文禄

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文禄(ぶんろく)は日本元号の一つ。天正の後、慶長の前。1593年[1]から1596年までの期間を指す。この時代の天皇後陽成天皇、将軍は不在。

改元

文禄への改元は、「武家関白制」を採った豊臣政権最初の改元であり、新天皇の代始改元を行いたかった公家側の希望と日本全国の平定を果たした武家側の要請が一致して実施された改元であると考えられている[4]。秀次関白就任1年後に改元され、さらに秀次切腹事件の1年後[5]に慶長へと豊臣政権2度目の改元に至った。

出典

杜佑通典職官十七』の「凡京武官、毎歳給」から。

文禄年間の出来事

文禄5年には大きな地震が相次いだことで慶長に改元された(このため、地震は「慶長」を冠して呼ばれる)。

誕生

死去

西暦との対照表

※は小の月を示す。

文禄元年(壬辰 一月 二月※ 三月 四月※ 五月※ 六月 七月※ 八月 九月※ 十月 十一月 十二月
グレゴリオ暦 1592/2/13 3/14 4/12 5/12 6/10 7/9 8/8 9/6 10/6 11/4 12/4 1593/1/3
ユリウス暦 1592/2/3 3/4 4/2 5/2 5/31 6/29 7/29 8/27 9/26 10/25 11/24 12/24
文禄二年(癸巳 一月※ 二月 三月※ 四月 五月※ 六月※ 七月 八月※ 九月※ 閏九月 十月 十一月 十二月※
グレゴリオ暦 1593/2/2 3/3 4/2 5/1 5/31 6/29 7/28 8/27 9/25 10/24 11/23 12/23 1594/1/22
ユリウス暦 1593/1/23 2/21 3/23 4/21 5/21 6/19 7/18 8/17 9/15 10/14 11/13 12/13 1594/1/12
文禄三年(甲午 一月 二月 三月※ 四月 五月※ 六月※ 七月 八月※ 九月※ 十月 十一月 十二月※
グレゴリオ暦 1594/2/20 3/22 4/21 5/20 6/19 7/18 8/16 9/15 10/14 11/12 12/12 1595/1/11
ユリウス暦 1594/2/10 3/12 4/11 5/10 6/9 7/8 8/6 9/5 10/4 11/2 12/2 1595/1/1
文禄四年(乙未 一月 二月 三月 四月※ 五月※ 六月 七月※ 八月 九月※ 十月※ 十一月 十二月
グレゴリオ暦 1595/2/9 3/11 4/10 5/10 6/8 7/7 8/6 9/4 10/4 11/2 12/1 12/31
ユリウス暦 1595/1/30 3/1 3/31 4/30 5/29 6/27 7/27 8/25 9/24 10/23 11/21 12/21
文禄五年(丙申 一月※ 二月 三月 四月※ 五月 六月※ 七月 閏七月※ 八月 九月※ 十月 十一月※ 十二月
グレゴリオ暦 1596/1/30 2/28 3/29 4/28 5/27 6/26 7/25 8/24 9/22 10/22 11/20 12/20 1597/1/18
ユリウス暦 1596/1/20 2/18 3/19 4/18 5/17 6/16 7/15 8/14 9/12 10/12 11/10 12/10 1597/1/8

脚注

  1. 天正から文禄への改元が行なわれたのはグレゴリオ暦1593年1月10日であり、和暦が新年を迎えないうちに西暦だけが新年を迎えている期間であった。文禄元年は西暦1593年1月10日から同2月1日までの短い期間であるため、和暦と西暦を一対一で対応させようとする場合、天正20年=文禄元年=西暦1592年、文禄2年=西暦1593年となって実際とはずれが生じる。
  2. 1番長いのは称光天皇の即位16年後で、これは将軍足利義持が代始改元を阻んだためにその死まで延期せざる得なかったという事情のため。結局、称光天皇が代始した正長の元号は3か月後の天皇崩御によって一年で終わった。2番目に長いのは霊元天皇の即位10年後で、これは践祚の直前、内裏の火災という災異で改元したばかりであることによる。結局、再び内裏で火災があって改元に至った。
  3. 三鬼清一郎 「豊臣秀吉文書に関する基礎的研究」(『名古屋大学文学部研究論集史学』34号、1988年)
  4. 神田裕理『戦国・織豊期の朝廷と公家社会』(校倉書房、2011年) ISBN 978-4-7517-4300-3 第一部第一章「織豊期の改元」
  5. 文禄4年に改元を願い出たが朝廷が拒否。