出獄。その後神奈川県七沢温泉に篭る。1931年10月、非合法の日本共産党に入党し、11月上旬、奈良志賀直哉邸を訪ねる。1932年春の危険思想取締りを機に、地下活動に入る。8月下旬、自らの地下生活の体験を元に『党生活者』を執筆した。      

小林多喜二奪還事件

1931年9月6日群馬県佐波郡伊勢崎町で行われた文芸講演会に全日本無産者芸術連盟(ナップ)が講師を派遣し、小林多喜二・村山知義中野重治が行ったが、官憲は事前に検束してしまった。民衆が伊勢崎警察署を包囲し、抗議、占拠、乱闘のすえ、両者の交渉がもたれ、検束者全員の釈放が実現し、しかも抗議団に逮捕者はなかった。治安維持法下であり得ない事件として注目を浴びている。

最期

1933年2月20日、多喜二は共産青年同盟中央委員会に潜入していた特高警察のスパイ三船留吉からの提案により、赤坂の連絡場所で三船と落ち合う予定で、共産青年同盟の詩人今村恒夫とともに訪れた。その待ち合わせ場所には、三船からの連絡により張り込んでいた特高警察が待機していた。多喜二はそこから逃走を図ったが、逮捕された。同日築地警察署内においての取調べについては、今村から話を聞いた江口渙が戦後発表した「作家小林多喜二の死」という文章を手塚英孝が『小林多喜二』で紹介している。それによると、警視庁特高係長中川成夫(警部。のちに滝野川区長、東映取締役)の指揮の下に多喜二を寒中丸裸にして、まず須田と山口が握り太のステッキで打ってかかった[7]とある。その後、警察署から築地署裏の前田病院に搬送され、19時45分に多喜二の死亡が確認・記録された。

新聞報道によると、2月20日正午頃別の共産党員1名と赤坂福吉町の芸妓屋街で街頭連絡中だった多喜二は、築地署小林特高課員に追跡され約20分にわたって逃げ回り、溜池の電車通りで格闘の上取押さえられそのまま築地署に連行された[8]。最初は小林多喜二であることを頑強に否認していたが、同署水谷特高主任が取調べた結果自白した[8]。築地署長は、「短時間の調べでは自供しないと判断して外部からの材料を集めてから取調べようと一旦5時半留置場に入れたが間もなく苦悶を始め7時半にはほとんど重体になったので前田病院に入院させる処置を取り、築地署としては何の手落ちもなかった」との説明を行っている[9]。多喜二死亡時の警視庁特高部長は安倍源基で、その部下であった中川、特高課長の毛利基(戦後、埼玉県警幹部)、警部山県為三(戦後、スエヒロを経営)の3人が直接手を下している。

警察当局は翌21日に「心臓麻痺」による死と発表したが、翌日遺族に返された多喜二の遺体は全身が拷問によって異常に腫れ上がり、特に下半身は内出血によりどす黒く腫れ上がっていた。しかし、どこの病院も特高警察を恐れて多喜二の遺体の解剖を断った。母・セキは多喜二の遺体を抱きしめて、「それ、もう一度立たねか、みんなのためもう一度立たねか!」と叫んだ[10]。多喜二の死に顔は日本共産党の機関紙『赤旗』(せっき)が掲載した他、同い歳で同志の岡本唐貴により油絵で描き残され、千田是也が製作した[11]デスマスク小樽文学館に現存している。『中央公論』編集部は、多喜二から預かったまま掲載を保留していた『党生活者』の原稿を『転換時代』という仮題で『中央公論』(1933年4-5月号)に、遺作として発表した。全体の5分の1にわたり伏字が施された[12]3月15日には築地小劇場で多喜二の労農葬が執り行われた。

最後の小説は1933年(昭和8年)1月7日に書きあげ、『改造』3月号に発表の「地区の人々」。評論は、『プロレタリア文学』2月号、プロレタリア文化』3-4月号に掲載の「右翼的偏向の諸問題」。

