小野田寛郎

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小野田 寛郎(おのだ ひろお、大正11年(1922年3月19日 - 平成26年(2014年1月16日)は、日本陸軍軍人実業家。最終階級予備陸軍少尉旧制海南中学校久留米第一陸軍予備士官学校陸軍中野学校二俣分校卒。

情報将校として太平洋戦争に従軍し遊撃戦(ゲリラ戦)を展開、第二次世界大戦終結から29年の時を経て、フィリピンルバング島から日本へ帰還を果たした。

経歴

生い立ち

大正11年、和歌山県海草郡亀川村(現・海南市)にて父・種次郎(県議会議員)、母・タマエ(教師)の間に小野田家の四男として生まれる。

旧制海南中学校時代は剣道選手として活躍。中学校卒業後は民間の貿易会社(田島洋行)に就職し、中華民国漢口支店勤務となり中国語を習得。

なお、長兄・敏郎は東京帝国大学医学部・陸軍軍医学校卒の軍医将校(終戦時最終階級陸軍軍医中佐)、次兄・格郎は東京帝国大学、陸軍経理学校卒の経理将校(最終階級陸軍主計大尉)で、弟・滋郎はのちに陸軍士官学校、陸軍大学校に入校し航空部隊関係の兵科将校(最終階級陸軍少尉)となっている。

軍歴

上海の商事会社で働いていた1942年12月、満20歳のため徴兵検査徴募)を受け本籍のある和歌山歩兵第61連隊(当時同連隊は戦地に動員中のため、その留守部隊)に現役兵たる陸軍二等兵として入営。同時に留守部隊をもとに編成された歩兵第218連隊に転属、同連隊にて在営中に甲種幹部候補生予備役将校を養成)を志願しこれに合格、1944年1月に久留米第一陸軍予備士官学校へ入校する。卒業後、中国語や英語が堪能だった事から選抜され同年9月に陸軍中野学校二俣分校入校。二俣分校は主に遊撃戦の教育を行っており、当時の教科書には隠密行動や潜伏の要領、夜襲動作などの方法が記され、後に小野田はそれを忠実に実行することになる。また、「死んで虜囚の辱めを受けず」とする戦陣訓の教えとは異なり、中野学校の一番の目的とするところは、最後の一人になっても戦え、玉砕してはならず捕虜になっても死んではいけないとするもので、主力の撤退後も任務を全うするよう教え込まれ、反撃に備え敵陣内で諜報を行う残置諜者となるよう叩き込まれた。約3か月間特訓を受け、退校命令を受領(中野学校は軍歴を残さないため卒業ではなく退校を使用)[1]。11月に事実上の卒業後、見習士官陸軍曹長)を経て予備陸軍少尉に任官。

同年12月、フィリピン防衛戦を担当する第14方面軍情報部付となり、残置諜者および遊撃指揮の任務を与えられフィリピンに派遣。当地では第14方面軍隷下の第8師団参謀部付(配属)となっており、その師団長横山静雄陸軍中将から「玉砕は一切まかりならぬ。3年でも、5年でも頑張れ。必ず迎えに行く。それまで兵隊が1人でも残っている間は、ヤシの実を齧ってでもその兵隊を使って頑張ってくれ。いいか、重ねて言うが、玉砕は絶対に許さん。わかったな」と日本軍の戦時訓を全否定する訓示を受けている[2]。 派遣にあたり、高級司令部が持っている情報は全て教えられ、日本が占領された後も連合国軍と戦い続けるとの計画であった。なお派遣前、母親からは「敵の捕虜となる恐れがあるときには、この短刀で立派な最後を遂げてください」と言われ、短刀を渡された(この短刀は日本帰国後、実家に帰った際に母親に返している)[3]

同月31日、フィリピンルバング島に着任。秘密飛行場の警備に当たった。日本兵は住民の家を拠点にしていた[1]。着任後は長期持久体制の準備に努めるが、島内の日本軍の一部の隊には「引き上げ命令」が出ていたため戦意が低いことと、小野田には指揮権がないため相手にされず、1945年2月28日のアメリカ軍約1個大隊上陸後、日本陸軍の各隊は、アメリカ海軍艦艇の艦砲射撃の大火力に撃破され、小野田はルバング島の山間部に逃げ込んだ。

