徳川好敏

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徳川 好敏(とくがわ よしとし、1884年明治17年)7月24日 - 1963年昭和38年)4月17日)は、日本陸軍軍人華族

清水徳川家第8代当主にあたり、陸軍で航空分野を主導した。軍人としての最終階級は陸軍中将。華族としての爵位は男爵

1910年(明治43年)12月19日午前、軍公式の飛行試験で日本国内で初めて飛行機により空を飛んだ。

経歴

日本における動力機初飛行

1910年12月14日、代々木練兵場(現・代々木公園)において滑走試験中の日野熊蔵は飛行に成功し[注釈 2]、これが日本国内初の動力飛行機の初飛行とされる。しかし、初飛行の根拠となっている距離は「初飛行」を報じた萬朝報の記事内の60mは記者の目測でしかなく、取材していた他9紙は距離を記載しておらず初飛行とも報じていない。また、当時欧州で数少ない実際の飛行を見たことがある日本人であり、飛行機研究の第一人者だったこともあって、事実上の現場責任者として間近で注視していた田中館愛橘博士や、実際に操縦した日野自身もこれが初飛行であったとの発言は行っていない。記者自身も後日、「すこしでも地を離れると、手を叩いたり、万歳を叫んだりした。」と書いている。[4]また、「飛行」とは翼の揚力が機体の重量を定常的に支え、操縦者が意のままに機を操縦できる状態を指すため、「飛行」ではなく「ジャンプ」であるとして、航空力学的にも初飛行とは言えない[5]とする意見もある。

19日には“公式の、初飛行を目的とした記録会”が行われ、日野・徳川の両方が成功し、これが改めて動力機初飛行として公式に認められた。記録会前においては、当時天才発明家などと報道されていた日野の方が遥かに有名人であり、新聞記者も徳川好敏には直前までほとんど取材活動をしていなかった[6]が、徳川、日野の順に飛んだため、“アンリ・ファルマン機を駆る徳川大尉が日本初飛行”ということにされている。これは、徳川家の血筋でありながら没落していた清水徳川家の徳川好敏に「日本初飛行」の栄誉を与えたいという軍および華族らの意向だったといわれている[7]。ただ、たとえ名家の出身であっても陸軍の方針として軍内部での扱いは表面上は平民と同じであった事、またこの時期の清水徳川家の没落の状況は、先代の徳川篤守が経済的に困窮し爵位を返上し、また禁固刑を下されるなど不名誉な状態であったため、この指摘は適切ではないとする意見もある。ただそういう状態であったために、徳川御三卿の一家の名誉回復の、またとないチャンスであったのは事実である。

ともあれ、日野の記録は抹消され、12月19日の徳川の飛行をもって「日本初飛行の日」とされている。

以降、徳川は陸軍の航空機畑の看板として順調に引き立てられ、滋野清武らを排除して出世した。いびり出された滋野はフランスへ渡り、第一次大戦でエースパイロットとなる。一方の日野は翌年自身が設計の機体、日野式飛行機を開発するがそれでも左遷され、以降軍務において航空機関連に用いられることはなかった。

栄典

脚注

注釈

  1. 公職追放の該当事項は「正規陸軍将校」[2]
  2. 十四日に早くも二メートルの高さで百メートル余り、十六日には高度三メートル、距離百メートルを飛行したが、いずれも「滑走中あやまって離陸」という発表にされている[3]

出典

  1. 「飛行機上から写真撮影成功」萬朝報 明治44年4月29日 『新聞集成明治編年史. 第十四卷』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  2. 総理庁官房監査課編 『公職追放に関する覚書該当者名簿』 日比谷政経会、1949年671頁。NDLJP:1276156 
  3. 熊本県教育委員会
  4. 村岡正明『初飛行』、光人社、2010年、164-168頁
  5. 木村秀政『飛行機の本』、新潮社、昭和37年
  6. 村岡正明『初飛行』、光人社、2010年、134、156頁
  7. 横田順彌『雲の上から見た明治』、学陽書房、1999年、15-16頁
  8. 『官報』号外、「授爵・叙任及辞令」1928年11月10日。

関連項目

外部リンク

日本の爵位
先代:
叙爵
男爵
(清水)徳川家
初代または第2代
1928年 - 1947年
次代:
華族制度廃止

テンプレート:清水徳川家