平和台野球場

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平和台野球場
Heiwadai Baseball Stadium
施設データ
所在地 福岡県福岡市中央区城内1-2
福岡市舞鶴公園内
開場 1949年12月18日
閉場 1997年11月24日
グラウンド 天然芝(開場~1978年)、
人工芝(1979年~閉場)
照明 照明塔 - 6基
照度 - バッテリー間:1900ルクス
     内野:1500ルクス
     外野:1000ルクス
建設費 3000万円
収容能力
34,000人
 内野19,700人(特別席9,900人、
 内野席9,800人)、外野14,300人
グラウンドデータ
球場規模 両翼 - 92 m (約301.8 ft)
中堅 - 122 m (約400.3 ft)
バックネット - 20 m (約65.6 ft)
フェンス 不明
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平和台野球場(へいわだいやきゅうじょう)は、かつて福岡県福岡市中央区にあった野球場で、プロ野球3球団が本拠地としていた。1949年に建設され、1997年に閉鎖された。

歴史

ライオンズ時代

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球場初のナイター(1954年6月2日)
ファイル:1954 0602 Heiwadai Baseball stadium 1st night geme Attraction.jpg
初ナイターを祝うセレモニーでのアトラクション(1954年6月2日)

1948年、福岡県で第3回国民体育大会が開催された際、福岡市の中心地にある舞鶴公園福岡城址、陸軍第12師団歩兵第24連隊跡地)に陸上競技場、球技場2面などを擁する平和台総合運動場が建設される。当時の連隊跡地はGHQに接収されていたが、国体の準備委員長を務めた岡部平太がGHQ相手に何度も折衝を行い、その際に「連隊跡地をスポーツによるPEACE HILL(=平和台)にしたい」と語ったことなどから接収は解除され、運動場が作られることになった。1949年12月18日に、球技場の1面(国体でサッカー競技が開かれた場所)を造り変えて平和台野球場が完成した。総工費は3000万円。

1950年にプロ野球に参入したパシフィック・リーグ西鉄クリッパースセントラル・リーグ西日本パイレーツ本拠地球場となった。翌1951年に西鉄と西日本が合併してパ・リーグの西鉄ライオンズになるが、引き続き西鉄が本拠地とした。

開場当時はナイター照明がなく、試合中に日没になった場合は球審の判断により試合打ち切り(進行状況によりコールドゲームまたはノーゲーム)とすることになっていた。1952年平和台事件をきっかけに1954年、ナイター照明を設置している。

1953年8月29日中西太が本球場のバックスクリーンをはるかに越える推定飛距離160メートルの本塁打を放ったことで話題になった。1954年のリーグ初優勝から西鉄ライオンズの黄金時代が始まり、豊田泰光、中西太、大下弘稲尾和久1956年入団)らを擁したチームは1956~1958年読売ジャイアンツを下し日本シリーズ3連覇を果たしたが、特に1958年は3連敗の後の雨天中止が引き金となり、奇跡とも言われた4連勝を果たした。

だが、本球場はスタンドが低い上に芝生(土盛)席も多かったため、優勝チームの球場にはあまりふさわしくないという意見が出てきた。1956年には球場改装を求める看板が球場前に立てられたり、ファンの署名活動が始まるなど球場改装への期待が高まった。そのため、1957年のシーズン終了後から全面改修工事を施し、スタンドの全面座席化を実施。1958年4月26日に竣工した(竣工が開幕日に間に合わなかったため、同年の開幕戦から数試合の西鉄主催試合は小倉市営球場(現:北九州市民球場)で開催[1])。総工費2億5000万円。

1969年に起きた黒い霧事件によって西鉄ライオンズは多くの選手が永久追放などの処分を受けたことで成績は低迷。西鉄は経営意欲を喪失していった。1973年、当時ロッテオリオンズのオーナーだった中村長芳によって西鉄球団が買収され「福岡野球株式会社[2]が設立。さらに球団の命名権が売却されて1973年~1976年は「太平洋クラブライオンズ」、1977年1978年は「クラウンライターライオンズ」となるも黄金時代の輝きを取り戻すことができず、観客動員も大幅減少に陥る。1978年10月、福岡野球は西武グループに買収されて「西武ライオンズ」となり、本拠地を埼玉県所沢市の西武ライオンズ球場(現:メットライフドーム)に移転。これにより福岡を本拠地とするプロ野球球団がなくなった。「福岡のライオンズ最後の平和台の試合」は同年秋、シンシナティ・レッズを迎えた日米野球(対巨人・クラウン連合)として行われた。