多喜二が殺された当時の内務省警保局局長の松本学岡山県出身)は前年の五・一五事件の直後に局長に任じられていたが、退官後は貴族院勅選議員に任じられ、戦後は中央警察学校(現警察大学校)校長を務めたのち、日本港湾協会会長、社団法人世界貿易センター会長、自転車振興会連合会会長などを歴任した。

人物

多喜二は明るい性格で、とても話し好きな人物であった。母思いで地下に潜入後も原稿料は母親に送り、死の間際にも「母親にだけは知らせてくれ」と懇願した[13]

志賀直哉の作品で文学を学んだ[14]小樽高等商業学校時代から、北海道で育った自分が日本文学を席捲すると怪気炎をあげる手紙をたびたび送りつけ、直哉に名前を覚えられていた。獄中からも直哉に手紙を出している。1931年 (昭和6年)1月、直哉は随想『リズム』(読売新聞、1/13 - 14付)で、プロレタリア運動と小説に熱心なある男は「日本のプロレタリア作品を読むより西鶴を読んだ方が何百倍も仕事に対する意思を強く感ずるかも知れない」と書く[注釈 7]。6月、新進作家として注目されはじめた多喜二は、自分の作品に対する忌憚ない意見を聞かせてほしいと自著『蟹工船』と手紙を送り、直哉はプロレタリア運動意識が作品として不純になると返信している。その5か月後の11月はじめ、多喜二は奈良の上高畑の志賀家を訪れる。この時の多喜二は、自分の思想を押し付けることもなくおとなしい様子で昔の手紙の話をされると赤面していたという。直哉の息子・直吉と3人であやめ池の遊園地に遊びに行き、一晩泊まって帰っていった[15]。多喜二が拷問死した時、直哉は多喜二の実母に「不自然なる御死去の様子を考えアンタンたる気持ちになりました」と、香典と弔文を贈り、日記に「小林多喜二(余の誕生日)に捕らへられ死す、警察官に殺されたるらし、不図彼らの意図ものになるべしとふ気がする」と記している[14]

近年の再評価

小林多喜二シンポジウム

生誕100周年を迎えた2003年以来、白樺文学館多喜二ライブラリー主催「小林多喜二国際シンポジウム」が2年連続で開催され、2005年秋には、中華人民共和国河北省河北大学で「第1回多喜二国際シンポジウム」が、中国各地および日本をはじめ中国国外から研究者約200名を集め開催された。その記録は、白樺文学館多喜二ライブラリー編 / 張如意監修『いま中国によみがえる小林多喜二の文学-中国小林多喜二国際シンポジウム論文集』(東銀座出版社、2006年2月。ISBN 4-89469-095-0)に収められている。

ドキュメンタリー作品

  • 映画「時代(とき)を撃て・多喜二」 - 生誕100年・死後70年を記念して、記録映画が「時代を撃て・多喜二」製作委員会によって製作され、日本各地で巡回上映が行われた。
  • TV番組「小樽商科大学創立100周年記念 ヒューマンドキュメンタリーいのちの記憶 -小林多喜二・二十九年の人生」(HBCテレビ製作) - 2008年5月31日放送、同年11月17日再放送。

『蟹工船』ブーム

参照: 蟹工船

若い世代における非正規雇用の増大と働く貧困層の拡大、低賃金長時間労働の蔓延などの社会経済的背景のもとに、2008年には『蟹工船』が再評価され、新潮文庫の『蟹工船・党生活者』が50万部以上のベストセラーになった。また、2009年SABU監督によって映画化された。

作品リスト

  • 「一九二八年三月十五日」(1928年)  何度も体験し、最後には拷問死した多喜二が当時の警察による過酷な拷問の実態を詳細に描写した作品。
  • 「人を殺す犬」(1928年)
  • 「防雪林」(1928年)
  • 蟹工船」(1929年)
  • 「不在地主」(1929年)
  • 「工場細胞」(1930年)
  • 「北海道の「俊寛」」(1930年)
  • 「争われない事実」(1931年)
  • 「父帰る」(1931年)
  • 「テガミ」(1931年)
  • 「独房」(1931年)
  • 「疵」(1931年)
  • 「転形期の人々」(1931年-32年)
  • 「級長の願い」(1932年)
  • 「沼尻村」(1932年)
  • 党生活者」(1932年)
  • 「雪の夜」
  • 「地区の人々」(1933年)

