愛野興一郎

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愛野 興一郎(あいの こういちろう、1928年4月18日 - 1998年3月20日)は、日本実業家政治家

衆議院議員(9期)、経済企画庁長官第40代)、佐賀県議会議員を務めた。

父は実業家で元衆議院議員の愛野時一郎

来歴

佐賀県鹿島市出身。1951年中央大学法学部を卒業。農協組合長、佐賀県議会議員、父・時一郎が創立したバス会社、祐徳自動車副社長・社長(議員在任中も社長を務め、後述の経済企画庁長官就任時に辞任し、初代会長に就任)を経て、1972年第33回衆議院議員総選挙自由民主党から立候補し初当選。当選回数9回(当選同期に小泉純一郎加藤紘一山崎拓石原慎太郎村岡兼造保岡興治三塚博越智通雄野田毅深谷隆司など)。自民党では田中角栄竹下登派に所属する。

外務政務次官総理府総務副長官、衆議院文教委員長などを歴任し、1989年竹下改造内閣リクルート社からの献金が問題になって辞任した原田憲経済企画庁長官の後任として入閣する。1992年東京佐川急便事件がきっかけで竹下派が分裂すると、羽田孜小沢一郎を支持し、杉山憲夫北村直人藤井裕久岡田克也(後の民主党代表)ら竹下派の若手議員とともに改革フォーラム21結成に参加。翌1993年、政治改革をめぐって羽田派は宮沢改造内閣不信任案に賛成し自民党を離党、新生党を結成した。

1994年羽田内閣の頃から小沢の手法に批判的な立場を明確にし、同年12月の新進党結成後も小沢の手法を強権的として批判し続けた。新進党分党後の1998年1月には同じく反小沢の旗頭であった鹿野道彦を代表とする新党・国民の声に参加した。同年3月20日死去(享年69)。

2005年12月18日、七回忌を記念して有志により、鹿島市高津原の旭ヶ丘公園に胸像が作られた。親族や保利耕輔原口一博ら佐賀県選出の国会議員、桑原允彦鹿島市長ら関係者約250人によって除幕式が行われた。

人物

竹下派分裂時、派閥所属参議院議員を説得するため議員宿舎を廻っていたところ、呼び鈴と間違えて非常ボタンを押してしまったことがある[1]

家族・親族

  • 父・愛野時一郎(政治家、衆議院議員)
  • 弟・福岡政文(事業家、佐賀日産代表取締役)、愛野克明(事業家、東日本観光バス代表取締役)、愛野孝志(医師、愛野耳鼻咽喉科院長)
  • 子・愛野時興(事業家、祐徳グループ会長)

脚注

関連項目


テンプレート:衆議院文教委員長