徳川吉宗

提供: miniwiki
2018/8/4/ (土) 13:48時点におけるAdmin (トーク | 投稿記録)による版 (1版 をインポートしました)
(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
移動先:案内検索
徳川吉宗
時代 江戸時代中期
生誕 貞享元年10月21日1684年11月27日
死没 寛延4年6月20日1751年7月12日
幕府 江戸幕府 8代征夷大将軍
享保元年(1716年8月13日 - 延享2年(1745年9月25日
越前国葛野藩主、紀伊国紀州藩
氏族 徳川氏紀州徳川家徳川将軍家)、松平贈姓

徳川 吉宗(とくがわ よしむね)は、江戸幕府第8代将軍。将軍就任以前は越前国葛野藩主、紀州藩第5代藩主を務めた。

徳川御三家紀州藩第2代藩主・徳川光貞の四男として生まれる。初代将軍・徳川家康は曾祖父に当たる。父と2人の兄の死後、紀州藩主を継ぎ藩財政の再建に努め、成果を挙げた。第7代将軍・徳川家継の死により秀忠の血をひく徳川将軍家の男系男子が途絶えると、6代将軍家宣の正室・天英院の指名により御三家出身では初の養子として宗家を相続し、江戸幕府の第8代将軍に就任した。紀州藩主時代の藩政を幕政に反映させ、将軍家宣時代の正徳の治を改める幕政改革を実施。幕府権力の再興に務め、増税と質素倹約による幕政改革、新田開発など公共政策、公事方御定書の制定、市民の意見を取り入れるための目安箱の設置などの享保の改革を実行した。徳川家重に将軍の座を譲った後も大御所として権力を維持し、財政に直結する米相場を中心に改革を続行していたことから米将軍(八十八将軍)と呼ばれた。

この幕府改革で破綻しかけていた財政の復興などをしたことから中興の祖と呼ばれる。年貢率を引き上げるなど農民を苦しめた上で成り立った改革だったため、百姓一揆の頻発を招いた。また、庶民にも倹約を強いたため、景気は悪化し、文化は停滞した。

生涯

※ 日付は、旧暦表示。

出生

貞享元年(1684年)10月21日、徳川御三家紀州藩2代藩主・徳川光貞の四男として生まれる(次兄は早世しているため三男と数えられることもある)。母は紀州徳川家の召し使いで巨勢六左衛門(利清)の娘・浄円院(於由利の方)。和歌山城大奥の湯殿番であった於由利の方は、湯殿において光貞の手がついたという伝説がある[注釈 1]。幼年は家老の元で育てられ、兄の次郎吉が病死した後は名を新之助と改めて江戸の紀州藩邸に移り住む。幼い頃は、手に負えないほどの暴れん坊だった。

越前葛野藩主

元禄10年(1697年)、14歳で第5代将軍徳川綱吉御目見し、越前国丹生郡3万石を賜り、葛野藩主となる。またこれを機に名を(松平)頼久(よりひさ)から頼方(よりまさ)と改めた。

父・光貞と共に綱吉に拝謁した兄たちに対し、頼方は次の間に控えていたが、老中・大久保忠朝の気配りにより綱吉への拝謁が適ったものである。なお、葛野藩は実際には家臣を和歌山から送って統治するだけで、頼方は和歌山城下に留まっていたと言われている。

紀州藩主

宝永2年(1705年)に長兄・綱教(紀州藩第3代藩主)が死去し、三兄・頼職が跡を継ぐ。しかし同年のうちに父・光貞、やがて頼職までが半年のうちに病死したため、22歳で紀州徳川家を相続し、第5代藩主に就任する。藩主に就任する際、将軍・綱吉から偏諱を授かり、(徳川)吉宗と改名する。

宝永3年(1706年)に二品親王伏見宮貞致親王の娘・真宮理子女王を簾中(正室)に迎えているが、宝永7年(1710年)に死別した。

宝永7年(1710年)4月に紀州入りした吉宗は、藩政改革に着手する。藩政機構を簡素化し、質素倹約を徹底して財政再建を図る。自らも木綿の服を着て率先した。2人の兄と父の葬儀費用や幕府から借用していた10万両の返済、家中への差上金の賦課、藩札の停止、藩内各地で甚大な被害を発生させていた災害(1707年宝永地震)の復旧費などで悪化していた藩財政の再建に手腕を発揮する。また、和歌山城大手門前に訴訟箱を設置して直接訴願を募り、文武の奨励や孝行への褒章など、風紀改革にも努めている。

