文禄・慶長の役

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文禄の役
戦争: 文禄の役
年月日: 文禄元年4月13日1592年5月24日) - 1593年7月
場所: 朝鮮半島全域、満州豆満江一帯
結果: 小西行長沈惟敬らの協議によって日本と明の間では休戦成立[注 1][1]。日本軍は南に後退したものの、朝鮮半島に築いた城塞に駐留した。
交戦勢力
五七桐 豊臣政権
Flag of the king of Joseon.svg 李氏朝鮮
戦力
日本軍
158,700人[1](毛利家文書による通説。総勢は日本軍陣立を参照)
明軍 53,000人
朝鮮軍 172,000人
義兵軍 22,400人
計247,400人(「軍事力と軍事情勢」を参照。)
損害
少なくとも約21,900人以上[2](病死、落伍、負傷帰国、休戦時に病傷者で後に回復する者を含む)

一説に約50000人[注 2](大半が病死・餓死。)

  • 中川秀政が戦闘中以外で討死
不明
  • 鄭撥(朝鮮)、尹興信(朝鮮)、宋象賢(朝鮮)などが戦死
慶長の役
戦争: 慶長の役
年月日: 1597年1月 - 1598年12月
場所: 朝鮮半島三南地方
結果: 豊臣秀吉死去で日本軍が帰国して終結[3]講和せずに豊臣政権が瓦解したため双方が勝利を主張した。(「柳川一件」も参照)
交戦勢力
五七桐 豊臣政権
Flag of the king of Joseon.svg 李氏朝鮮
戦力
141500人[4] (諸説あり)

明軍92100[5]

損害
不明

諸説あり

不明 

諸説あり[注 3](文禄・慶長両役の総計)

文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)

文禄1 (1592) 年と慶長2 (1597) 年の2度にわたる豊臣秀吉の朝鮮,明の連合軍との戦い。高麗の陣ともいう。朝鮮では干支により壬辰倭乱・丁酉再乱,明では万暦朝鮮役と呼んだ。出兵の準備は天正 14 (1586) 年九州征伐の頃からすでにでき,文禄1年3月肥前名護屋に本営をおいた。総勢 15万 8000の兵を9軍に編成し,同年4月第1陣が釜山に達し戦端を開いた。朝鮮,明の両軍と対戦し,平壌の戦い,碧蹄館の戦い,晋州城攻めなどを経て広範な地域を占拠し,さらに明への侵入を企図したが,同2年4月竜山停戦協定の成立に伴い撤退。

秀吉は同年6月に明帝の娘を后妃に迎えること,勘合船を復活すること,朝鮮を割譲することなどの7ヵ条を講和条件として決定させたが遵守されなかった。秀吉は,協定の不履行,条件の不備,さらに交渉の内情を不満として,慶長2年 14万の軍兵をもって再征したが,蔚山の戦い泗川の戦いでは明軍に包囲され,戦局は必ずしも好転しなかった。同3年8月秀吉の死によって停戦協定が結ばれ,戦いは終結した。

脚注

注釈

  1. ただし晋州城攻略は実施した。
  2. 「完訳フロイス日本史5 豊臣秀吉篇II」より、ルイス・フロイスらが「百方手を尽くして」情報収集した結果、「もっとも信頼でき、かつ正確」だと判断した数字。死因については「敵によって殺された者はわずかであり、大部分の者は、まったく、労苦、飢餓、寒気、および疾病によって死亡したのである」と記している。
  3. ルイス・フロイスは朝鮮人の被害について、日本のものと比べ次のように記している。『朝鮮人の死者については知り得なかったが、死者と捕虜を含め、その数は日本人のそれとは比較にならぬほど膨大であった。なぜならば、都その他の地方に連れて行かれた者を除き、この下(しも)にいる捕虜の数は、数えきれぬほど多いからである。』完訳フロイス日本史5 第44章より。

出典

  1. 1.0 1.1 林屋辰三郎 『天下一統』 中央公論新社〈日本の歴史12〉、2005年ISBN 4122045223 
  2. 参謀本部, pp.251-252
  3. 菊池正憲 2012, p. 234.
  4. 非戦闘員含む。中野 2008, p.192
  5. 明史・朝鮮列伝 http://sillok.history.go.kr/id/kna_13110012_007


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