小野田は、友軍来援時の情報提供を行うため、部下と共に遊撃戦を展開した。ルバング島は、フィリピンの首都であるマニラに位置するマニラ湾の出入口にあり、この付近からマニラを母港とする連合国軍艦船、航空機の状況が一目で分かるため、戦略的に極めて重要な島であった。

日本敗戦後

1945年8月を過ぎても任務解除の命令が届かなかったため、赤津勇一陸軍一等兵(1949年9月逃亡1950年6月投降)、島田庄一陸軍伍長(1954年5月7日射殺され戦死)、小塚金七陸軍上等兵(1972年10月19日同じく射殺され戦死)と共に戦闘を継続し、ルバング島が再び日本軍の制圧下に戻った時のために密林に篭り、情報収集や諜報活動を続ける決意をする。日本では1945年9月に戦死公報を出されたが、1950年に赤津が投降したことで、小野田ら3人の残留日本兵が存在することが判明する。

フィリピンは戦後間もなくアメリカの植民地支配からの独立を果たしたものの、両国の協定によりアメリカ軍はフィリピン国内にとどまることとなった。これを「アメリカ軍によるフィリピン支配の継続」、またフィリピン政府を「アメリカの傀儡政権」と解釈した小野田はその後も持久戦により在比アメリカ軍に挑み続け、島内にあったアメリカ軍レーダーサイトへの襲撃や狙撃、撹乱攻撃を繰り返し、合計百数十回もの戦闘を展開した。

広島市立大学永井均教授により発掘された資料によると、1974年5月に厚生省援護局職員が行った帰国直後の小野田への秘密裏の聞き取り調査で、小野田が戦争がまだ継続しており、ルバング島全島が日本軍の占領地だという認識を持っていたため、侵入してくるものに対しては個人であろうと住民らの連帯責任であるとの考えに基づき報復のため部落への攻撃を加えていたことが明らかになった。小野田らが潜伏していたジャングルの近隣のブロール部落の住民が何回となく捜索に来ることがあったので、夜襲をかけ銃撃や放火などを行った。小野田らは山賊と呼ばれ住民らにおそれられ、住民らはヤシの実をとりに行くこともできなくなった。占領は日本軍の再上陸に備えるためであった。1949年(昭和24年)頃には皆、野生の食事にも慣れ海岸の岩間にできた塩を年に1、2升採集し、自生するヤシの実を拾い、肉類はを月に2頭くらい屠殺した[1]。牛は島内の住民の大切な財産である農耕牛であったが、小野田の主張では野生牛で、乾燥肉にもした。これにより、良質の動物性タンパク質ビタミンミネラルを効率良く摂取していたとされる。

使用した武器は九九式短小銃三八式歩兵銃軍刀等であり、その他放火戦術も用いた。この際、弾薬の不足分は、島内に遺棄された戦闘機用の7.7x58SR機関銃弾(薬莢がセミリムド型で交換の必要あり)を九九式実包の薬莢に移し替えて使用していた。30年間継続した戦闘行為によって、フィリピン警察軍、民間人、在比アメリカ軍の兵士を30人以上殺傷したとされる。ただし、アメリカ軍司令官や兵士の殺傷に関して、アメリカ側にはそのような出来事は記録されておらず、実際に殺傷したのは武器を持たない現地住民が大半であった[4]。このことは後に日本とフィリピン政府との間で補償問題へと発展した[5]

手に入れたトランジスタラジオを改造して短波受信機を作り、アメリカ軍基地の倉庫から奪取した金属製ワイヤーをアンテナに使って、独自で世界情勢を判断しつつ、友軍来援に備えた。

また、後述する捜索隊が残した日本の新聞や雑誌で、当時の日本の情勢についても、かなりの情報を得ていた。捜索隊はおそらく現在の情勢を知らずに小野田が戦闘を継続していると考え、あえて新聞や雑誌を残していったのだが、皇太子成婚の様子を伝える新聞のカラー写真や、1964年東京オリンピック東海道新幹線開業等の記事によって、小野田は日本が繁栄している事は知っていた。士官教育を受けた小野田は、その日本はアメリカ傀儡政権であり、満州国亡命政権があると考えていた。

