島田洋七

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島田 洋七
本名 徳永 昭広(とくなが あきひろ)
生年月日 (1950-02-10) 1950年2月10日(74歳)
出身地 広島市白島九軒町
最終学歴 広島工業大学土木工学科中退
コンビ名 B&B
作品 著書 『佐賀のがばいばあちゃん
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島田 洋七(しまだ ようしち、1950年2月10日 - )は、日本漫才師タレント作家。漫才コンビB&Bのひとり。本名:徳永 昭広(とくなが あきひろ)。

広島県広島市白島九軒町出身[1][2][3]基町生まれ[4])。島田オフィス、オスカープロモーション所属[5]

人物

1980年代、漫才ブームのパイオニアとなり[6][7][8][9][10][11][12]、月収1億円の時代から、人気急降下、そして2000年代のベストセラー作家と、ジェットコースターの様な激動の人生を歩むお笑い芸人である[13][14]。その上がり下がりの人生を「シーソーか」と茶化したビートたけしの親友としても知られる[15][16][17][18][19][20]。下の名前の読みは「ようひち」との表記説が多く言われているが、本人にいわく「どっちでもいいが分かりやすい『ようしち』が良い」との事(大阪弁では質や七を「しち」ではなく、「ひち」と読むためである。逆にビートたけしが使用する江戸言葉では、「おひたし」を「おしたし」というように、「ひ」を「し」と呼ぶ傾向がある)。2017年12月15日放送の『バラいろダンディ』(TOKYO MX)に出演した際、京浜急行電鉄の品川駅ホームで面識のない一般社会人を、(電話のやりとりの中で)人身事故に関して悪態をついていたことを理由に暴行したことを告白した[21]

来歴

広島/佐賀

1950年広島市生まれ[22][23]。父親は疎開していた佐賀から広島市への原子爆弾投下一週間後の広島に戻り、家族を探して爆心地を歩き回り入市被爆した[24][25]。洋七が生まれた頃は病床にあり洋七2歳のとき原爆症で亡くなる[3][11]。家族は母・兄・洋七の三人。

広島市立幟町小学校1年生6歳の頃[4]佐賀の祖母に預けられ、中学を卒業するまでの8年間の体験が『佐賀のがばいばあちゃん』として後に出版されベストセラーとなり、映画化・ドラマ化された[26]

佐賀市立赤松小学校佐賀市立城南中学校と進むが、母親への思慕が募り、また野球がうまかったこともあり、1965年春、高校野球の名門・広陵高校野球推薦で入学[9][27]、故郷広島に戻る[11][28]。洋七は新人のころ、島田紳助明石家さんまら、芸人仲間に「広陵高校の野球部出身で、甲子園にセカンドで出た」と言いふらしていたため、皆これを信じていたが、後にウソが発覚した[29]。広陵入学から大阪に行くまでの経歴は、野球特待生として推薦入学したが、練習中に打球が左腕を直撃して肘を痛め、野球をあきらめた[30]、野球部には一年生の夏まで在籍した[31]、一年以上たっても患部が治らないまま、二年のとき退部したなどと話している[9][30]河井昭司が広陵の同期[30][32]広商山本和行福山電波村田兆治尾道商大田垣耕造らが同学年にあたる。洋七一年時の野球部監督は森岡栄司で、名将三原新二郎監督就任が1966年[33]。広陵は洋七三年時の1967年夏甲子園で、サウスポー宇根洋介、河井らを擁して準優勝(決勝1-7習志野[34]広島カープ初優勝時の主力投手だった佐伯和司は三学年下となる[35]。一方的な洋七のしゃべりは、時にはブレーキが利かなくなり、現実とシャレの境目がわからなくなる[36]。自分の経歴ですらその場の空気によっては、マジとシャレを入り混ぜて話してしまい、それが独り歩きしてしまっていると考えられる[36]

広島工業大学土木工学科に進学したかは不明だが[11][27]、進学した場合は中退[7]。広島市牛田八百屋フジモト商店に1年半住み込みで働くなどした後[2]、19歳の頃に再び佐賀に戻り、当時デパートに勤めていた今の妻と知り合う[37]。20歳の時に二人で東京駆け落ち[38]。東京へ行った目的は歌手になるためだったという[39]。間もなく妻の貯金も尽き高校の先輩に誘われ大阪に移る[38][40]

大阪

1970年、大阪にいた広陵野球部OBに勧められ、なんば花月笑福亭仁鶴落語や、中田カウス・ボタン漫才を観たのがきっかけで芸人になろうと決意[40]中田カウスポルシェ(仁鶴がベンツ[41])で帰るのを見て「15分笑わせるだけでお金が稼げるなんて、こんないい商売があるのか」と、とても簡単そうに見えたのが決意した理由という[27][42][43]。先の先輩が吉本興業の関係者と知り合いで紹介してもらい、うめだ花月の進行係として採用される[44]。当初仁鶴に弟子入りを志願したが言葉の訛りを理由に断られ、次に美人の今喜多代、優しそうな島田洋之介に惚れ弟子入りを願う。しかし同様の理由で弟子入り志願者が多く、毎日師匠の元に通い、1ヶ月と4日目の1971年5月に弟子入りを許された[43]。弟子入り直後には兄弟子の島田一の介とコンビを組んだ事もあったが、互いに訛りが強く程なく解散したという。

弟子入りしてから一年二ヶ月後の1972年桂三枝の紹介で[45]、現在放送作家として活動している団順一萩原芳樹)と初代B&Bを結成、島田洋一名で漫才師としてデビューした[46]

詳細はB&B (お笑いコンビ)を参照

東京

東京の漫才協団に加入し、戸崎事務所に移籍[47]1980年1月、澤田隆治プロデュースによる『花王名人劇場』(関西テレビ)「激突!漫才新幹線」に大抜擢され出演[48][49]。漫才を変えたといわれるスピードとスタイルで、大きな反響を巻き起す[50][51][52]。同年4月から始まった『お笑いスター誕生!!』(日本テレビ)でも先兵役を務めてケタ違いの実力を見せ、ストレートで10週を勝ち抜き初代グランプリとなり大ブレイクし[53]漫才ブームを引き起こす[7][23][54][55][56][57]。また、同年4月からの『THE MANZAI』でも第一回放送から出演し漫才ブームを牽引した[49][58]。女は常に八角関係、たけしと一千万で銀座のクラブを貸し切ったり[59][60][61]金沢のホテルで、たけしとそのまんま東の三人で150万円飲んだり[62]、現金2000万円持参でベンツを買いに行ったりするなどの豪遊をした[62][63]。ビートたけしは「ショクナイ(業界用語で内職のこと)で洋七と営業に行くと、1時間ぐらいしゃべって700万~800万円もらえたんだよ。折半だからね。ショクナイしまくったね」と話している[59][64]