著作

注釈

  1. 戸籍上の日付。なお、従来いわれてきた『10月13日』は、1903年12月1日の旧暦での日付にあたる。
  2. 小林家は元々は地元の大地主だったが、伯父の事業失敗により田畑を失って転落した。
  3. 商業学校在学当時の多喜二は時間を忘れるほど絵画に没頭していたが病死した兄の件と健康面を配慮した伯父の言いつけにより断筆した。
  4. 1921年小説倶楽部10月号に『老いた体操教師』、国民新聞10月30日付に『スキー』が掲載される。どちらも主人公は多喜二の小学校時代の実在の体育教師がモデルになっており、多喜二のデビュー作とされる。小樽市立小樽文学館が2010年4月21日に発表した内容に依る。
  5. 2009年6月19日死去。101歳とも、102歳であったとも報じられている。下記脚注を参照。
  6. 拓銀の実名を小説中で使ったことが、銀行の名誉を毀損したとみなされた。2005年夏に小樽市立小樽文学館に寄贈された拓銀の内部資料「行員の賞罰に関する書類」には、1929年11月16日付の発令で「依願解職」(諭旨)と記されている。同文書では多喜二の解職理由は「左傾思想を抱き『蟹工船』『一九二八年三月十五日』『不在地主』等の文藝書刊行書中當行名明示等言語道斷の所為ありしによる」とされ「書籍發行銀行攻撃」と欄外に書かれていた。(asahi.com 文化 2005年10月30日15時50分による)
  7. 多喜二を意識しているという解釈もあるが、阿川弘之は当時直哉の自宅に訪ねてきてプロレタリア主義を押し付けてくる学者や労働運動家に辟易したことを書いたものと推測している。

出典

  1. 第3回 蟹工船(小林多喜二著)”. 小説を旅する. 北海道マガジン「カイ」 (2016年7月6日). . 2017閲覧.
  2. 『小樽高等商業学校一覧 自大正13年至大正14年』小樽高等商業学校、1925年、p.182
  3. “小林多喜二の恋人、タキさん死去 101歳”. さきがけonTheWeb (秋田魁新報). (2009年12月11日). http://www.sakigake.jp/p/akita/news.jsp?kc=20091211g . 2009閲覧. 
  4. “多喜二の恋人・タキさん、6月に死去102歳”. YOMIURI ONLINE (読売新聞社). (2009年12月12日). http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20091212-OYT1T00101.htm . 2009閲覧. 
  5. 歴史秘話ヒストリア「「たった一人のあなたへ~“蟹工船”小林多喜二のメッセージ~」、NHK、2010年2月24日放送
  6. 文芸家協会編『文芸年鑑 昭和5年版』新潮社、1930年、p.237
  7. 手塚 1983, p. 300.
  8. 8.0 8.1 『東京朝日新聞』1933年2月22日付夕刊 2面
  9. 東京日日新聞』1933年2月22日付夕刊 2面
  10. 『週刊日録20世紀 1933昭和8年』
  11. 千田 1975.
  12. 小林多喜二『蟹工船・党生活者』(新潮文庫)「解説」(蔵原惟人)
  13. 『東京朝日新聞』1933年2月23日付朝刊 10面
  14. 14.0 14.1 年譜”. 有限会社ゆとり・多喜二ライブラリー. . 2018-1-22閲覧.
  15. 阿川弘之 『志賀直哉 上』 新潮社〈新潮文庫〉、1997年、468-471頁。ISBN 4101110158 

参考文献

  • 千田是也、1975、『もうひとつの新劇史―千田是也自伝』、筑摩書房
  • 手塚英孝、1983、『手塚英孝著作集 第三巻』、新日本出版社

関連文献

関連項目

外部リンク