徳川秀忠

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徳川秀忠
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 天正7年4月7日1579年5月2日
死没 寛永9年1月24日1632年3月14日
幕府 江戸幕府:第2代征夷大将軍
(在任1605年 - 1623年
氏族 徳川氏

徳川 秀忠(とくがわ ひでただ)

江戸幕府2代将軍(在職 1605~23)。徳川家康の三男。母は西郷氏於愛の方。幼名は長松,のちに竹千代と改名。法号は台徳院。元服して,豊臣秀吉の片諱(かたいみな)を賜って秀忠と名のった。慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いでは,進軍中に真田昌幸の妨害にあって合戦に間に合わず,父家康の勘気を被った。同 10年4月16日征夷大将軍宣下。大坂の陣で家康とともに出陣し,豊臣氏を滅ぼした。元和2(1616)年4月17日の家康死去のあとをうけて幕府組織の拡充,整備を行ない,同 6年には娘和子(東福門院)を入内させた。同 9年7月27日将軍職を二男の徳川家光に譲って隠居し(長子長丸は夭折),大御所と称した。隠居後はしばらくの間家光を後見し,寛永3(1626)年8月18日従一位太政大臣。同 4年紫衣事件を通して後水尾天皇に退位を余儀なくさせた。



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