島津忠久

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島津忠久
時代 平安時代末期 - 鎌倉時代前期
生誕 未詳[注釈 1]
死没 嘉禄3年6月18日1227年8月1日
幕府 鎌倉幕府
主君 源頼朝頼家実朝藤原頼経
氏族 島津氏

島津 忠久(しまづ ただひさ)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将鎌倉幕府御家人島津氏の祖。正式な名乗りは惟宗忠久(これむね の ただひさ)という。出自・生年については諸説ある。

生涯

治承3年(1179年)2月8日、春日祭使の行列に供奉している記録が史料上の初見である(『山槐記』)[注釈 2]。忠久は元々摂関家に仕える都の武者であったが、治承・寿永の乱において源頼朝が台頭してくると、母が頼朝の乳母子だった縁で頼朝に重用されるようになってくる。

鎌倉の御家人

元暦2年(1185年)3月、比企能員の手勢として平家追討に加わっていたとみられ、恩賞として元暦2年(1185年)6月に頼朝より伊勢国波出御厨、須可荘地頭職に任命される。「島津家文書」では、この時の名は「左兵衛尉惟宗忠久」と記されている。文治元年(1185年)8月17日付で、源頼朝より摂関家領島津荘下司職任命される[注釈 3]。これが忠久と南九州との関係の始まりとなる。

また、同じ年に信濃国塩田荘地頭職にも任命される。文治5年(1189年)の奥州合戦に頼朝配下の御家人として参陣し、建久元年(1190年)の頼朝の上洛の際にも行列に供奉している。建久8年(1197年)12月、大隅国薩摩国守護に任じられ、この後まもなく、日向国守護職を補任される。建久9年(1198年)、左衛門尉に任官される。諸国で守護や郡地頭職に任命されているが、これ以降、忠久は最も広大な島津荘を本貫にしようと、その地名から、島津(嶋津)左衛門尉と称する。

島津家家臣により書かれた山田聖栄自記(15世紀後半)及び、島津国史(江戸後期成立)によれば、地頭となった忠久は、文治2年(1186年)に薩摩国山門院鹿児島県出水市)の木牟礼城に入り、その後、日向国島津院宮崎県都城市)の堀之内御所に移ったと伝えられている[注釈 4]。この他に、三国名勝図会(江戸後期成立)では、1196年(建久7年)に、山門院から島津院の祝吉御所に入り、その後、堀之内御所に移ったとする伝承もある。しかし、史実としては忠久が山門院、島津院いずれにも移住したとは認められず、伝承にすぎないという指摘がされている。[3]

島津氏は、初代島津忠久が鎌倉で活動してそこで生涯を終え、二代目島津忠時も同様に鎌倉で没する。三代目島津久経元寇を機に下向して以来、南九州への在地化が本格化し、四代目島津忠宗は島津氏として初めて薩摩の地で没した。 島津家当主で南九州に土着したことが確認できるのは五代目島津貞久以降である。碇山城薩摩川内市)に貞久の守護所が置かれていたという。

比企の乱

頼朝死後の建仁3年(1203年)9月、比企の乱(比企能員の変)が起こり、この乱で忠久は北条氏によって滅ぼされた比企能員の縁者として連座し、大隅、薩摩、日向の守護職を没収された[注釈 5]。この時、忠久は台明寺の紛争解決のため、守護として初めて任地の大隅国に下向しており、鎌倉には不在であった。同年10月19日、務めを終えて戻る上洛の無事を祈り、台明寺に願文を収めている。

比企の乱後は在京していたとみられ、建暦3年(1213年)2月に3代将軍・源実朝の学問所番となり、御家人としての復帰がみられる。同年6月の和田合戦においては勝者の側に立ち、乱に荷担した甲斐国都留郡古郡氏の所領である波加利荘(新荘)を拝領した(本荘は甲斐源氏の棟梁武田氏が伝領)。同年7月に薩摩国地頭職に還補され、同国守護も同年再任されたとみられるが、大隅・日向守護職は北条氏の手に渡ったまま、その2国の復権がなされるのは南北朝時代以降のこととされている。

承久3年(1221年)の承久の乱後は、信濃国太田荘地頭職と越前国守護職を獲得した。この頃には、惟宗姓に代えて藤原姓を称している(母方とされる比企氏は藤原氏の系統)。元仁元年(1224年)に八十島使の随兵を務め、嘉禄元年(1225年)には検非違使に任じられ、嘉禄2年(1226年)には豊後守となった。

嘉禄3年(1227年)6月18日の辰の刻脚気赤痢により死去(『吾妻鏡』)。墓は、島津家第25代当主島津重豪により、江戸時代後期、鎌倉の西御門に源頼朝の墓と共に建立され、頼朝の墓の右隣に寄り添うように建てられている。