急降下

1981年5月から始まった『オレたちひょうきん族』では、B&Bは裏の日本テレビ『爆笑ヒット大進撃!!』で、レギュラーを持っており、ひょうきん族への参加は半年遅れ[65]、たけしと明石家さんまがメインで洋七は完全に脇に回る。また、1982年の「笑ってる場合ですよ!」終了と同時に人気が急降下、1983年秋にB&Bを解散[66]。精神的な理由で6年間の休養生活に入り、表舞台から姿を消した[66][67]。その後、国分健二(浮世亭ケンジ)と新コンビ「スティング」を結成したり、間寛平と「洋・寛」という漫才コンビを結成したりするも、いずれも長続きしなかった。間寛平の絡みで萩本欽一欽ちゃんファミリー入りしたこともある。また、かねてより事業欲も旺盛で、最盛期には当時都内の一等地に下北沢など数軒しかなかった広島風お好み焼き店“モミジハウス”を新宿渋谷原宿(パレフランスビル地下1F、1F・オーバカナル(AUX BACCHANALE))他の一等地に6店舗展開[59]。他に高円寺にタコ焼き屋と新橋喫茶店を持っていた。しかし後に母親の要求に応じて全て閉店してしまう[62]1987年には、たけしと共同で埼玉県所沢市ラーメン店「まぼろし軒」を創業(現在は無関係)[13][38][68]。他にも、悪い人間に誘われて、静岡県伊豆で温泉民宿を始めようとしたが、肝心の温泉が出ずにだまされて失敗したり[13]、たけしやさんまに反対されながらも、六本木ゲイバーをオープンし、自身もおかまに扮したが、関西から客として暴力団関係者が大挙して押しかけ2ヶ月で閉店したといわれる[13]。1990年以降は『たかじんnoばぁ~』のイレギュラー出演以外は仕事が無くなり、たけしの仕事場に付いて回る。たけし軍団のコック長みたいなことを約7年続ける[19][67]。また、竜雷太と土地がらみの問題で裁判になり、勝訴するも結局借金しか残らなかった。1992年には『北野ファンクラブ』の企画で、ビートたけしと「B&Beat」というコンビを組み、テレビで漫才を披露した[18][69][70]1995年には、横山ノック西川きよし国会議員が出来るなら「こんなもん、俺でもできるやないか!」と考え[13]第17回参議院議員通常選挙に当時居を置いた埼玉県選挙区から出馬[71][72]。洋八やぼんちおさむ間寛平ら昔の仲間が応援してくれたが、ふざけていると思われたり、高速道路で演説したり他県で演説したりで落選[13][71]。このため新潟県で2票入ったという逸話が残る。芸人引退を決意し、たけしに相談するが、「芸人をやめるなら友達づきあいをやめるぞ!」と一喝され、引退を思いとどまる[9][17][73]1996年、一度は契約を解除された吉本に頭を下げて復帰を許され[74]、生涯一漫才師を誓い、洋八と再びB&Bを復活させ、こつこつと仕事をこなす[75]

カムバック

吉本復帰後はたけしに関連する番組に出演することが増える。たけしに「出ろよ」と誘われて出演した『平成教育委員会(当時はたけしと並んで、もう一人の番組の顔であった逸見政孝が病死した後であった)』も、いつまでも頼ってはマズいと数回で出演を止める[76][77]。この他にも、『ビートたけしのお笑いウルトラクイズ』にたけし軍団員や、若手芸人の混じって参加するなどしている。この頃、レギュラーを持っていたラジオのゲストに学者野球選手が来ると「これから講演に行く」と聞かされ、興味を持ち、塩田丸男に紹介された群馬県商工会議所を皮切りに講演をはじめる[8][11][78][79]。祖母との思い出は恥ずかしい過去でもあり、あまり他人に話してなかった。しかし講演で祖母の話をすると非常に受け、たけしと寿司屋で飲んだとき、たけしの母親自慢に対抗して、ばあちゃんの話をしたら涙を流してたけしが大笑いし「絶対に本にすべき」とアドバイスされたことから1987年、話をまとめて出版社に持ち込む[2][9][15]。しかし、「お笑いの人にしては話が地味」「B&Bで漫才やってらっしゃる頃なら(出せますが)」などと請けてもらえず[2]、40社まわったが出版できなかった[11]。やむなくNGKの楽屋やNHKロビーにカンパ箱を置き、お笑い仲間、佐賀や広島の人達からもカンパを募り、東京の小出版社から1987年12月、自費出版で単行本にし、当初3000部を出版[11][80]。この時のタイトルは、たけしに付けてもらった「振り向けば哀しくもなく」だった[15][81][82]。講演会で手売りをし[2]、さほど評判になることもなく廃刊となっていたが、初出版から14年後の2002年に佐賀地域だけで売れたらいいと思い「佐賀のがばいばあちゃん」と改題し二度目の自費出版[80]。この時は講演会の手売りだけで自費出版では珍しく2万部を売上げ少々話題となる[2]

徳間書店から出版させて欲しいと連絡があり三度目の出版で[13]文庫化されると口コミで評判が広がる。さらに2003年「徹子の部屋」(テレビ朝日)で祖母の話をしたところ、大きな反響を呼ぶ[80]

その後、増刷を重ね“がばいばあちゃん”シリーズ三部作はベストセラーとなり映画化・ドラマ化もされ、再び注目された。2007年に入って『スマステ』(テレビ朝日)など、テレビで特集が組まれ更に部数を伸ばした[27][80][83]。2007年の時点で総売り上げは20億円超、徳間書店の社員全員に"がばいボーナス"が出た[74]。“がばいばあちゃん”シリーズ総計では2008年7月、670万部を越え韓国台湾マレーシアなどでも出版されている[6][9][84]

吉本在籍時は多数のテレビ出演ほか、「佐賀のがばいばあちゃん」を演目とした講演依頼が殺到、その回数は2012年3月4000回を越えたという[6][8][11][85]。常人には決して経験することのない波瀾万丈の人生を歩むお笑い芸人と言える。

1999年、妻の母親が倒れたのをきっかけに、その介護のため、佐賀市東与賀町に居を構える[86]

2002年から5年間の間『M-1グランプリ』の審査員を担当。アンタッチャブルや、南海キャンディーズなどの出場した漫才師に概ね高い評価を与えたが、アマチュア漫才師である変ホ長調の漫才に対しては、「本気なのか、ギャグで素人っぽくしているのかわからなかった」と語るなど、苦言を呈することもあった。