ライオンズ撤退からホークス誘致まで

ファイル:Heiwadai Stadium01.jpg
平和台球場外野スタンド跡(2006年6月撮影、現存せず)
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平和台球場記念碑(2006年10月撮影)

ライオンズ移転後の1978年12月、福岡市と地元企業による第三セクターの興業会社「平和台野球株式会社」が設立され、本拠地球団なき本球場での公式戦開催を支援した。翌1979年には2億6000万円をかけて、グラウンドを西日本初の全面人工芝に一新している。このような取り組みにより、1979年以後は主に西武ライオンズ(1979年は主催10試合を含め17試合開催。 特に5月にはホーム扱いでの近鉄バファローズ戦7試合、8月にはビジター扱いの近鉄戦と日本ハムファイターズ戦、並びにホーム扱いの阪急ブレーブス戦が各3試合ずつ=計9試合がそれぞれ集中的に開催された)を中心としてプロ野球各チームによる公式戦が年間20~30試合程度開催された。

ちなみにこの間、本球場で主催・主管試合を開催しなかったのは中日ドラゴンズのみだが、これは「原則として中日新聞北陸中日新聞も含む)の販売エリアで主催試合を行う」という同球団特有の“暗黙の了解”が影響したと考えられる。また、広島東洋カープは公式戦での主催試合は行わなかったが、1981年3月28日にオープン戦で主催試合(対近鉄戦)を開催している他(出典:読売新聞・岡山版、1981年3月28日、テレビ・ラジオ欄。広島ホームテレビが中継)[3]、1984年の日米野球でホームゲーム扱いの試合を開催した(ただし主催は読売新聞社だった)。

なお、読売ジャイアンツの主催試合は球団と読売新聞社、日本テレビの主催による自主興行扱いで開催した。

1987年7月8日南海ホークス対ロッテオリオンズのサスペンデッドゲームの続行試合が行われたが、これは同年5月23日柏崎市佐藤池野球場新潟県柏崎市)での試合が雨天などの影響で日没サスペンデッドになったもので、地方球場の場合は後日別球場での開催が認められることによる処置として行われた(本来は7月7日に予定されていたが、雨天のため順延された)。なお、これはサスペンデッドの続きの試合が地方球場で行われた唯一の例だった(ただし専用球場以外という観点で見れば、1954年の近鉄パールス東映フライヤーズ戦が中断の前、後とも中日(現:ナゴヤ)球場で行われた例がある)。

また、1984年に稲尾和久がロッテの監督に就任した際、将来的に本拠地を当時の川崎球場神奈川県川崎市)から本球場に移転することを条件に監督要請を受託したとされているが、実現には至らなかった。

ホークス時代

1988年9月、南海ホークスがダイエーに譲渡され本拠地を大阪球場から本球場に移転。これにより本球場は10年ぶりにプロ野球の本拠地球場となった。これに伴い使命を終えた平和台野球株式会社は解散している。1990年、バックスクリーンの左に当時としては破格の大きさだった大型映像装置「ホークスビジョン」(SONY製・ジャンボトロン)を設置したが、スコアボードは手動のままであった。

1987年末、「古代アジアの玄関口」とされる鴻臚館(こうろかん)遺跡が球場の改修工事中に発見されたため、遺跡の発掘を進めるとともに同所を歴史公園として再整備することが計画された。また、ダイエーも本球場に代わり中央区地行の埋立地に福岡ドーム(現:福岡 ヤフオク!ドーム)の建設を進めていた。このためプロ野球の公式戦は福岡ドーム完成前年の1992年を最後に終了。プロ野球最後の試合は10月1日のダイエー対近鉄戦で、当時ダイエーの新人だった若田部健一が近鉄・野茂英雄との投手戦を1 - 0で制し10勝目を挙げた。なお、本球場での最後の本塁打はダイエーの広永益隆であった。