出自

忠久の出自については、『島津国史』や『島津氏正統系図』において、「摂津大阪住吉大社境内で忠久を生んだ丹後局源頼朝の側室で、忠久は頼朝の落胤」とされ、出自は頼朝の側室で比企能員の妹・丹後局(丹後内侍)の子とされている。そのため頼朝より厚遇を受け地頭に任じられている。

その他の出自に係る説について

忠久の実父については惟宗広言であったとする説もあるが、通字の問題などから広言の実子説については近年疑問視する説が有力であり養子であったとされている。

母親に関しては、忠久は建仁3年(1203年)の比企能員の変に「縁坐」(連座)して処分を受けているので、比企氏縁者(能員義姉妹の子)であるとみなされ、『吉見系図』に記されているとおり比企尼長女の丹後内侍であるのが正しいとされている。将軍学問所番務めや陰陽道に関わる行事の差配を任されている事から、忠久が公家文化に深い理解を持っていたと考えられる。

これに対して、『吉見系図』によると丹後内侍は「無双の歌人」であったとされ、忠久の孫、曾孫、玄孫にあたる越前島津氏忠景忠宗忠秀が歌人として有名である。また忠久の生誕地である住吉大社は航海の神として信仰されているが、当時は和歌の神としても崇敬されており、承元2年(1208年)の住吉社歌会合にも参加したことが知られる[4]女房三十六歌仙の一人・宜秋門院丹後摂津源氏の出身でもあることから、宜秋門院丹後が忠久の母であるとの説も提示されている[5]

生年については『島津系図』などによると治承3年(1179年)とされているが、治承3年時点で『山槐記』や『玉葉』に「左兵衛尉忠久」として記載されていることから、1179年には任官されるに足りる成人男子であったと思われるので、生年は治承3年より十数年以上遡っているものと推定される。

島津荘地頭職任命の背景

忠久は鎌倉時代以前は京都の公家を警護する武士であり、親戚は大隅・日向国の国司を務めていた。

出身である惟宗家近衛家家司を代々務めた家で、忠久は近衛家に仕える一方で、源頼朝の御家人であった。東国武士の比企氏や畠山氏に関係があり、儀礼に通じ、頼朝の信任を得ていたという。

惟宗家が元々仕えていた近衛家は、平季基から島津荘の寄進を受けた藤原頼通の子孫である関白藤原忠通の長男・基実を祖とする家であり、鎌倉時代から島津荘の荘園領主となっていた。

また、基実の子である基通については、婚約者であった源義高を殺害された直後の源頼朝の長女大姫を基通に嫁がせる構想があったことが知られており、最終的には実現しなかったものの、この構想に関して忠久の関与の可能性が指摘されている[6]

こうした源頼朝・近衛家を巡る関係から、島津忠久は地頭職・守護職を得たのではないかと考えられる。 

以後、島津家は島津荘を巡って近衛家と長い関係を持つにいたった。

脚注

注釈

  1. 『島津歴代略記』(島津顕彰会)では、治承3年(1179年12月30日としているが、これは源頼朝の落胤説に則ってのもの
  2. 山槐記』には「左兵衛尉忠久」と記されている。元暦2年(1185年)の地頭補任状に「左兵衛尉忠久」と記されていることから『山槐記』の「左兵衛尉忠久」は惟宗忠久を差すものであると推測される。
  3. 父方と考えられる惟宗氏には平安末期「薩摩」「大隅」「日向」などの国司に任じられた者が数名がおり、忠久はこの延長線上にたって領家ならびに頼朝から島津荘下司に任じられたとの見解もある[1]
  4. 「先薩摩山門院に御下、夫より嶋津之御荘ニ御移、嶋津之(御)庄ハ庄内也、三ヶ国を庄内為懐依り在所也、去程庄内南郷内御住所城(堀)内ニ嶋津御所作有て御座候訖」[2]
  5. 異父弟の安達景盛時長らは比企氏側から離れ北条氏側に付いたため、連座していない。

出典

  1. 野口実『惟宗忠久をめぐって』
  2. 山田聖栄自記(鹿児島県史料集Ⅶ)
  3. 三木靖(鹿児島国際大学短期大学部名誉教授)寄稿 南日本新聞 2008年4月16日付
  4. 新続古今和歌集
  5. 野村武士『島津忠久と鎌倉幕府』(南方新社2016年)20-27頁
  6. 保立道久「義経・頼朝問題と国土高権」『中世の国土高権と天皇・武家』校倉書房、2015年 ISBN 978-4-7517-4640-0)

参考文献

  • 朝河貫一『島津忠久の生ひ立ち ━低等批評の一例━』慧文社2007年、ISBN 9784905849742
  • 江平望 『拾遺 島津忠久とその周辺 中世史料散策』 高城書房2008年、ISBN 9784887771185
  • 野口実 「惟宗忠久を巡って」『中世東国武士団の研究』高科書店、1994年
  • 野村武士『島津忠久と鎌倉幕府』南方新社2016年、ISBN 9784861243455
  • 『島津歴代略記』島津顕彰会、1985年


テンプレート:島津氏歴代当主