また小野田は投降を呼びかけられていても、二俣分校での教育を思い出し、終戦を欺瞞であり、敵対放送に過ぎないと思っていた。また朝鮮戦争へ向かうアメリカ軍機を見掛けると、当初の予定通り亡命政権の反撃が開始され、フィリピン国内のアメリカ軍基地からベトナム戦争へ向かうアメリカ軍機を見かけると、いよいよアメリカは日本に追い詰められたと信じた。このように小野田にもたらされた断片的な情報と戦前所属した諜報機関での作戦行動予定との間に矛盾が起きなかったために、30年間も戦い続ける結果となった。末期には、短波ラジオで日経ラジオ社中央競馬実況中継を聞き、小塚と賭けをするのが唯一の娯楽であった。

1974年帰国

だがそんな小野田も、長年の戦闘と小塚金七死亡後の孤独により疲労を深めていった。1974年に、一連の捜索活動に触発された鈴木紀夫がルバング島を訪れ、2月20日にジャングルで孤独にさいなまれていた小野田との接触に成功する。鈴木は日本が敗北した歴史や現代の状況を説明して帰国をうながし、小野田も直属の上官の命令解除があれば、任務を離れることを了承する。この際、鈴木は小野田の写真を撮影した。3月9日に、かつての上官である谷口義美陸軍少佐から、文語文による山下奉文陸軍大将(14HA司令官)名の「尚武集団作戦命令」と、口達による「参謀部別班命令(下記)」で任務解除・帰国命令が下る。

一 大命ニ依リ尚武集団ハスヘテノ作戦行動ヲ解除サル。

二 参謀部別班ハ尚武作命甲第2003号ニ依リ全任ヲ解除サル。
三 参謀部別班所属ノ各部隊及ヒ関係者ハ直ニ戦闘及ヒ工作ヲ停止シ夫々最寄ノ上級指揮官ノ指揮下ニ入ルヘシ。已ムヲ得サル場合ハ直接米軍又ハ比軍ト連絡ヲトリ其指示ニ従フヘシ。

— 第十四方面軍参謀部別班班長 谷口義美
ファイル:President Marcos and Hiroo Onoda.jpg
投降式に出席する小野田とマルコス

翌3月10日にかけ、小野田は谷口元少佐にフィリピンの最新レーダー基地等の報告をする。小野田はフィリピン軍基地に着くと、フィリピン軍司令官に軍刀を渡し、降伏意思を示した。この時、小野田は処刑される覚悟だったと言われる。フィリピン軍司令官は一旦受け取った軍刀をそのまま小野田に返した。司令官は小野田を「軍隊における忠誠の見本」と評した。小野田のマラカニアン宮殿で行われた投降式には、マルコス大統領も出席し、武装解除された。その際、マルコス大統領は小野田を「立派な軍人」と評している。小野田は終戦後に住民の物資を奪い、殺傷して生活していたとすれば、フィリピン刑法処罰対象になる。小野田は、終戦を信じられずに戦闘行為を継続していたと主張し、日本の外務省の力添えもあって、フィリピン政府は刑罰対象者の小野田を恩赦した。

この時に交わされた外交文書によれば、日比両政府による極秘交渉の中で小野田ら元日本兵により多数の住民が殺傷されたことが問題視され、フィリピンの世論を納得させるためにも何らかの対応が必要とされたという。フィリピンに対する戦後賠償自体は1956年の日比賠償協定によって解決済みとされていたが、小野田によるフィリピン民間人殺傷と略奪のほとんどは終戦以降に発生したものであり、反日世論が高まることへの懸念から、日本政府はフィリピン側に対し「見舞金」という形で3億円を拠出する方針を決定した[5]

