弘文天皇

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弘文天皇(こうぶんてんのう、大化4年(648年) - 天武天皇元年7月23日672年8月21日))は、第39代天皇(在位:天智天皇10年12月5日672年1月9日) - 天武天皇元年7月23日(672年8月21日))。大友(おおとも)または伊賀(いが)。明治3年(1870年)に諡号を贈られ、天皇として認められたが、即位したかどうか定かではなく、大友皇子と表記されることも多い。

概要

天智天皇の第一皇子。母は伊賀采女宅子娘(いがのうねめ・やかこのいらつめ)。天智後継者として統治したが、壬申の乱において叔父・大海人皇子(後の天武天皇)に敗北し、首を吊って自害する。

異母兄弟姉妹

兄弟姉妹の表記は第一皇子、第二皇子等の記述を基にしたが、序列的な意味合いもあるため、実際の生誕順ではないことがある。

系図

テンプレート:皇室白鳳奈良

陵・霊廟

(みささぎ)は、宮内庁により滋賀県大津市御陵町にある長等山前陵(ながらのやまさきのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は円丘。遺跡名は「園城寺亀丘古墳」。

また皇居では、皇霊殿宮中三殿の一つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。

千葉県君津市の白山神社古墳に埋葬されるという伝説が旧久留里藩士の森勝蔵によって存在するほか[1]愛知県岡崎市小針町にある小針1号墳が大友皇子の陵とする伝承、愛知県岡崎市西大友町の大友皇子御陵という塚を陵とする伝承なども存在する。

即位説

日本書紀』には、天智天皇は実弟・大海人皇子を東宮(皇太子)に任じていたが、天智天皇は我が子可愛さの余り、弟との約束を破って大友皇子を皇太子に定めたと記されている。しかし漢詩集『懐風藻』や『万葉集』には「父・天智が大友皇子を立太子(正式な皇太子と定めること)していた」とあり、これを支持する学説もある。また、皇位には天智天皇の皇后・倭姫王を立て、自らは皇太子として称制していたとする説もある。

父・天智天皇(天智7年・668年即位)のもとで天智10年(671年)に太政大臣となり、その政務を補佐した。

『日本書紀』天智10年(671年)11月の条に、「大友皇子は左大臣蘇我赤兄臣・右大臣中臣金連・蘇我果安臣・巨勢人臣・紀大人臣ら五人の高官と共に宮殿の西殿の織物仏の前で「天皇の詔」を守ることを誓った。大友皇子が香炉を手にして立ち、「六人心を同じくして、天皇の詔を奉じる。もし違うことがあれば必ず天罰を被る」と誓った。続いて5人が順に香炉を取って立ち、臣ら五人、殿下に従って天皇の詔を奉じる。もし違うことがあれば四天王が打つ。天神地祇もまた罰する。三十三天、このことを証し知れ。子孫が絶え、家門必ず滅びることを、などと泣きながら誓った」とある。

丙辰 大友皇子在內裏西殿織佛像前 左大臣 蘇我赤兄臣 右大臣 中臣金連 蘇我果安臣 巨勢人臣 紀大人臣侍焉

大友皇子手執香鑪 先起誓盟曰 六人同心 奉天皇詔 若有違者 必被天罰 云云 於是 左大臣 蘇我赤兄臣等手執香鑪 隨次而起 泣血誓盟曰 臣等五人隨於殿下 奉天皇詔 若有違者 四天王打天神地祇亦復誅罰 三十三天 証知此事 子孫當絶 家門必亡 云云

ここでいう「天皇の詔」(詔勅)の内容は判然としないが、天智天皇の死後に大友皇子に皇位を継承させることを指示していたものと考えられている。

天智天皇10年12月3日(672年1月7日)の先帝・天智天皇崩御から壬申の乱による敗死までその治世は約半年と短く、即位に関連する儀式を行うことは出来なかった。そのため歴代天皇とみなされてはいなかったが、明治3年(1870年)になって弘文天皇と追号された。

在位中の重臣一覧

年月日(西暦) 太政大臣 左大臣 右大臣 御史大夫
天智天皇10年12月5日(672年1月9日) 蘇我赤兄 中臣金 蘇我果安 巨勢人 紀大人

異説・俗説

ファイル:Prince Otomo tomb Isehara.jpg
弘文天皇の御陵(神奈川県伊勢原市)[2]

壬申の乱の敗戦後、弘文天皇は妃・子女を伴って密かに東国へ逃れたとする伝説があり、愛知県や神奈川県や千葉県に弘文天皇に関連する史跡が幾つか残っている。

脚注

  1. 千葉県の文書館(21) 2016年3月所収・宮間純一著『旧久留里藩士森勝蔵の弘文天皇陵治定運動』
  2. 東経139度16分6秒北緯35.436778度 東経139.26833度35.436778; 139.26833 ((伝)大友皇子陵)

外部リンク