紀州藩主時代には、女中との間に長男・長福丸(のちの徳川家重)、二男・小次郎(のちの田安宗武)が生まれている。

紀州藩主としての治世は10年6か月であり、この間の江戸参府4回、紀州帰国3回、紀州在国の通算は2年4か月であった[2]

8代将軍就任

享保元年(1716年)に第7代将軍・徳川家継が8歳で早世し、徳川将軍家の血筋(徳川家康の三男・徳川秀忠の男系男子)が絶えた後を受け、御三家の中から家康との世代的な近さを理由に、御三家筆頭の尾張家を抑えて第8代将軍に就任した、と一般的には説明されている。

実際には、館林藩主で家継の叔父に当たる松平清武という、秀忠の男系子孫が存在していた[注釈 2]。しかし、館林藩では重税のため一揆が頻発して統治が安定していなかった上、本人もひとたび他家に養子に出た身であり、すでに高齢で男子がいなかった事情により、選考対象から外れていた。清武自身も将軍職に対する野心はあまりなかったと言われている。

御三家の中では尾張家の当主、4代藩主徳川吉通とその子の5代藩主五郎太は、相次いで死去した[注釈 3]。そのため吉通の異母弟継友が6代藩主となる。継友は皇室とも深い繋がりの近衛安己[注釈 4]と婚約し、しかも間部詮房新井白石らによって引き立てられており[注釈 5]、8代将軍の有力候補であった。しかし吉宗は、天英院や家継の生母・月光院など大奥からも支持され、さらに反間部・反白石の幕臣たちの支持も得て、8代将軍に就任した。

吉宗は将軍就任にあたって、紀州藩を廃藩とせず存続させた。過去の例では、5代将軍・徳川綱吉の館林藩館林家、6代将軍・徳川家宣の甲府藩甲府家は、当主が将軍の継嗣として江戸城に呼ばれると廃藩・絶家にされ、甲府家の家臣は幕臣となっている。しかし吉宗は、御三家は東照神君(家康)から拝領した聖地であるとして、従兄の徳川宗直に家督を譲ることで存続させた。その上で、紀州藩士のうちから加納久通有馬氏倫ら大禄でない者を40名余り選び、側役として従えただけで江戸城に入城した。この40人余りは、吉宗のお気に入りを特に選抜したわけではなく、たまたまその日当番だった者をそのまま連れて来ているという[4]。こうした措置が、側近政治に反感を抱いていた譜代大名旗本から好感を持って迎えられた。

徳川吉宗 征夷大将軍の辞令(宣旨)(光栄卿記、享保将軍宣下宣旨奉譲)

權大納言源朝臣吉宗
左少辨藤原朝臣賴胤傳宣、權大納言藤原朝臣俊清宣
奉 勅、件人宜爲征夷大將軍者
享保元年七月十八日
修理東大寺大佛長官主殿頭左大史小槻宿禰章弘 奉

(訓読文)

権大納言源朝臣吉宗(徳川吉宗)
左少弁藤原朝臣頼胤(葉室頼胤、正五位上・蔵人兼帯)伝へ宣(の)る、権大納言藤原朝臣俊清(坊城俊清、従二位)宣(の)る
勅(みことのり)を奉(うけたまは)るに、件人(くだんのひと)宜しく征夷大将軍に為すべし者(てへり)
享保元年(1716年)7月18日
修理東大寺大仏長官主殿頭左大史小槻宿禰章弘(壬生章弘、従四位下)奉(うけたまは)る、

※同日、内大臣に転任し、右近衛大将を兼ね、源氏長者、淳和奨学両院別当、右馬寮御監、牛車乗車宮中出入許可及び随身の各宣旨を賜う。

享保の改革

将軍に就任すると、第6代将軍・徳川家宣の代からの側用人であった間部詮房新井白石を罷免したが、新たに御側御用取次という側用人に近い役職を設け、事実上の側用人政治を継続した。