こうして、小野田にとっての太平洋戦争が終わり、1974年昭和49年)3月12日に、日本の羽田空港へ帰国を果たした。

帰国以前

  • 1950年 - フィリピンミンダナオ島で日本軍敗残兵が投降した際、無為に島民に銃殺される事件が生じる。復員庁では、日本軍将兵の無事帰国のため特別対策本部を設立する。
  • 1951年 - 赤津勇一元一等兵が帰国する。残留兵の存在が明らかになるが、フィリピンの政情が不安定なため救出活動は行えず。
  • 1954年 - フィリピンの山岳部隊が日本兵と遭遇。島田庄一元伍長の遺体が確認される。これを受けフィリピン政府は残留兵捜索隊の入国を許可する。
  • 1954年5月、1958年、1959年5 - 12月 - 赤津元一等兵等投降者の証書に基き援護局職員および小野田元少尉と小塚元一等兵の家族、戦友によるルバング島の残留日本兵捜索が行われるが、未発見に終わる。
  • 1959年(昭和34年)12月11日 - 戸籍法89条に基づいて厚生省引上援護局は12月10日に「死亡日・昭和29年5月8日」として「死亡公報」を出し、翌11日に公示された。なお、これに合わせて翌12月12日には故郷の和歌山県海南市にて親類の手により葬儀が行われた。
  • 1969年5月31日 - 第62回戦没者叙勲により、戦没者として、勲六等単光旭日章に叙される。靖国神社に合祀。
  • 1972年1月 - アメリカグアム島横井庄一元伍長が発見される。日本兵の生き残りが今も各地に潜伏している事実が知られるようになる。
  • 1972年10月19日 - フィリピンのルバング島にてフィリピン国家警察軍に小塚金七元一等兵が射殺される。
  • 1972年10月22日 - 25日 - 日本兵射殺事件を受け、厚生省援護局職員および小野田元少尉と小塚元一等兵の家族、戦友が逐次ルバング島に赴く。遺体が小塚金七一等兵である事を確認する。小野田元少尉の捜索が行われるが発見には至らず(後に元少尉は捜索隊の存在を認知し、また密林の中で兄の姿を目撃していたが、アメリカの支配下の傀儡政権に強制されての行動だと推測していた事を告白している)。
  • 1974年、一連の捜索活動に触発された日本の青年鈴木紀夫が小野田元少尉との接触に成功。3月にフィリピンに投降し、日本に帰国。3月12日16時15分から66分間にわたりNHKで放送された報道特別番組「小野田さん帰国」は45.4%(ビデオリサーチ・関東地区調べ)の視聴率を記録[6]

帰国後

帰国の際に「天皇陛下万歳」を叫んだ事や、現地軍との銃撃戦によって、多数の軍人や住民が死傷した出来事が明らかになった事(フィリピン政府当局の政治判断により、小野田への訴追は行われなかった)、また本当に日本の敗戦を知らなかったのか、という疑問が高まるに連れて、マスコミからは「軍人精神の権化」「軍国主義亡霊」といった批判も受けた。

小野田に対し、日本国政府は見舞金として100万円を贈呈するが、小野田は拒否する。拒否するも見舞金を渡されたので、小野田は見舞金と方々から寄せられた義援金の全てを、靖国神社寄付している。昭和天皇との謁見も断り(万が一、天皇が謝罪するようなことを避けるため)、小野田は戦闘で亡くなった島田と小塚の墓を墓参している。

小野田のフィリピンでの功労は、ニノイ・アキノ国際空港傍にある「フィリピン空軍博物館」に、小野田がフィリピン空軍将軍宛に書いた手紙と共に、展示ケースにて展示されている。また1996年平成8年)には、かつて活動していたルバング島に、フィリピン空軍の兵士護衛の下、再訪を果たしている。

ブラジル移住、晩年

同じく長期残留日本兵として2年前に帰国し、驚くほど早く戦後の日本に適応した横井庄一と異なり、小野田の場合は、父親との不仲や一部マスコミの虚偽報道もあり、戦前と大きく価値観が変貌した日本社会に馴染めなかった。横井との対談がなんどか企画されたが、実現しなかった。理由は、横井が天皇から貸与された兵器である銃剣を穴掘り道具に使ったことを聞き、小野田が横井との対談を拒否していたからだという。

帰国当初は大きな話題になったため、マスコミにつけ回され、一挙手一投足を過剰取材の対象にされて苦しんだ。ヘリコプターが、ゲリラ戦時の敵軍航空機と重なって、悩まされた時期もあったという。帰国の半年後に、次兄のいるブラジル移住して小野田牧場を経営する事を決意。日本帰国後に結婚した妻の町枝と共にブラジルへ移住し、10年を経て牧場経営を成功させた。

(ブラジルに移民していた実兄の薦めもあり1975年渡伯。 バルゼア・アレグレ移住地 (マット・グロッソ州テレーノス郡: Fazenda Varzea Alegre Mun, de Terence, EST. Mato Grossa do sul.)にて、約1200haの牧場を開拓。7年間は無収入だったが10年目には軌道にのせ1800頭の肉牛を飼育した。1979年5月に発足したバルゼア・アレグレ日伯体育文化協会初代会長に就任。2004年ブラジル空軍より民間最高勲章メリット・サントス・ドモントを授与される。同年マット・グロッソ州名誉州民に選ばれる。)

