御船町

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御船町(みふねまち)は、熊本県上益城郡にある

御船の地は、古くから上益城地方の政治・経済・文化の中心地。県下屈指の醸造の町であり有数の商都として知られてきた。また、要害枢要の地であり南北朝の昔から、近くは1877年明治10年)の西南戦争にいたるまで、幾たびか血なまぐさい戦いが繰り返され、これら古戦場や古い文化・史跡・名勝の類も多い。日本で初めて肉食恐竜の化石「御船竜」が発見されたため、恐竜の里として知られる。

地理

隣接している自治体・行政区

地名

  • 滝川
  • 辺田見
  • 御船
  • 小坂(旧小坂村)
  • 木倉(旧木倉村)
  • 陣(旧陣村)
  • 高木(旧高木村)
  • 滝尾(旧滝水村)
  • 水越(旧滝水村)
  • 豊秋(旧豊秋村)
  • 上野(旧七滝村)
  • 田代(旧七滝村)
  • 七滝(旧七滝村)

歴史

御船町の名は、景行天皇の九州平定ご巡幸の際、その「御船(おんふね)」が着岸したことによって名づけられたと伝えられる。

南北朝のころは、阿蘇氏の一族、御船氏が支配。

戦国時代御船行房が支配。行房は阿蘇氏の智将、甲斐宗運に討たれ、甲斐氏が支配。

1587年天正15年)、豊臣秀吉によって肥後国は2分され、小西行長が支配。

関ヶ原の戦いで行長が滅ぼされると、加藤清正が支配。さらに1633年加藤忠広の改易により細川忠利が支配。以後、細川氏明治まで支配。

沿革

  • 1879年(明治12年)「郡区町村編制法」発布時、御船町、辺田見村、滝ノ尾村、七滝村、上野村、、田代村、木倉村、高木村、豊秋村、水越村。
  • 1955年(昭和30年)1月1日 御船町、滝水村、七滝村、木倉村、高木村、豊秋村、小坂村、陣村が合併し、御船町が発足。

行政

  • 町長:藤木正幸(2015年4月27日から)1期目
  • 町議会議員 14人

国の機関

県の機関

経済

  • 2002年度町内総生産 409億円

産業

  • 主な産業
  • 産業人口

地域

健康

  • 平均年齢

人口

御船町(に相当する地域)の人口の推移
総務省統計局 国勢調査より

教育

大学
高等学校
中学校
小学校
かつて存在した学校

交通

空港

道路

高速道路
一般国道
主要地方道
一般県道

バス

高速バス
一般路線バス

名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事

  • 辺田見若宮神社
  • 東禅寺(南北朝時代の1360年建立 上益城郡内最古の寺院)
  • 玉虫寺 - 平家物語に登場する玉虫御前は御船出身といわれる。源平合戦のあと人目を避けて故郷の御船へ帰り、この寺を建立し尼となり平家一門の菩提を弔った。
  • 七滝神社例大祭(5月第2日曜)
  • 御船があーっぱ祭り(かっぱ祭り 8月第3日曜)
  • 吉無田高原 - 九州でも屈指の高原美を誇る自然観光の地
  • 吉無田水源 - 熊本名水100選。江戸時代の植林地であり阿蘇外輪山伏流水が湧く。
  • 御船町恐竜博物館
  • 城山公園(甲斐宗運御船城跡)
  • 妙見坂公園 - 桜の名所。西南戦争の激戦地でもあり、その遺跡も残る
  • くまもと野鳥の森(熊本県鳥獣保護センター) - 九州唯一の野鳥保護センターだったが、2009年4月から傷病業務の受け入れのみとなった。
  • 長生のイチイガシ - 幹周り8.6mの全国4番目に大きい巨木。御船町の天然記念物
  • 御船目鑑橋(1848年完成 宇市・丈八(のちの勘五郎)作 熊本県指定重要文化財) - 県内で最も美しく幾度の洪水にも耐え抜いた、肥後随一と称される御船町のシンボルであったが、1988年の集中豪雨により流失。現在は「思い出橋」に姿を変え再架されている。
  • 八勢目鑑橋(1855年完成 甚兵・卯助 作 熊本県指定重要文化財)
  • 下鶴目鑑橋(1886年完成 名工 勘五郎・弥熊 作 旧二重橋や日本橋の架設者 御船町指定文化財)
  • 熊本県庁跡 - 1877年 西南戦争の戦火を避けた熊本県庁が一時御船町に移転(御船県庁)。庁舎は、当時の公立御船小学校があてられた。
  • 七滝 - 南北朝時代から朝廷に名前を知られていた歴史のある滝。高さ約40m、幅約30mの滝で七段からなる巨石を伝わって流れ落ちるところから名付けられた。現在は近隣のダムの影響で普段はごくわずかな水流だが、毎年5月第2日曜の「ふるさと滝まつり(七滝神社例大祭)」時に放水され、往時の荘厳な姿を観ることが出来る。
  • 御船街道ハゼ並木 - 赤穂事件での討ち入り(1702年)の後、大石良雄赤穂浪士17名は沙汰を受けるまで肥後細川藩の江戸屋敷に預けられたが、武士の鑑として手厚くもてなしを受けたことに感謝した大石は恩返しにと、当時財政が困窮していた藩の為に薩摩で習ったハゼの栽培と精ろう法を伝授した。これを受けた細川藩では各地にハゼを植え、その実から「櫨(はぜ)ろうそく」を作り出し、藩の専売事業となり財政を潤した。そのとき最初に植えられたといわれるのが、御船川に沿って延びる日向街道沿い、現在の御船街道のハゼ並木であった。しかし、1988年の集中豪雨で移植され現存するのは数本のみである。

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