尾崎行雄 (野球)

提供: miniwiki
2018/9/1/ (土) 00:36時点におけるAdmin (トーク | 投稿記録)による版 (1版 をインポートしました)
(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
移動先:案内検索

尾崎 行雄(おざき ゆきお、1944年9月11日 - 2013年6月13日)は、大阪府泉大津市出身のプロ野球選手投手)。

経歴

同姓の政治家である尾崎行雄にあやかって同じ名を付けられた。元々左利きだったが、小学5年生の時に右投げに転じた。右投げから左投げへの転向はよくあるが、左投げから右投げに転向は珍しい事例だった[1]浪商高校(現・大阪体育大学浪商高)2年時に1961年第43回全国高等学校野球選手権大会で優勝投手となり、怪童と呼ばれた[2]。前年夏の甲子園から三度にわたる法政大学第二高等学校柴田勲との対決は名勝負として知られる[3][4]

1960年、1年生の時に、1年上の大塚弥寿男捕手とバッテリーを組み、夏の甲子園に出場。2回戦で法政二高と当たるが、柴田勲投手との最初の対決は0-4で完封負けに終わった。法政二高はこの大会で優勝。翌1961年は春夏の甲子園に連続出場。春の選抜では準々決勝でまたも法政二高と対戦、3回に先制するが1-3で逆転負け。法政二高は夏春連続優勝を飾る。夏の選手権は準決勝で法政二高と三度目の対決。9回に2点差を追いつき、延長11回の熱戦の末2-4で初勝利、決勝に進出する。決勝では左腕エース森川勝年(慶大松下電器)を擁する桐蔭高に苦戦するが、1-0で降し優勝。大塚以外の1年上のチームメートに大熊忠義三塁手住友平二塁手、1年下に高田繁外野手がいた。高田は、後年「今まで実際に見た投手の中で、真っすぐは誰がすごいの、って言ったら尾崎さんだね」と語っている[5]

同年11月6日に高校を中退[6]し、11月14日に東映フライヤーズへの入団を表明した[7]。1年目の1962年には初登板で勝利投手になるなど20勝9敗、防御率2.42の成績でリーグ初優勝に貢献。オールスターゲームに初出場を果たし、第2戦では勝利投手となる。同年は新人王に選出された[8]。18歳での新人王は現在に至るまで史上最年少である。しかし同年の阪神タイガースとの日本シリーズでは、第1戦でリリーフ登板するものの、延長10回、吉田義男にサヨナラ二塁打を喫し敗戦投手。その後は登板機会がなく真価を発揮できなかった。1964年から1966年まで3年連続で20勝を記録し、1965年には27勝を挙げて最多勝を獲得した[9]。しかし指にマメの出来る体質に苦しみ、また酷使の影響もあって肩を痛め[10]1968年以降は勝星から遠ざかる[3]1972年には6月に同季初先発、7回を投げ5年ぶりに勝利投手となる。同年は3勝を記録しわずかに復活の兆しを見せるが、翌1973年には登板機会が減少、同年オフに29歳で現役を引退。プロ通算107勝を挙げ、夏の甲子園の優勝投手としては戦後初のプロ通算100勝投手となった。

非常に球の速かった投手で、右肩痛を発症するまでは球種のほとんどがストレートであった。プロ野球史上における速球投手の話題では、必ずと言ってよいほど名前が挙がる選手である。湯浅景元の計算によると、尾崎の全力投球の球速は160.2キロを計測していた[11]

引退後はレストランを経営した後、スポーツ関係の会社に勤務[3]。少年野球の指導を行っていた[3]。2013年6月13日に肺がんのため死去。68歳没。通夜には、高田繁張本勲柴田勲など球界関係者をはじめとする500名近くが参列して別れを惜しんだ[12]

詳細情報

年度別投手成績

1962 東映
日拓
49 19 9 4 1 20 9 -- -- .690 851 207.2 170 10 63 4 9 196 5 0 72 56 2.42 1.12
1963 17 13 4 3 0 7 5 -- -- .583 380 93.0 83 13 29 0 1 60 0 1 34 30 2.90 1.20
1964 55 33 11 4 1 20 18 -- -- .526 1167 286.0 233 23 90 2 9 197 1 0 93 81 2.55 1.13
1965 61 37 26 6 5 27 12 -- -- .692 1444 378.0 261 23 63 4 11 259 1 0 91 79 1.88 0.86
1966 65 29 15 2 6 24 17 -- -- .585 1162 292.0 268 23 40 4 2 122 4 1 100 85 2.62 1.05
1967 28 21 7 2 1 6 14 -- -- .300 531 126.2 132 16 25 3 3 67 0 0 58 43 3.05 1.24
1968 14 4 0 0 0 0 0 -- -- ---- 88 19.0 27 5 5 0 2 4 0 0 15 13 6.16 1.68
1969 7 1 1 0 1 0 2 -- -- .000 75 17.1 22 5 2 0 0 6 0 0 14 11 5.82 1.38
1970 24 2 0 0 0 0 2 -- -- .000 193 43.0 56 11 11 0 0 41 0 0 30 28 5.86 1.56
1971 24 2 0 0 0 0 3 -- -- .000 170 40.1 46 6 12 0 1 26 1 1 22 20 4.50 1.44
1972 17 2 0 0 0 3 1 -- -- .750 151 39.2 27 4 7 1 2 29 0 0 12 10 2.25 0.86
1973 3 0 0 0 0 0 0 -- -- ---- 32 6.0 12 4 2 0 0 3 0 1 9 9 13.50 2.33
通算:12年 364 163 73 21 15 107 83 -- -- .563 6244 1548.2 1337 143 349 18 40 1010 12 4 550 465 2.70 1.09
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • 東映(東映フライヤーズ)は、1973年に日拓(日拓ホームフライヤーズ)に球団名を変更

タイトル

  • 最多勝:1回 (1965年)
  • 最多奪三振(当時連盟表彰なし):2回 (1964年、1965年) ※パシフィック・リーグでは、1989年より表彰

表彰

記録

初記録
節目の記録
その他の記録

背番号

  • 19 (1962年 - 1973年)

脚注

関連項目

外部リンク