本球場は福岡ドームの完成後もしばらくは残され、全国高等学校野球選手権福岡大会など主にアマチュアの公式戦で使用されたが、1997年に老朽化と歴史公園整備の本格着手に伴い完全閉鎖された。同年11月24日にお別れイベント「さよなら平和台」が開催され、ダイエー対オリックスや西鉄OB対福岡市民代表チームの試合などが行われた。これを以て約半世紀に渡って九州の野球界を牽引してきた球場の歴史に幕が下りた。

廃止以後

備品の一部は上述の1997年11月に行われたイベント「さよなら平和台」の一環として、各備品ごとに事前申込者の中から抽選で無償譲渡された。

2002年には西鉄ライオンズOB会の有志が発起人となって記念碑が建立され、西鉄OBの玉木春雄が清掃を行っているという。

球場解体後も外野スタンドや外壁の一部が残されていたが、2005年3月20日福岡県西方沖地震によって外壁に亀裂が入るなどの被害を受け、崩落の危険性が生じたため、2007年12月から2008年4月にかけて全て解体撤去された。なお、撤去工事が終わった後にはフェンスが新設され、福岡市教育委員会が鴻臚館(こうろかん)遺跡の説明パネルを設置した。

舞鶴公園の敷地内には現在、軟式野球専用の「舞鶴公園野球場」がある。

施設

  • 敷地面積:25,480m2(グラウンド面積:12,349m2、スタンド面積:13,131m2。公園内のため外構面積は含んでいない)
  • スコアボード:手書き(1990年~1992年はバックスクリーン左側に電光掲示板「ホークスビジョン」を併設)
1988年までは15回まで+合計得点表示。1989年から14回まで+合計得点・安打表示となった。
選手名表記は当初9人分しかなかったため、1975年にパシフィック・リーグが指名打者制度を取り入れてからは当初はチーム名を表記する箇所に投手名を入れていた。後に改修され、投手を含め10人分の記載が可能となった。
またバックスクリーンには電光広告看板(周囲に豆電球が点滅するもの。本拠地球団のなかった時代はPENTAX(旭光学工業)、ダイエーの本拠地化後はサッポロビール)が掲出され、本塁打が出るとその上に「HOMERUN」の文字が掲出された。
フェンスは1970年代~1987年頃までカラー広告だったが、その後緑地・白文字に変更された。またスタンド看板も1988年までカラーボードだったが、その後は福岡ダイエーホークスのチームカラーに合わせて白地・青緑色の文字に統一された(同時期、北九州市民球場も同様の改修をしている)。
  • バックスクリーンの裏側には売店が数軒存在した。売店中央部で販売していたうどんは人気が高く、閉鎖後も語り草となっている。

雑記

関連書籍

  • 『さよなら平和台:夢を思い出をありがとう』 - 西日本新聞社編集・発行、発行日:1997年11月、書籍コード:ISBN 4816704558
本球場の閉鎖を記念して発行された書籍。本球場における西鉄ライオンズ本拠地時代から閉鎖までのエピソードを写真と交えて紹介していく。当時の西日本新聞や西日本スポーツ記者をはじめ、ライオンズOBの河村英文基満男、同球団の代表だった坂井保之も寄稿している。

脚注

  1. 小倉では小倉豊楽園球場時代から準本拠として年20試合前後行われたが、1965年は主催試合の半数にあたる35試合ずつ(年140試合中ホームは70試合)を平和台と小倉で分け合って開催した。
  2. 当時は本球場内に事務所があったが、福岡市から使用許可が出ていないという理由でクレームがつき、事務所は本球場のまま法人の登記上の本社を当時球団社長だった坂井保之の自宅(当時は福岡市にあった)に移したとされる。
  3. 解説:河村英文(当時九州朝日放送野球解説者)。同局での放送の有無は不明。

関連項目

テンプレート:埼玉西武ライオンズの本拠地 テンプレート:福岡ソフトバンクホークスの本拠地