2007年8月末をもって吉本興業を再度離籍することが発表された(2007年4月10日)[71][87]。原因は「がばい」関連の収益について吉本側との考えの相違のためで、吉本は他のタレントの手前もあるから、印税の一部を吉本に入れてくれないかと洋七に頼んだが(通常、吉本が関連する舞台や番組以外では、ギャラは本人に全額入ることになっている)、洋七はこれを拒否したといわれる。なお、完全に吉本との契約関係が終了したのは2007年12月9日である。ただし本人によれば、吉本を退社したのは「2007年に声帯にポリープが見つかり、医者から『このままだと最悪声が出なくなる』『漫才や講演は(喉に負担をかけるので)やめるように』指示されたが、吉本に在籍しているとつい舞台に立ってしまい指示を守れなくなる」のが理由で、決して吉本と対立したわけではないという[88]。なお、ポリープについては後に手術を受け完治しているが、以後講演の本数はセーブしている[88]

佐賀のがばいばあちゃん#映画』は、2006年に倉内均監督で映画化され、2009年に洋七自身が監督を務め再映画化。この際、追放同然で吉本を退社した洋七の映画に島田紳助が友情出演したことで紳助と吉本の関係も悪化したとされる[87][89]2011年には『佐賀のがばいばあちゃん』を舞台化し、がばいばあちゃんを自身が演じた[90]。吉本退社後はマスメディアへの露出が減り[13][91]、個人事務所「島田オフィス」を拠点として講演会中心で活動してきたが2012年8月1日付けで、個人事務所は今まで通り、オスカープロモーション所属となった[5][76]

島田紳助は「漫才ブームで新しいことをやったのは、B&Bとツービート紳助・竜介だけ。ほかは前からあったもの[92]」「漫才ブームは、B&Bとツービートと紳助・竜介が作ったんです。時代を作った3組、ルーツは一緒なんです。漫才ブームが興ったときに、今までの漫才と違う形の漫才が始まるんです。それまでの漫才はネタ振りがあって、一個のネタでちゃんと起こしていくんです。この3組に共通してるのは、全く違うシステムなんです。それまでの漫才の形と全く違うシステム、突っ込みボケという新しい分野であり、1人が完璧にネタの九割喋るんです。で、誰がこれを編み出したかというと、最初は松竹芸能ケンケン・てるてるという方が、それをちょっとやったんです。それを見た島田洋七がパクったんです。これが自分に合うと思ったんです。その洋七さんを見てたけしさんも"これや!"ってパクったんです。そして高校三年生の僕が洋七さんを見て『今までの漫才なんか全然おもろない。これからはこれや!』ってこの世界に入ったんです。僕もツービートも全然売れてない時、東京の漫才コンクールでたけしさんに会ったんですが、たけしさんの言葉未だに忘れられません。『B&Bに似てるね』って。そんとき『はい』って言いながら心の中で、おまえらもやないかい、と叫びました」と話している[93]。 初対面でビートたけしが、とっさに年をごまかした人物[2][48][77][94]。たけしに「漫才だけは洋七に勝てなかった」「漫才ブームは洋七が作った」と言わせた人物でもある[95][96]

1993年7月2日にテレビ朝日系で放送された、漫才ブームを振りかえる『驚きももの木20世紀』「漫才ブームの真実」という番組では、洋七とぼんちおさむの眼を通しての漫才ブーム、という構成が取られていたが、この中で洋七は「漫才ブームは去ったけど、その中にビートたけしや島田紳助みたいな、とてつもない天才がいた、発見できたことが嬉しい。それは誇りですよ。漫才ブームが無ければ二人は無かったわけだから」と話した。

親友であるビートたけしは洋七に対して、「いろいろばかはあるが漫才ばかである。洋七から漫才をとったらうそ付き、うらぎり者、サギ師、へんたい、などしか残らない。でもギセー者は皆んな笑ってゆるしてやる男です」[97] と評価している。また、『ビートたけしのオールナイトニッポン』や『北野ファンクラブ』などでも、頻繁に洋七のホラ話をネタにしていた。『北野ファンクラブ』の1コーナーでは、たけしと「B&BEAT」という漫才コンビを組んだ[77][78]。2010年のたけしの著作『1084(to-san-ya-yo)』でも、洋七の話を扱ったネタが使われている。一方、洋七からたけしに対する感謝は、『俺の彼-がばいばあちゃんスペシャル』(徳間書店)で著されている。