吉宗は紀州藩主としての藩政の経験を活かし、水野忠之老中に任命して財政再建を始める。定免法上米令による幕府財政収入の安定化、新田開発の推進、足高の制の制定等の官僚制度改革、そしてその一環ともいえる大岡忠相の登用、また訴訟のスピードアップのため公事方御定書を制定しての司法制度改革、江戸町火消しを設置しての火事対策、悪化した幕府財政の立て直しなどの改革を図り、江戸三大改革のひとつである享保の改革を行った。また、大奥の整備、目安箱の設置による庶民の意見を政治へ反映、小石川養生所を設置しての医療政策、洋書輸入の一部解禁(のちの蘭学興隆の一因となる)といった改革も行う。またそれまでの文治政治の中で衰えていた武芸を強く奨励した。また、当時4000人いた大奥を1300人まで減員させた。一方で、年貢を五公五民にする増税政策によって、農民の生活は窮乏し、百姓一揆の頻発を招いた。また、幕府だけでなく庶民にまで倹約を強いたため、経済や文化は停滞した。

この当時、近松門左衛門人形浄瑠璃の影響で流行した心中を抑制するために、心中未遂で生き残った男女を人通りの多い場所でさらしものにさせる、といったことも行っている。

大御所

延享2年(1745年)9月25日、将軍職を長男・家重に譲るが、家重は言語不明瞭で政務が執れるような状態では無かったため、自分が死去するまで大御所として実権を握り続けた。なお、病弱な家重より聡明な二男・宗武や四男・宗尹を新将軍に推す動きもあったが、吉宗は宗武と宗尹による将軍継嗣争いを避けるため、あえて家重を選んだと言われている。ただし家重は、言語障害はあったものの知能は正常であり、一説には将軍として政務を行える力量の持ち主であったとも言われる。あるいは、将軍職を譲ってからも大御所として実権を握り続けるためには、才児として台頭している宗武や宗尹より愚鈍な家重の方が扱いやすかったとも考えられるが、定説ではない。

宗武、宗尹は養子には出さず、部屋住みのような形で江戸城内に留めたまま別家に取り立て、田安家一橋家(両卿)が創設された(吉宗の死後に清水家が創設されて御三卿となった)。

しかし、翌延享3年(1746年)に中風を患い、右半身麻痺と言語障害の後遺症が残った[5][6]。御側御用取次であった小笠原政登によると朝鮮通信使が来日した時には、小笠原の進言で江戸城に「だらだらばし」というスロープ・横木付きのバリアフリーの階段を作って、通信使の芸当の一つである曲馬を楽しんだという[5]。また小笠原と共に吉宗もリハビリに励み、江戸城の西の丸から本丸まで歩ける程に回復した[5]

将軍引退から6年が経った寛延4年(1751年)6月20日に死去した。享年68(満66歳没)。死因は再発性脳卒中と言われている[6]

徳川吉宗 贈太政大臣の辞令(宣旨) 「兼胤公記」

故右大臣正二位源朝臣
正二位行權大納言藤原朝臣榮親宣
奉 勅件人宜令贈任太政大臣者
寛延四年後六月十日
大外記兼掃部頭造酒正中原朝臣師充奉

(訓読文)

故右大臣正二位源朝臣(徳川吉宗)
正二位行權大納言藤原朝臣栄親(中山栄親)宣(の)る
勅(みことのり)を奉(うけたまる)に、件人(くだんのひと)宜しく太政大臣に任じ贈らしむべし者(てへり)
寛延4年(1751年)後(閏)6月10日
大外記兼掃部頭造酒正中原朝臣師充(押小路師充、従五位上)奉(うけたまは)る

