最後の審判

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最後の審判(さいごのしんぱん、Last Judgement)

神もしくは神的存在が,その義に照らして人間の思い,ことば,行ないを裁くことを,裁き,審判という。これが世界の終末に全人類に対してなされるとき最後の審判と呼び,カトリックなどでは各自の臨終に行なわれるいわゆる私審判に対して公審判と呼ぶ。ゾロアスター教では,死後霊魂は報復者の橋を渡り,もし悪業が善業を上回ると橋がせばまって地獄に落ちるという。しかし終末には,アフラ・マズダが魔王アーリマンに勝って全人類を復活させ,最後の審判を主宰して世界を善に建て直すとされる。ユダヤ教では,前8世紀頃から「主の日」(アモス書5・18ほか),すなわちイスラエルの神「ヤハウェの日」が強調され,この日には裁き主なる神が直接人間の歴史に介入し,その義を顕してイスラエルとすべての民族を裁き,神の国を始めると信じられた。この終末史観と密接に関連した最後の審判の思想は,キリスト教でも継承され,救い主イエス・キリストおよびその復活と再臨への信仰と結合して,神はみずからその子イエス・キリストに「裁きを行なう権威」(ヨハネ福音書5・27)を与え,イエスを通して「義をもってこの世界を裁くためその日(主イエス・キリストの日)」(使徒行伝17・31)を定めたと説く。審判を通しての救いの完成がいっそう明確に強調され,死者は朽ちざる者として復活すること,すなわち永遠の生命にあずかることによって死を克服し,神の国を継ぐという秘義も告げられている(マタイ福音書25・31~46ほか)。この場合の審判は,単に善業,悪業の比較考量ではなく,神意に対する人間の内的根本的態度への批判としてとらえられている。イスラム教でも,世の終わりにはすべての人間はいったん死んだのちに復活し,各自の首にかけられた善業と悪業を記録した二つの帳簿の重さに従い,悪業の帳簿の重い者は地獄の上にかかる橋から落下するとしている。同様な最後の審判における善悪の考量は,エジプトなど近東の諸宗教にも見出される。なお最後の審判は,キリスト教美術では重要な主題の一つで,ルネサンス期の有名な作例では,フィレンツェのサン・マルコ美術館所蔵のフラ・アンジェリコの板絵,ローマのシスティナ礼拝堂のミケランジェロのフレスコ画がある。(終末論

脚注




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