逸話

  • ビートたけしをはじめ島田紳助や明石家さんまその他多くが、「あいつの話は9割以上がウソ」というぐらい、通常TVなどで喋っている事はほとんど作り話である。TVなどで話す内容と真実や本人の実像とは異なっており、自伝とされる『佐賀のがばいばあちゃん』も真実性は疑わしい。洋七の話す内容はほとんどがまことしやかな作り話で矛盾がどんどん生じるのだが、騙し通す事が目的ではないので、まったくお構いなしに作り話を重ねていく。出演者が真実を答えると思われているインタビュー番組などでも、真顔で尤もらしい作り話を語る。事実を知る者には洋七が語るそのウソは腹を抱えるほど可笑しいものであり、真実を知らないほとんどの人は洋七の話を真に受け、次第に様々な矛盾に混乱するはめになる。インタビュー番組が真面目なものであればあるほど、その可笑しさは倍増する。これは「お笑い」芸の本質とは嘘を楽しむことであり、マスコミを通して伝える自分の言葉や表現はすべて「芸」であること。芸人は虚像が実像であるかのように見せることが芸人のあるべき姿であり、正体を世間に晒すのは恥であるとする伝統的な芸能哲学によるものであること。また「マスコミが流す情報とは疑わしいものである」という洋七のインテリジェンスの発露によるものでもある。古典的な芸人の価値観を愛し、江戸っ子の切り口を身上とするビートたけしが、しばしば洋七のこのスタイルを真似をするが、洋七のように徹底すると社会的信用を失う危険性があり、漫才師・お笑い芸人「ビートたけし」であると同時に、世界的に有名な映画監督「北野武」を代表するように、社会的信用度が重要な文化人「北野武」であるがゆえに、中途半端な表現にならざるを得ず、いま自分が喋っている話はウソであると視聴者に悟らせるような後味が悪い表現になってしまっている。これが芸人ビートたけしは芸人島田洋七には敵わないと語る所以である。洋七がたけしの番組に出演した際でも「漫才では洋七には勝てない」とたけしが語っている[18]
  • 島田紳助は「漫才に関してめっちゃ知ってる、今でも尊敬している[98]」と述べ、洋七へ近づくために島田洋之介・今喜多代に弟子入りした[59][99]。このため紳助は師匠・島田洋之介のことは全く知らなかった。島田洋之と、師匠の名前を間違えて書いてバレてしまい「そんな奴は初めてや」とえらい怒られたという[100][101]
  • 20歳で妻と駆け落ちし、大阪・東住吉区の4畳半に2人暮らしを始めた[66]。野菜の配送や深夜の配管工のアルバイトをして食いつなぐ。漫才の報酬は1ステージこなして300円[66]。うめだ花月の進行係をしていた時、当時吉本新喜劇の新入りで同学年の間寛平と仲良くなり、程なく寛平が、新婚の洋七夫婦のアパートに転がり込み三人の共同生活が始まった[102][103]。仕事から帰ると、冷蔵庫にマヨネーズケチャップしか無いので、二人でそれを啜った[44][102]。「うさぎに食べさせる」と言って八百屋からもらってきた野菜の芯、パン屋の食パンの耳、花月の客が置いていった弁当などが貴重な食料となった[66]。そんな生活を8年続ける[66]。寛平は1989年に新喜劇を退団し東京進出を果たすが、この時に東京で活動していた唯一の知り合いが洋七で、寛平は洋七にビートたけしを紹介してもらい、芸人として一から再出発と覚悟を決め「たけし軍団」入りを志願した。たけしからは「若いヤツらばかりの軍団で本当にいいのなら」とOKをもらったが、「たけし軍団」の関西出身の若手芸人から「寛平さんに憧れてたのに(自分の後輩になるので)絶対に入らないで下さい」と訴えられ、軍団入りは結局やめたという[104]
  • また、ビートたけしが関西の番組に初めて出演した『たかじんnoばぁ〜』(1993年5月8日、15日放送)も、やしきたかじんから頼まれてその仲介をしたもので[69][78][105][106]中田カウスに「たけしさんに会わせてや」と頼まれ、二人が親交を結ぶ切っ掛けをつくったのも洋七である[107][108]
  • 同じ吉本に干された経験を持つ大平シロー白人黒人を含めた4人でコントをやろうとしたが、シローに発表イベントをすっぽかされたという[109]
  • 本人の語るところによると、最盛期、毎月数千万円が入った段ボールを妻に渡していたにもかかわらず「こんなに売れてるのに、何で給料がこんなに安いのか」と真顔で言われ、顔面蒼白となった。聞き返すと、段ボールの中はファンレターかと思い開けず、別に封筒で渡された端数の数十万円だけが給料と勘違いしたとのこと。段ボールは押入れの中に保管してあり約3億円の現金は無事だった[23][27][62]。その日は1月1日、銀行も休みで預ける事が出来ず、こういう時に限って来客も多く、夫婦揃って押入れの前から微動だにしなかった。1月4日になって銀行が開き電話をかけ金額が大きいから取りに来てくれと頼んでも「3億」と言うと、「イタズラ電話はやめて下さい」とどこも信用してくれなかった。仕方なく自ら銀行に出向き、自宅に支店長を連れてきて現金を見せると、「どうしたんだ貴様!!、この金!!」と言われた[110][111]。1980年の年収は8億円だったと話している[66]。豪遊以外にも広島の実家を建て替え、妻の実家に新しい漁船や機械を買ってやり、所沢に自宅を建てて車も買ったが、小さな事務所で税理士が付いておらず、節税の知識もなく、翌年以降、税金を払いきれず督促状がきて、数年かけてて5億円以上の税金を払ったという[63]
  • エッセイスト森茉莉は洋七のファンで、連載を持っていた『週刊新潮』のコラムで、洋七を"B七"と呼び、度々洋七を取り上げている[112]
  • 洋七を可愛がっていた“ミスター赤ヘル”山本浩二とイベントで一緒に出演。1984年に大活躍した山本は、王貞治を抜き年俸が球界一となった(当時の史上最高年俸)[113]。司会が「王選手を抜いて球界一の8500万円になりましたね! おめでとうございます!」と言ったあと、山本に「漫才師はどれくらいもらうんだ?」と聞かれた。あやうく「8億です」と言いそうになったが、その場の空気を読んで「いや、3000万くらいです」と答えると、「漫才師はもらい過ぎだな」と言われた[63]。洋七は「そのとき8億と言っていたらバットでノックされてたろう」と語る[114]。『日曜ゴールデンで何やってんだテレビ』(TBS、2013年1月20日放送)での、たけしの話では、山本浩二に飲み屋で、こういう話になったら、山本の年俸は俺らの1ヵ月の給料だったと話した。