寛永寺東京都台東区上野桜木一丁目)に葬られている。

趣味・嗜好

  • 養生生活の基本は、心身の鍛錬と衣食の節制にあり、関口柔心の流れをくむ「新心流」の拳法(柔術)で体を作り、 鷹狩で運動不足を解消していた[7]
  • 松平明矩が重病になった時に、音楽による気分転換を勧めているが、自らも公務の余暇に「古画」(絵画)の鑑賞や、それの模写に没頭することを慰みとし、『延喜式』に見える古代の染色法の研究に楽しみを求めて鬱を散じていた[7]
  • 狩野常信の師事を受けており、常信の孫・狩野古信に絵の手ほどきをしている。絵画の作品も何点か残されている(野馬図など)。また淡墨を使って描く「にじみ鷹」の技法を編み出している。
  • 室町時代から伝統的に武家に好まれた時代の中国画を愛好していた。享保13年(1728年)には、各大名家に秘蔵されていた南宋時代の画僧牧谿筆の瀟湘八景図を借り集め鑑賞している。さらに中国から宋元画を取り寄せようとしたが、これらは既に中国でも入手困難だったため叶わなかった。代わりに中国画人・沈南蘋が来日し、その画風は後の近世絵画に大きな影響を与えた。
  • 好奇心の強い性格で、キリスト教関連以外の書物に限り洋書の輸入を解禁とした。これにより、長崎を中心に蘭学ブームが起こった。
  • また享保13年(1728年)6月には、自ら注文してベトナムからを輸入し、長崎から江戸まで陸路で運ばせた。この事により、江戸に象ブームが巻き起こった。

政策・信条

方針

  • 吉宗は将軍就任後、新井白石らの手による「正徳の治」で行われた法令を多く廃止した。これは白石の方針が間違っているとの考えによるものであるが、正しいと考えた方針には理解を示し、廃止しなかった。そのため、吉宗は単純に白石が嫌いであると思っていた幕臣たちは驚き、吉宗の考えが理解できなかったという。なお、一説には吉宗は白石の著書を廃棄して学問的な弾圧をも加えたとも言われている。
  • 一方で、幕府創設者である徳川家康と並んで幕政改革に熱心であった第5代将軍・綱吉を尊敬し、綱吉が定めた「生類憐れみの令」を即日廃止した第6代将軍・家宣を批判したと言われる。ただし、綱吉の代に禁止されていた犬追物鷹狩の復活も行なっており、必ずしも綱吉の政策に盲従していたわけではない。
  • 江戸幕府の基本政策である治水や埋め立て、町場の整備の一環として飛鳥山隅田川堤などへ桜の植樹をしたことでも知られる。

倹約

  • 肌着は木綿と決めて、それ以外のものは着用せず、鷹狩の際の羽織や袴も木綿と定めていた。平日の食事は一汁一菜と決め、その回数も一日に朝夕の二食を原則としていた[8]
  • 吉宗を将軍に指名した天英院に対しては、年間1万2千両という格別な報酬を与え、さらに家継の生母・月光院にも居所として吹上御殿を建設し、年間1万両にも及ぶ報酬を与えるなどしており、天英院の影響下にある大奥の上層部の経費削減には手を付けることはなかった。