その後、「凶悪な少年犯罪が多発する現代日本社会に心を痛めた」として『祖国のため健全な日本人を育成したい』と、サバイバル塾『小野田自然塾』を主宰 (1984年7月)。

2010年7月当時、東京都中央区佃在住だった[7]

愛媛県議会議員・森高康行を始めとして政界とも交流をもつ。妻・町枝は2006年、安西愛子の後任として日本会議の女性組織・日本女性の会の会長に就任した[8]

保守系の活動家でもあり、日本を守る国民会議日本会議代表委員等を歴任。社団法人日本緑十字社理事にも就任した。慰安婦問題の真偽に対しては日本の責任を否定する立場であり、2007年7月13日に米国大使館に手渡された米下院121号決議全面撤回を求めるチャンネル桜主導の抗議書には夫婦そろって賛同している[9]。また、田母神論文問題で更迭された田母神俊雄航空幕僚長を支持する「田母神論文と自衛官の名誉を考える会」には、発起人として妻と共に名を連ねている。2009年5月15日には、「小野田寛郎の日本への遺言」と題した講演を2時間に渡って行った[10]。その後も講演活動を続けていたが、2014年1月16日、肺炎のため東京都中央区の病院で死去した[11]

その他エピソード

戦時中に自身が体験した人間が持つ潜在的な能力にも触れている。本当に命を賭けなければいけないと必死になった瞬間、頭が数倍の大きさに膨らむ感覚と同時に悪寒に襲われ身震いし、直後、頭が元の大きさに戻ったと感じると、あたりが急に明るく鮮明に見えるようになったという。「夕闇が迫っているのに、まるで昼間のような明るさになりました。そして、遠くに見える木の葉の表面に浮かぶ1つ1つの脈まではっきり認識することができました。そうなると、はるか先にいる敵兵の動きも手に取るように分かります。それこそ、相手が射撃をする直前にサッと身をかわして銃弾を避けることさえできると思いました」 。命を賭ける場面が、命を賭けなくても大丈夫だという自信に変わった瞬間だったという[12]

また『月刊秘伝』2004年7月号でのインタビューでは「直進する物は物理的に見えるんですよ。(中略)真っ直ぐ自分のほうに伸びてくるんだから見えます。(中略)撃たれたときは、火を噴いている銃口から見えた。(中略)相手の突きを避けられるのだから避けられますよ。」と語っている。自身の著書である『小野田寛郎―わがルバング島の30年戦争』でも、銃弾は飛んでくるとき蒼白い閃光を放つから、それを避ければいいと語っている(合気道の開祖である植芝盛平も、満州馬賊の襲撃を受けた際に同様の体験をしたと語っている)。

評価

小野田の手記『わがルバング島の30年戦争』(同著は津田信が代筆したところもあると津田信が主張)。(1974年)のゴーストライターであった作家の津田信は、『幻想の英雄―小野田少尉との三ヵ月』(1977年)において、小野田を強く批判している。小野田が島民を30人以上殺害したと証言していたこと、その中には正当化出来ない殺人があったと思われることなどを述べ、小野田は戦争の終結を承知しており残置任務など存在せず、1974年に至るまで密林を出なかったのは「片意地な性格」に加え「島民の復讐」をおそれたことが原因であると主張している[13]

サーチナによると2009年に小野田の話が中華人民共和国ウェブサイト『鳳凰網』歴史総合ページで紹介されると、「真の軍人だ」「この兵士の精神を全世界が学ぶべきだ」「大和民族は恐るべき民族。同時に尊敬すべき民族」などの賞賛する書き込みがあり、肯定的に評価する投稿の方が若干多かった。[14][15]

2014年の小野田死去に際し、ニューヨーク・タイムズは、「戦後の繁栄と物質主義の中で、日本人の多くが喪失していると感じていた誇りを喚起した」「彼の孤独な苦境は、世界の多くの人々にとって意味のないものだったかもしれないが、日本人には義務と忍耐(の尊さ)について知らしめた」とし、小野田が1974年3月に、当時のフィリピンのマルコス大統領に、投降の印として軍刀を手渡した時の光景を、「多くの者にとっては格式のある、古いサムライのようだった」と形容し論評した[16][17]