  • やはり洋七を可愛がっていた横山やすし[115] と東京で『笑ってる場合ですよ!』の二つ前の枠番組だった『お茶の間スペシャル』で、一緒の仕事になったとき[116]、「東京で一番面白い若手」と紹介してもらったのが、ビートたけしとの最初の出会いである[10][15][116][117]錦糸町ロッテ会館の前にたけしを迎えに行き[2]、当時から売れっ子だったやすし師匠だから銀座クラブにでも連れてってくれるのかと期待していたら[116]千葉国道沿いの貨物便が止まるような大衆食堂に連れて行かれ、「遠慮せず何でも頼んだらええがな。食え、食え!」と言われ、程なく店の大将とやすしがどこかに行ってしまい、閉店まで置き去りにされた[2][10]。所持金が洋七500円、たけし700円でタクシーも拾えず[2]、仕方なく「始発まで歩こうか」と浦安まで4時間かけて歩きながら、夜通し喋り合って夢を話し「成功して大金を掴んだら何が欲しいか」の質問に対して洋七は「を腹一杯食べたい」と言ったが、同じ質問に対してたけしは「俺は芸が買いたい」と言ったという[118][119]。「そこがたけしとボクとの差ですね」「この体験があったからずっと友達でいられたのではないか」と洋七は話している[2][15]。この日の所持金、数百円だった洋七とたけしであるが、ここから1年少し後に年収7億、8億になったという[110]。始発に乗り、たけしは錦糸町で降り、洋七は宿泊先の赤坂東急ホテルに戻ると、やすしが朝一で大阪に戻るため、チェックアウトでフロントにいるので、抗議したら、やすしは「元気でなによりやがな」とだけ言ったという[118]。この日、洋七がたけしに「年なんぼ? 俺は(昭和)25年生まれや」と尋ねたところ、たけしは「一緒だよ」と答えたので、その後も「たけし、たけし」と呼んでいたら10年後にフライデー事件を起こしたときに、新聞記事を見てたけしの方が3歳年上と分かった[2]
  • たけしと親友になったのは1986年、たけしがフライデー襲撃事件を起こした時である。当時のたけしは多くのレギュラー番組を持っていたため、芸能界のみんなが来てくれると思っていたが、実刑かもと報道されると誰も寄り付かなくなった[18]。謹慎中で誰も面会に来なかった中、唯一洋七だけが会いに来たため、たけしは感謝で一日中泣いた、という[120]沖縄石垣島で謹慎中のたけしの所に、当時ヒマだった洋七は週に3日くらい来て飲み歩いた[15][62][121][122]。洋七は「それまで司会を務めたりしていて、アイツの周りには常に人が集まってきていたけど、全部仕事欲しさに近づいてきただけなんや。芸能人ほど、売れている人間が好きなやつはいない。芸能人がいちばん世間でもミーハーなんや。それはアイツが、いちばんわかっている」などと話している[77]
  • 浅草キッドは、「漫才師」という一見愚にもつかない職業をあの80年代初頭の空前の“漫才ブーム”の到来とともに、キラ星の如くスターが輝く芸能界のなかで眩しいほどの光明を誇る一等星に押し上げたのは、紛れもなくビートたけしと島田洋七であると話し、「俺たちがこの世界に飛び込んだのも二人に魅入られて決めたようなもの」と述べている[123]
  • 洋七とビートたけしが“漫才ブーム”で儲けて、憧れの「銀座で飲む!」と初めて銀座に繰り出したが、どこの店に入ったらいいか分からないので、高橋慶彦に紹介してもらった店に行ったという[124]。銀座で一晩飲むと200万と噂で聞いていたので、お互い2000万ずつ紙袋に詰めて行った[44][59][63]。料金がいくらになるかが恐ろしくママに15分おきに「今帰るといくらか」と聞き続けたという[44]。その店の会計は14万円だった。噂で聞いていた200万という金額は銀座でナンバーワンのホステスの給料だった[44][124]。銀座は安いと味をしめた洋七は、高級クラブに通い続け、結局悪いホステスにはめられて、スキャンダル記事を女性誌に掲載された[59]
  • 横澤彪は、「ビートたけしが超人気者になっても、CS放送ドキュメンタリー番組を見たりするなど、絶えず自己啓発に時間を割くのは、横澤がプロデュースした『笑ってる場合ですよ!』で司会をしたB&Bが、連日のギャグの連発で、とうとう才能を枯渇させてしまったのを見ているから。人気が出て有頂天になっていると、アッという間に地獄に滑り落ちる怖さを知ったからだと思う。」と述べている[125]。なお横澤は「笑ってる場合ですよ!」は「笑っていいとも!」のプロトタイプともいえる番組で、「THE MANZAI」が巻き起こした漫才ブームを「笑ってる場合ですよ!」が広げたと話している[126]
  • 横澤には『笑ってる場合ですよ!』の総合MCに抜擢されたという恩義はあるが、冷たく打ち切られた恨みがあるのか[127]、横澤が亡くなったときに、"横澤はたけし、さんま、タモリの育ての親"と評するマスメディアに対して「たけし、タモリさん、さんまの3人は、横澤さんの力ではなく、実力でのし上がったんですよ」と、故人の功績を批判する言及をおこなった[55]
  • 絶頂期のレギュラーはすべて司会[66]。当時は進行を示すカンペもなく、台本はすべて覚えるのがステータスだった[66]。寸暇を惜しんで頭に叩き込む。だが、そのプレッシャーがもとで、体は次第に変調をきたしていった[66]。2年後には心臓を病み、心臓神経症を発症した[66]。人気が急降下し、仕事が全くなくなった時期に睡眠薬自殺を図ったことがある。しかし薬を飲もうとしたそのとき、たけしから電話があり「一緒に飲もう」と誘われ、一晩中飲み明かしているうちに自殺のことなど忘れてしまったという[67][128]。また、仕事がまったく無かった時期は、蓄えがあったこともあり、通訳付で海外旅行を何度かしたりしていたと本人は語る。
  • 2006年2月7日放送の『ズバリ言うわよ!』(TBS系)にゲスト出演。細木数子は「これぞ一流の漫才」「今までの生き方を全て芸にしている」「素晴らしい」と洋七を大絶賛した。
  • 2007年8月19日、日本テレビ系『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』に出演したが、同番組のエンディング曲「サライ」が全く歌えなかったと番組終了後に引き続き、同会場の日本武道館(ただし、別室)から生放送された『行列のできる法律相談所』に出演した際に語った。洋七はそれまで同曲を知らなかったとしたが、1回聞いただけで覚えたとも話した。さらに同曲を(非常に長い曲であるため)「しつこい歌」と評し、紳助に「ぼろくそ言うな」と怒られていた。
  • 音痴である。
  • 山本浩二らと付き合いがあり一時は広島カープファンと言っていたが、下積み時代にアルバイトしていた大阪のスナックにお客として来た黒田正宏と家族ぐるみの付き合いが始まり、西武ライオンズに移籍した黒田に「空気がいいから」と勧められ、佐賀に転居するまで西武ライオンズ球場の近くに住んだ[129]。その後は長年にわたる西武ファンとなっている。西武のエースだった同学年の東尾修とも仲が良く[9]1970年代前半に洋七のバイト先があった大阪道頓堀の道端でバッタリ出会って以降、40年来の仲[103][130]
  • 『佐賀のがばいばあちゃん』が有名になるにつれて、ビートたけし島田紳助から「がばいばあちゃんはいなかった」「実はおじいちゃんだった」「まだ生きている」などと言われることがある(もちろんギャグとしての発言である)。『人生が変わる1分間の深イイ話』ではこれを逆手に取り、紳助との掛け合いで「嘘つき」キャラを定着させている。また、おばあちゃんの名言に関しても紳助が「8年間一緒に暮らしていた間に、計算すると1時間20分に1回名言を言っている」「(洋七から紳助に)メールで名言が送られてきたとき語尾に『新作』と書いてあった」などといじられることもある。