経済

  • 江戸時代の税制の基本であった米価の調節に努め、上米の制定免法新田開発などの米政策を実行したことによって吉宗は「米将軍」、また「米」の字を分解して「八十八将軍」とも呼ばれた。
    • 吉宗の死後、傍らに置いていた箱の中から数百枚の反故紙が見つかった。そこには細かい文字で、浅草の米相場価格がびっしりと書かれていた、と伝わる。
  • 商品作物酪農などの新しい農業を推奨した。それまで清国からの輸入に頼るしかなかった貴重品の砂糖を日本でも生産できないかと考えてサトウキビの栽培を試みた結果、後に日本初の国産の砂糖として商品化に成功したのが和三盆である。その他、飢饉の際に役立つ救荒作物としてサツマイモの栽培を全国に奨励した。
  • 御三家筆頭尾張家徳川宗春は吉宗と異なった経済政策を取り、積極政策による自由経済の発展を図ったが、吉宗の施政に反する独自政策や宗春の行動が幕府に快く思われず、尾張藩と幕府との関係が悪化した[注釈 6][注釈 7]。尾張藩家老竹腰正武らは宗春の失脚を企て、同じく成瀬正泰は尾張家の存続を第一と考えたため[10]、宗春は隠居謹慎の上、閉門を命じられ、その処分は宗春の死後も解かれることがなかった[注釈 8][注釈 9]。また、高尾太夫を落籍し、華美な遊興で知られた榊原政岑も処罰するなど[注釈 10]、自らの方針に反対する者は親藩であろうと譜代の重鎮であろうとも容赦はしないことで、幕府の権威を強力に見せつけた。
    • 近年のテレビドラマや小説などのフィクションでは、吉宗の緊縮経済政策と宗春の自由経済政策が対比されることが多い。
    • しかし、後述の改鋳と共に幕府は金融緩和政策を行ったが、尾張藩は藩内の風紀が乱れたとして倹約政策を打ち出すなど、どちらの政策も単純な視点で捉えることはできないはずであるが、双方の政策は極単純な比較・構図で捉えられがちである。
  • 元文元年(1736年)に行われた元文の改鋳は、日本経済に好影響をもたらした数少ない改鋳であるとして、積極的に評価されている[12]。吉宗は以前の改鋳が庶民を苦しめたこともあり、この改鋳に当初は否定的であったが、貨幣の材質を落とすことで製造上の差益を得る目的であった過去の改鋳と違い、元文の改鋳は純粋に通貨供給量を増やすものであった。元文の通貨は以後80年間安定を続けた。
  • 吉宗の行なった享保の改革は一応成功し、幕府財政もある程度は再建された。そのため、この改革はのちの寛政の改革天保の改革などの基本となった。ただし、財政再建の一番の要因は上米令と増税によるものであったが、上米令は将軍権威の失墜を招きかねないため一時的なものにならざるを得ず、増税は百姓一揆の頻発を招いた。そのため、寛政・天保の両改革ではこれらの政策を継承できず、結局失敗に終わった。

保安

  • 紀州藩の基幹産業の一つである捕鯨との関わりも深く、熊野の鯨組に軍事訓練を兼ねた大規模捕鯨を1702年(元禄15年)と1710年(宝永7年)に紀州熊野の瀬戸と湯崎(和歌山県白浜町)の2度実施させており、その際は自ら観覧している。また、熊野灘の鯨山見(高台にある鯨の探索や捕鯨の司令塔)から和歌山城まで狼煙を使った海上保安の連絡網を設けていた。
  • 将軍就任後、河川氾濫による被災者の救出や、江戸湾へ流出した河川荷役、塵芥の回収に、鯨舟(古式捕鯨の和船)を使い、「鯨船鞘廻御用」という役職を設けて海上保安に努めた。
  • 将軍として初めて「御庭番」を創設し、諸藩や反逆者を取り締まらせた[注釈 11]

その他

  • 紀州藩主時代には、隣接地であるため係争の発生しやすい伊勢山田奉行大岡忠相が務めており、両者を関係付ける逸話が存在する。
  • 2012年(平成24年)、徳川記念財団が所蔵している歴代将軍の肖像画紙形(下絵)が公開された[13][14]。その中には絹本着色本の吉宗像も含まれていた。
  • 一説によると6尺(180cm)の身長であったともいうがこれは定かではなく誇張とされる。尚、当時日本の平均身長は155cm。

年表

年月日(月日は旧暦 事柄 出典
貞享元年(1684年)10月21日 紀州徳川家藩主徳川光貞の四男として生まれる。
元禄9年(1696年)12月11日 従四位下に叙し、右近衛権少将兼主税頭に任官。松平頼久と名乗る。続いて、頼方と改める。
元禄10年(1697年)4月11日 五代将軍綱吉が紀州藩邸を訪れ、その際に越前葛野藩3万石藩主となる(後に1万石加増)。
宝永2年(1705年)10月6日 紀州徳川家5代藩主就任
同年12月1日 従三位左近衛権中将に昇叙転任。将軍綱吉の偏諱を賜り「吉宗」と改名。
宝永3年(1706年)11月26日 参議に補任し、左近衛権中将如元。
宝永4年(1707年)12月18日 権中納言に転任。
正徳6年(1716年)4月30日 将軍後見役就任
享保元年(1716年)7月13日 正二位に昇叙し、権大納言に転任
享保元年(1716年)7月18日 征夷大将軍源氏長者宣下。内大臣兼右近衛大将に転任。
寛保元年(1742年)8月7日 右大臣に転任。
延享2年(1745年)9月25日 征夷大将軍辞職
寛延4年(1751年)6月20日 薨去
同年閏6月10日 正一位太政大臣