また、ワシントン・ポストも、「彼は戦争が引き起こした破壊的状況から、経済大国へと移行する国家にとって骨董のような存在になっていた忍耐、恭順、犠牲といった戦前の価値を体現した人物だった」とし、多くの軍人は「処刑への恐怖」から潜伏生活を続けたが、小野田は任務に忠実であり続けたがゆえに「(多くの人々の)心を揺さぶった」と論評した[17]

栄典・称号

テレビ出演

小野田寛郎を題材にした楽曲

イギリスプログレッシブ・ロックバンド、キャメル1981年に"Nude"(邦題:『ヌードの物語 〜Mr. Oの帰還〜』)というコンセプトアルバムを発表している[20]

著書

単著

  • 『わがルバン島の30年戦争』(講談社, 1974年)ASIN B000J9GA7E
  • 『No Surrender: My Thirty-Year War』(Farrar Straus & Giroux,1974年)ISBN 978-0870112409
  • 『戦った、生きた、ルバン島30年 少年少女におくるわたしの手記』(講談社,1974年)ASIN B00DJ2C2D4
  • 『わがブラジル人生』(講談社,1982年)ISBN 978-4061459144
  • 『子どもは野性だ ルバング島30年』(学習研究社, 1984年)ISBN 978-4051014643(『鈴木健二のお父さん子どもに野性を贈ろう』と同じISBN)
  • 『子どもは風の子、自然の子-『ジャングルおじさん』の自然流子育て』(講談社,1987年) ISBN 978-4062033824
  • 『わが回想のルバング島 情報将校の遅すぎた帰還』(朝日新聞社, 1988年)ISBN 978-4022558916 のち文庫 ISBN 978-4022611093
  • 『たった一人の30年戦争』(東京新聞出版局, 1995年)ISBN 978-4808305352
  • 『極限で私を支えたもの』(山田村教育委員会,1997年)JP番号 20020766
  • 『小野田寛郎―わがルバン島の30年戦争 (人間の記録 (109)) 』(日本図書センター1999年)ISBN 978-4820557692
  • 『君たち、どうする?』(新潮社2004年)ISBN 978-4104713011
  • 『ルバング島戦後30年の戦いと靖国神社への思い』(明成社2007年)ISBN 978-4944219575
  • 『生きる』(PHP研究所2013年)ISBN 978-4569800189

共著

語録または家族による著

  • 小野田種次郎『ルバングの譜―寛郎を捜しつづけて30年』 (潮出版社, 1974年)ASIN B000J9FPKW
  • 小野田凡二『回想のルバング―寛郎を待った三十年』 (浪曼, 1974年)ASIN B000J9GLNC
  • 小野田町枝『私は戦友になれたかしら―小野田寛郎とブラジルに命をかけた30年』(清流出版2002年)ISBN 978-4860290139
  • 『小野田寛郎サバイバル語録 日本人が戦後忘れた不撓不屈の精神を語る』(朝日新聞社, 2017年)ASIN B0711ZPN7X

潜伏中の仲間

赤津勇一

赤津勇一(あかつ ゆういち 生没年不詳)はルバング島守備隊生き残りの少数分散潜伏時に途中で小野田グループと合流した日本兵。東京都出身。諸説では1949年9月にグループを離脱し1950年6月にアメリカ軍に投降した、1950年の戦闘での負傷でグループと離れ意識不明のところを6月にアメリカ軍に発見されたとされる。最終階級は一等兵。翌1951年帰国し、小野田、島田、小塚の生存を政府に伝えたと言われる。

生没年等詳しい事は不明であるが、若一光司の著作によれば、結婚して日本で生活しているとの記述があり、1980年代中盤時点では存命であった[21]

島田庄一

島田庄一(しまだ しょういち 1913年 - 1954年5月7日)はルバング島守備隊生き残りの少数分散潜伏時に小野田グループにいた日本兵。埼玉県小川町出身。1954年5月7日に起きたフィリピン警察軍との銃撃戦で眉間を撃ち抜かれ死亡。享年41。最終階級は伍長

2005年8月13日フジテレビ系列で放送されたドラマ実録・小野田少尉 遅すぎた帰還』では、柳葉敏郎友情出演)が彼の役を演じた。

小塚金七

ファイル:Kozuka kinshichi.jpg
小塚金七(二等兵時代)