出演

テレビドラマ

情報番組

ラジオ

主な受賞歴

著書

  • 『振り向けば哀しくもなく』太田出版 1987
  • 『文句あっか!! オレとたけしの人生一笑一杯』ソニー・マガジンズ 1992
  • 佐賀のがばいばあちゃん』1993年、徳間書店、(のち文庫)
  • 『がばいばあちゃんの笑顔で生きんしゃい!』徳間文庫 2005
  • 『文句あっか!! オレのトンデモお笑い人生』2005 文春文庫plus
  • 『がばいばあちゃん佐賀から広島へめざせ甲子園』集英社 2006 のち文庫
  • 『がばいばあちゃんの贈る言葉 post card book』徳間書店 2006.4.
  • 『がばいばあちゃんの幸せのトランク』 2006.1. 徳間文庫
  • 『佐賀のがばいばあちゃんのレシピ 島田洋七とおさのばあちゃん』ソニー・マガジンズ 2006
  • 『島田洋七とがばい芸人たち 笑魂伝承』ロフトブックス編 イースト・プレス 2006
  • 『絵本佐賀のがばいばあちゃん』安藤勇寿絵 徳間書店 2007
  • 『俺の彼 がばいばあちゃんスペシャル劇場』徳間書店 2007 のち文庫
  • 『かあちゃんに会いたい がばいばあちゃんスペシャル』 2007 徳間文庫
  • 『がばいばあちゃん幸せの教え』ヴィレッジブックス 2007.12.
  • 『がばいばあちゃんの勇気がわく50の言葉』徳間書店 2007.4.
  • 『がばい田舎暮らし ばあちゃんが教えてくれた力を抜いて生きるヒント』2008 宝島社新書
  • 『がばい学校 ケータイだから言えた、10代の「今」』デジほん 2008.6.
  • 『がばいばあちゃん人生ドリル 明日を必ずいい日にする名言』 2008 だいわ文庫
  • 『がばいばあちゃんとがばい先生』辰巳出版 2008
  • 『がばいばあちゃんの口ぐせ本当の幸せは目の前にある』日本文芸社 2008
  • 『がばいばあちゃんの手紙』幻冬舎 2008 のち文庫
  • 『わたしの「がばいばあちゃん」』監修 2008 徳間文庫
  • 『アホになれば人生が明るくなる』ソニー・マガジンズ トレビズ新書 2009
  • 『帰ってきたよ、ばあちゃん がばいばあちゃんスペシャル』2009 徳間文庫
  • 『がばいばあちゃんお寺へ行こう』本願寺出版社 2009
  • 『島田洋七の老いてますます、おもろい人生 心が軽くなる、「老い」を笑って生きる知恵』日本文芸社 2009
  • 『転起力。 人間「島田洋七」から何を学ぶのか』創英社 2009
  • 『がばいばあちゃんめざせ甲子園 みらい文庫版』西公平絵 2011 集英社みらい文庫
  • 『死にたくなったら、これを読め!』潮出版社 2012
  • 『「人生に悔いなし」を実現する63章 人生に夢と希望の花が咲く!』ポプラ社 2012
  • 『毎日楽しくてしょうがなか! がばいばあちゃんが教えてくれたこと』はたこうしろう絵 徳間書店 2015
  • 『洋七・おかんのがばい介護日記』朝日新聞出版 2015

共著

  • 『絆 佐賀のがばいばあちゃんと宮崎のてげなかあちゃん』東国原英夫共著 徳間書店 2008 のち文庫
  • 『地方という生き方 僕たちが東京を離れた理由』東国原英夫共著 ソニー・マガジンズ 2010