系譜

偏諱を受けた人物

吉宗時代(将軍在職時/「宗」の字)

脚注

注釈

  1. 血液型は、徳川家綱と同じO型だったとされている[1]
  2. 秀忠の男系子孫には他に保科正之に始まる会津松平家があり、松平容衆まで6世代が男系で続いており、清武の死後も秀忠の血筋を伝えていた。
  3. このことや紀州藩主の相次ぐ死を、吉宗による陰謀・暗殺とする説もあるが、憶測にすぎない。
  4. 徳川家宣の正室・天英院の姪であり、2代将軍徳川秀忠の娘和子の玄孫でもある。また姉の尚子は後に中御門天皇の女御として桜町天皇を産んでいる。
  5. 御連枝として独立もしていないのに異例の左近衛権少将に昇進している[3]
  6. 御三家筆頭の尾張藩と、ナンバー2の紀州藩出身の吉宗、および将軍家との格式の張り合い、また8代将軍選定時の尾張藩(先代の継友)と吉宗との遺恨、朝廷派の尾張藩と幕府の対立なども含まれるとされる。
  7. ただし、宗春が吉宗を直接批判した文章は残っていない。吉宗は宗春にたいへん目をかけていた記録も散見される[9]。宗春が江戸でも尾張藩内と同じように派手な言動をとった記録は、市谷尾張藩邸の新築時に江戸庶民に開放した享保17年5月の端午の節句以外の直接的な資料はいまだ見つかっていない。
  8. 1764年に赦免されるまで、墓石には罪人を示す金網が被せられていたとされているが、金網が被せられていたことを裏付ける史料は見つかっていない。
  9. 吉宗は謹慎中の宗春に対し、生活を気遣う使者を送っている[11]
  10. 前述の宗春も芸者を落籍して側室としている。
  11. 誇大に語られる御庭番だが、実態としては大目付目付を補う、小回りの利く将軍直属の監察官秘書官に近い。

出典

  1. 得能審二『江戸時代を観る』リバティ書房、1994年、122-138頁
  2. 小山誉城「紀州徳川家の参勤交代」(『徳川将軍家と紀伊徳川家』精文堂出版、2011年)
  3. 『尾藩世記』『尾張徳川家系譜』『徳川実記』より。
  4. 福留真紀 『将軍と側近 室鳩巣の手紙を読む』( 新潮社、2014年12月20日、pp.140-141)
  5. 5.0 5.1 5.2 小笠原政登著・『吉宗公 御一代記』
  6. 6.0 6.1 篠田達明『徳川将軍家十五代のカルテ』(新潮新書2005年5月、ISBN 978-4106101199)より。また、謎解き!江戸のススメBS-TBS2015年3月9日放送)でも紹介された。
  7. 7.0 7.1 宮本義己『歴史をつくった人びとの健康法―生涯現役をつらぬく―』(中央労働災害防止協会、2002年、243頁)
  8. 宮本義己『歴史をつくった人びとの健康法―生涯現役をつらぬく―』(中央労働災害防止協会、2002年、243-244頁)
  9. 徳川実紀
  10. NHK『その時歴史が動いた』2008年9月17日放送
  11. 『尾公口授』江戸時代写本
  12. 日本銀行金融研究所貨幣博物館:貨幣の散歩道
  13. 将軍の肖像画、下絵はリアル 徳川宗家に伝来、研究進む:朝日新聞2012年8月8日
  14. 鶴は千年、亀は萬年。 2012年8月8日付

関連項目

関連作品

小説
映画
テレビドラマ
パチスロ
アニメ
落語
漫画
舞台


テンプレート:紀州徳川家 テンプレート:葛野藩主 テンプレート:紀州藩主