小塚金七(こづか きんしち、1921年 - 1972年10月19日)はルバング島守備隊生き残りの少数分散潜伏時に小野田グループにいた日本兵。1921年、東京都八王子市に生まれる。1936年に八王子尋常高等小学校(現・八王子市立第七小学校)卒業後、農業に従事。1939年に八王子工機青年学校に入学し、その後応召1944年6月11日近衛歩兵第1連隊に入隊し、同年7月にフィリピンに派兵され、独立歩兵第359大隊に編入。終戦した事を知らずに戦闘を続け、日本政府による捜査も発見できずに、1947年1959年死亡通知が出された。

1972年10月19日に起きたフィリピン警察軍との銃撃戦で肩を撃たれて三八式歩兵銃を落とし、さらに胸を撃たれて倒れる。小野田は小塚の銃で5発、自身が持つ九九式短小銃で4発撃ち警察軍の攻撃を抑え、倒れた小塚を揺さぶるもその時には白目を向いて口から血を流しており既に死亡していた。享年51。最終階級は上等兵。小塚の死に対し小野田は「復讐心が高まった。目の前で30年もの戦友を殺された時の口惜しさなんてものはない」と後年怒りを込めて述べている。小塚の三八式歩兵銃は、小野田が日本帰還後に小塚の両親に渡したと言われている。また、手元には1959年に厚生省が現地で撒いた投降勧告ビラが遺されてあったと言われる。同年11月4日に、八王子市民葬が執り行われた。

母親には手紙を渡していたと言われ、息子の死に際して、母親は「人生わずか50年、その半数を異国の島ルバングの山谷に人も入らぬジャングルに27年、祖国の為と御奉公の甲斐むなしく[昭和]47年10月19日、命と共に消へ失せる悲しき最後、あまりにも哀われです。」と手記を残した。

2005年8月13日フジテレビ系列で放送されたドラマ実録・小野田少尉 遅すぎた帰還』では、西島秀俊が彼の役を演じた。また彼の事は、若一光司の著書『最後の戦死者 陸軍一等兵・小塚金七』(河出書房新社1986年7月)に詳しく書かれている。

小野田自然塾

財団法人小野田自然塾
創立者 小野田寛郎
団体種類 財団法人
設立 1989年平成1年)6月
所在地 〒104-0051
東京都中央区佃1-10-5
主要人物 小野田寛郎
活動地域 日本の旗 日本
活動内容 自然教育
活動手段
  • 日本各地で開催する青少年参加のキャンプの開催
  • 小野田寛郎、およびその関係者による講演会
標語 不撓不屈
ウェブサイト 一般財団法人小野田記念財団
テンプレートを表示

小野田は、自らの抑留経験を基に、健全な人間形成と自然・社会との共存を図るために、これからを担う子供たちに自然教育の必要性を重んじ、1984年からキャンプ生活を通しての教育活動「小野田自然塾」を開講し、全国各地で子供たちに対する自然教育の推進を行った。1989年、私財を投じて、自然塾を主宰する「財団法人小野田自然塾」を設立した。

脚注

  1. 1.0 1.1 1.2 NHK ETV特集「小野田元少尉の帰還 極秘文書が語る日比外交」 - 小野田寛朗 2017年3月4日放送
  2. 戸井(2005年)57頁
  3. 戸井(2005年)56頁
  4. 津田信(1977) 小野田少尉との三ヵ月「幻想の英雄」 図書出版社
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参考文献

  • 小野田種次郎 『ルバングの譜(ウタ)―寛郎を捜しつづけて30年』 潮出版社、1974。(父親の手記)
  • ―― (「小野田凡二」名義) 『回想のルバング―寛郎を待った三十年』 浪曼、1974。(同上。「凡二」は俳号)
  • 小野田町枝 『私は戦友になれたかしら―小野田寛郎とブラジルに命をかけた30年』 (夫人の手記) ISBN 4-86029-013-5
  • 鈴木紀夫 『大放浪―小野田少尉発見の旅』 (発見者の手記) ISBN 4-02-261116-2
    • 1974年、文藝春秋刊の文庫化。
  • ―― 「小野田少尉発見の旅」(『「文藝春秋」にみる昭和史 第3巻』ISBN 4-16-362650-6 に収録)
  • 津田信 『幻想の英雄―小野田少尉との三ヵ月』 図書出版社、1977。
  • 戸井十月 『小野田寛郎の終わらない戦い』 新潮社、2005-7。ISBN 978-4-10-403104-7。

関連項目

外部リンク