作詞

脚注・出典

  1. 中国新聞、2008年10月5日、7面
  2. 2.00 2.01 2.02 2.03 2.04 2.05 2.06 2.07 2.08 2.09 2.10 2.11 週刊文春』「阿川佐和子のこの人に会いたい」第677回 2007年4月26日号 文藝春秋、128–132頁(この対談で洋七と阿川は、幼少期の同時期に、広島でごく近所に住んでいたことが判明)。
  3. 3.0 3.1 ふるさと発スペシャル「あいたい」2010年4月9日NHK広島、この番組で白島九軒町を訪ね、カブト商店の前のアパートに住んでいたと話した。
  4. 4.0 4.1 島田洋七『転起力。 人間「島田洋七」から何を学ぶのか』創英社/三省堂書店、2009年、p12、13
  5. 5.0 5.1 引用エラー: 無効な <ref> タグです。 「オスカー」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません
  6. 6.0 6.1 6.2 みんなで育てよう 社会の宝 - 厚生労働省
  7. 7.0 7.1 7.2 asahi.com(朝日新聞社):就職・転職ニュース
  8. 8.0 8.1 8.2 東京で稼いで地方で暮らすのが最高:日経ビジネスオンラインばあちゃんが、人生とおカネの先生 島田洋七さん - 日本経済新聞
  9. 9.0 9.1 9.2 9.3 9.4 9.5 9.6 (土) 第234回 ゲスト:島田洋七×東尾修 - BS朝日 - SUZUKI presents「極上空間」、2015年10月17日放送
  10. 10.0 10.1 10.2 “島田洋七 漫才ブーム時のたけしの名言とは 俺らは売れて良かったけど…”. デイリースポーツ (神戸新聞社). (2016年7月18日). オリジナル2016年7月18日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20160718144645/http://www.daily.co.jp/gossip/2016/07/18/0009297290.shtml . 2017閲覧. 
  11. 11.0 11.1 11.2 11.3 11.4 11.5 11.6 11.7 ぴいぷる:ZAKZAK島田洋七「講演で日本一になったる」:ZAKZAK
  12. 週刊現代、2004年4月24日号、p192-195モバゲータウンの人気コンテンツ『がばい学校 ケータイだから言えた、10代の「今」』6月16日(月)発売、『グレートマザー物語』「 島田洋七の母 ~ 涙のもみじ饅頭 ~」テレビ朝日、2005年12月11日放送、インタビュー【漫才師・タレント・作家・島田洋七さん】 旺文社、『メントレG』2007年12月16日、西条昇『ニッポンの爆笑王100―エノケンから爆笑問題までニッポンを笑いころがした面々』 白泉社 2003年 459、460頁、澤田隆治『漫才ブームメモリアル』、東阪企画、1982年、p83、遠藤佳三著『東京漫才うらばな史』青蛙房、2002年6月、p218-219、224、井上宏『まんざいー大阪の笑いー』、世界思想社、1981年、p19、中田明成『漫才ブームなのです』 作品社、1981年、p18、19、ザ・ぼんち・里見まさと『おおきに! 漫才 人生は何歳からでもやり直せるヨシモトブックスワニブックス、2013年、p57。
  13. 13.0 13.1 13.2 13.3 13.4 13.5 13.6 13.7 「島田洋七 佐賀のがばいしくじり先生」『しくじり先生 俺みたいになるな!!』3時間SP、テレビ朝日、2016年7月18日放送(そんなにしくじっていたの? 島田洋七、波乱万丈の半生を赤裸々告白島田洋七、参議院選挙落選は「あの有名芸人の演説が原因 ... - 日刊大衆島田洋七、「しくじり先生」で洋八とサプライズ対面し涙「ごめんな」スポーツ報知『しくじり先生』島田洋七が語らなかった“吉本退社”全真相「事実上のクビだった」)。
  14. 毎日新聞、2011年9月24日10面
  15. 15.0 15.1 15.2 15.3 15.4 15.5 日曜ゴールデンで何やってんだテレビ』、TBS、2013年1月27日放送(“たけしが洋七に肩入れする背景 - 東スポWeb”. 東京スポーツ (東京スポーツ新聞社). (2013年1月27日). オリジナル2013年5月31日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20130531205550/http://www.tokyo-sports.co.jp/entame/88340/ . 2017閲覧. 
  16. 豪快コンビ、たけしと洋七 - リアルライブ
  17. 17.0 17.1 北野武、黒澤明監督に映画界を託されていた - シネマトゥデイ
  18. 18.0 18.1 18.2 18.3 「「龍三と七人の子分たち」見て笑えバカヤロウ! じゃなきゃ暴(や)っちゃうぞコノヤロウ!! インタビュー 島田洋七 暴力は優しさの裏返しなんや」、『キネマ旬報』5月下旬号、キネマ旬報社2015年、 28–29頁。
  19. 19.0 19.1 ビートたけしと島田洋七、知られざる“夫婦のような深い関係”があった!
  20. 自著『俺の彼 がばいばあちゃんスペシャル劇場』、徳間書店、2007年
    クメピポ! 絶対あいたい1001人』(毎日放送)、2009年7月29日放送で、久米宏とビートたけしの対談があり、この中でたけしが「親友は洋七」と話した。
  21. 人身事故で遅延、「飛び込みやがって」と悪態つく男を「蹴ってやった」 島田洋七に賛否両論 -Jcastニュース
  22. 第35回 インタビュー 漫才師 島田 洋七さん 広島市メールマガジン第187号掲載(2011年(平成23年)1月10日発行)(Internet Archive)
  23. 23.0 23.1 23.2 ばあちゃんが、人生とおカネの先生 島田洋七さん :日本経済新聞
  24. #こんな人生で(2)2013年7月3日
  25. 追悼訪問 島田洋七さん、亡父思い「原爆使うたらあかん」 広島、長崎は核の教科書/佐賀 - 毎日新聞
  26. 生き方はがばいばあちゃんから学んだ
  27. 27.0 27.1 27.2 27.3 27.4 トクベツキカク - SmaSTATION!!
  28. #こんな人生で(7)2013年7月11日
  29. 洋七に「虚言癖」?? 紳助がテレビで暴露 (1/2) : J-CASTニュース
  30. 30.0 30.1 30.2 #こんな人生で(8)2013年7月12日
  31. 『転起力。』、p64、65
  32. 卒業生一覧 1961 〜 1970 有志の会 - 広陵高校野球部
  33. 歴代監督 1950 〜 有志の会 - 広陵高校野球部
  34. 【広島】夏雲の群像2―伝統の激突 - 朝日新聞デジタル朝日新聞デジタル:習志野―広陵(決勝)栗村智 朝のひとりごと ニッポン放送
  35. 卒業生一覧 1971 〜 1980 - 広陵高校野球部【あの時・75年カープ初優勝】(3)「誰かがやらなければ ... - スポーツ報知広島の背番号21 「佐伯の祟り」としてドラ1投手が死屍累々角川博 カープVで『おたふくソースかけ』 広島出身の血が騒ぐ
  36. 36.0 36.1 『昭和の名コンビ傑作選 第3巻 B&B: DVD付きマガジン よしもと栄光の80年代漫才』小学館、2013年、p3-4
  37. 島田洋七 - ルーフトップギャラクシーw
  38. 38.0 38.1 38.2 島田洋七、「たけしは前科1犯、紳助は0.5犯や」-スポーツ報知
  39. 「がばいばあちゃん」に教わった教育論……島田洋七さん
  40. 40.0 40.1 #こんな人生で(9)2013年7月16日
  41. メントレG』出演時の話ではロールス・ロイス
  42. 『お笑いスター誕生!!』、日本テレビ放送網、1981年、p166-168
  43. 43.0 43.1 『転起力。』、p82-85
  44. 44.0 44.1 44.2 44.3 44.4 メントレG』2007年12月16日
  45. #こんな人生で(18)2013年7月23日
  46. 『転起力。』、p88
  47. ツカサネット新聞
  48. 48.0 48.1 ラジオ黄金時代、JFN、1998年11月15日
  49. 49.0 49.1 笑いは世につれ 戦後大衆芸能をふり返る(13) 東京漫才の若手たち笑いは世につれ 戦後大衆芸能をふり返る(14) 東西の対決企画笑いは世につれ 戦後大衆芸能をふり返る(15) 「MANZAI」の誕生(archive)
  50. 漫才歴史ミステリー 笑いのジョブズ(朝日放送)2013年3月24日漫才歴史ミステリー 笑いのジョブズ - 関東版TVトピック検索 - Goo お笑いナタリー - 漫才界のジョブズを解き明かす歴史ミステリーまもなく放送
  51. 『M-1』決勝者がダウンタウンらの“名作漫才”をカバー ニュース-ORICON
    『上方放送お笑い史』読売新聞大阪本社文化部編、読売新聞社、1999年、p333-369
  52. ラジオ黄金時代、JFN、1998年11月15日
    『東京漫才うらばな史』、p222
    西条昇著 『ニッポンの爆笑王100―エノケンから爆笑問題までニッポンを笑いころがした面々』 白泉社 2003年、459-461頁
    芸能界「一発屋」外伝、宝泉薫、2001年10月、彩流社、p16
    「漫才ブームメモリアル」、澤田隆治、東阪企画、1982年、p125、161、368
    ながいやんの「ファイト!」: 漫才ブームと甦る「やす・きよ漫才」
    島田紳助 松本人志著『哲学』、256、257頁
    紀伊國屋運営DVD/CD専門ショッピングサイト 「Forest Plus」
    『M-1グランプリ』とは何を目的に、何を審査しているのか?
  53. 『漫才ブームメモリアル』、p85
  54. メントレG』(2007年12月16日放送)は「ツービートとともに漫才ブームを引き起こす」と紹介。
  55. 55.0 55.1 「たけし、さんま、タモリの育ての親じゃない!?」故・横澤彪氏の葬儀にBIG3は出席せず
  56. 『日本全国「お土産・名産品」おもしろ事典』日本博学倶楽部、PHP研究所、2008年、p20-22
  57. 西条昇著 『ニッポンの爆笑王100―エノケンから爆笑問題までニッポンを笑いころがした面々』 白泉社 2003年 p461、462
    「漫才ブームメモリアル」、澤田隆治、東阪企画、1982年、p83-85、369
    『昭和ヒーロー事典』講談社、1989年7月、p582-583
    ツカサネット新聞
    遠藤佳三著『東京漫才うらばな史』、p222―223
    週刊現代、2004年4月24日号、p192-195
    朝日新聞、2009年10月22日16面
  58. 【吉本興業研究】プロとアマ、崩れる境界線 第5部「お笑いの行方」編(3)
  59. 59.0 59.1 59.2 59.3 59.4 59.5 東京スポーツ、2011年6月12日、28面
  60. アサヒ芸能徳間書店、2007年10月11日号、p215-217
  61. 『コマネチ!―ビートたけし全記録』、p37
  62. 62.0 62.1 62.2 62.3 62.4 ラジオ黄金時代、JFN、1998年11月22日
  63. 63.0 63.1 63.2 63.3 #こんな人生で(24)2013年8月9日
  64. 日曜ゴールデンで何やってんだテレビ』(TBS、2013年1月20日放送)での、たけしの話では1ステージ二人で900万円。
  65. #こんな人生で(28)2013年8月16日
  66. 66.00 66.01 66.02 66.03 66.04 66.05 66.06 66.07 66.08 66.09 66.10 『わたしの失敗Ⅱ』 産経新聞出版、2007年、p19-26
  67. 67.0 67.1 67.2 #こんな人生で(29)2013年8月20日
  68. このラーメン店絡みでよく使われるネタが、たけしと伊香保温泉に遊びに行く途中ここへ寄り、レジから売上げを抜いて店を潰した(経営から手を引いた)というもの。
  69. 69.0 69.1 島田洋七インタビュー
  70. ビートたけし『場外乱闘』、太田出版、1992年、p187
  71. 71.0 71.1 71.2 退社の島田洋七「のどの調子悪い」…参院選出馬説も - ZAKZAK
  72. 東京スポーツ、2012年4月14日、18面
  73. #こんな人生で(32)2013年8月23日
  74. 74.0 74.1 日刊ゲンダイ』2007年4月14日31面
  75. 芸能界「一発屋」外伝、宝泉薫、2001年10月、彩流社、p16
  76. 76.0 76.1 #こんな人生で(1)2013年7月2日
  77. 77.0 77.1 77.2 77.3 アサヒ芸能徳間書店、2007年10月11日号、p215–217
  78. 78.0 78.1 78.2 #こんな人生で(34)2013年8月28日
  79. BIG tomorrow』324、2007年6月1日号、p85、青春出版社
  80. 80.0 80.1 80.2 80.3 #こんな人生で(33)2013年8月27日
  81. 決定版「一発屋」大全、宝泉薫、2001年10月、彩流社、p152
  82. あっと九州/島田洋七インタビュー
  83. 美輪明宏は本作を「人生の哲学書」と称賛(TBS「美輪明宏からの遺言"ブラボー日本"」2008年1月8日)。
  84. 佐賀のがばいばあちゃん:DSゲームが2月発売 昭和の幸せな極貧生活を体験
  85. 日経マネーブログ powered by ココログ: 編集長のひとこと 次号の編集「がばい(すごい)」です。
  86. 産経新聞、2009年5月5日14面
  87. 87.0 87.1 東京スポーツ、2011年9月4日、25面
  88. 88.0 88.1 島田洋七の現在 | 漫才ブームの頂点を極めた男の栄光と転落 - Writerslab
  89. “大御所”島田紳助と吉本興業幹部との抗争が勃発!?
  90. 平成23年7-8月号 - 全国焼肉協会
  91. ざわめく吉本興業の暗部......「コメディNo.1」前田五郎の1億2,000万円訴訟に和解勧告
  92. メントレ』スーパーG秋の2時間大放出スペシャル、フジテレビ、2006年10月9日
  93. クイズ!紳助くん』、朝日放送、2008年6月23日([紳助] - タスカプレミアム)、似た内容が、島田紳助の著書『自己プロデュース力』ワニブックス、2009年、p49-56に記述。
  94. #こんな人生で(最終回)2013年8月30日
  95. 誰でもピカソ」(テレビ東京、2008年4月4日)「愛のエプロン」(テレビ朝日、2007年8月8日)東国原英夫
  96. 週刊現代、2004年4月24日号、p192-195
  97. 『新潮45別冊2月号 コマネチ!ビートたけし全記録』新潮社、1997年、p.28
  98. 商品の説明 Amazonレビュー - Amazon.co.jp
  99. 洋七の舞台見て「この人倒そう」と…島田紳助(1)【紳助ツッパリ列伝】「打倒!島田洋七」が芸能界“天下取り”の原点週刊朝日、1982年1月29日号、p114-115、島田紳助松本人志著『哲学』幻冬舎、2003年3月、30-34頁、島田紳助『自己プロデュース力』ワニブックス、2009年、p49-56
  100. #こんな人生で(10)2013年7月17日
  101. ホンネの殿堂!!紳助にはわかるまいっ」爆笑(秘)先輩&後輩SP、フジテレビ2010年2月19日
    ザ・爆笑王 2010「史上最強のガチンコ漫才バトル!!島田紳助頂上10組が夢の激突」、日本テレビ系、2010年3月16日
    『転起力。』、p82-85
  102. 102.0 102.1 #こんな人生で(11)2013年7月18日
  103. 103.0 103.1 『ボクらの時代』フジテレビ系、2008年5月11日放送
  104. 九州スポーツ<連載 行ってらっしゃい!かんぺいちゃん>2008年10月24日23面、10月28日21面
  105. 「たかじんとたけし」東西帝王の酒場交流“涙”秘話(2) アサヒ芸能、2014年1月30日号、42-45頁
  106. たかじんさん、本当は東京が好きだった
  107. FLASH』、2009年5月12、19日号、光文社、29頁
  108. 島田洋七
  109. 突然死・大平シロー破天荒人生 | アサ芸プラス文福のおいやんストーリー 有馬の宴でアリ?マー!!
  110. 110.0 110.1 #こんな人生で(23)2013年8月8日
  111. 自著『島田洋七とがばい芸人たち 笑魂伝承』、イーストプレス、p21-23
  112. 『週刊新潮』、1982年8月5日号、p85、8月12日号、p81、9月9日号、p94
  113. 【12月11日】1984年(昭59) 牙城崩れた 山本浩二、王貞治の年俸ついに抜く
  114. 自著『島田洋七とがばい芸人たち 笑魂伝承』、イーストプレス、p24、25
  115. 島田洋七がもっとも愛する芸人“横山やすし” - リアルライブ
  116. 116.0 116.1 116.2 #こんな人生で(17)2013年7月30日
  117. 浅草キッド『お笑い 男の星座』、文藝春秋、2001年、p72-74 ラジオ黄金時代、JFN、1998年11月15日、『ビートたけしは「財テク」の天才だった!』、p93、94、スポーツ報知、2009年2月24日、24面、
  118. 118.0 118.1 #こんな人生で(18)2013年7月31日
  119. 『転起力。』、p157―159
  120. 『転起力。』、p153―155、『ビートたけしは「財テク」の天才だった!』、p95
  121. 東京スポーツ、2011年9月24日、1面
  122. #こんな人生で(30)2013年8月21日
  123. 『お笑い 男の星座』p71
  124. 124.0 124.1 『俺の彼 がばいばあちゃんスペシャル劇場』 p54-61、徳間書店、2007年
  125. 横澤彪『犬も歩けばプロデューサー』 p26-27、日本放送出版協会、1994年
  126. 『犬も歩けばプロデューサー』 p87-94
  127. FLASH』2011年2月1日号、p91
  128. 命救った「ビートたけしからの電話」 「がばい」メッセージで笑顔思い出して
  129. #こんな人生で(12)2013年7月19日
  130. ここだけの 話満載!!素晴らしき仲間旅|2011年4月9日|土曜スペシャル

参考文献

関連項目

外部リンク

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