李先念

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李 先念
各種表記
繁体字 李 先念
簡体字 李 先念
拼音 Lǐ Xiānniàn
和名表記: り せんねん
発音転記: リー・シエンニエン
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李 先念(り せんねん、リー・シエンニエン、1909年6月23日 - 1992年6月21日)は中華人民共和国の政治家。中国共産党八大元老の一人で、中国共産党中央委員会副主席、国務院副総理、第3代中華人民共和国主席(国家主席)。国家主席退任後は、中国人民政治協商会議全国委員会(全国政治協商会議)主席の座にあった。

経歴

1927年12月に中国共産党に入党。長征には紅軍の士官として参加し、労農紅軍第四方面軍で徐向前総指揮官の下、政治委員を務めるなどした。1937年末に延安に到着し、その後は抗日軍政大学、延安マルクス=レーニン学院に学んだ[1]

1949年中華人民共和国が成立してからは、湖北省党委員会書記・人民政府主席、武漢市党委書記・市長などを歴任。1954年9月29日国務院副総理に任命され[2]財政部部長を兼任した。1956年9月28日、第8期1中全会において中国共産党中央政治局委員に選出[3]。さらに5月25日の第8期5中全会において中央書記処書記に増補されたが[4]、これは国務院の問題を書記処で討議する利便のため[5]であった。1959年4月の第2期全人代第1回会議において副総理に再任された後、5月13日の周総理主催の座談会において各副総理の仕事分担がなされ、李先念は財政貿易を管轄した[6]。また、各副総理の分担管理・日常業務を補助するため国務院の下に6つの弁公室が設置されると、李は財政貿易弁公室主任として財政部、食糧部、商業部、対外貿易部、水産部、労働部を管轄した[7]

文化大革命には江青陳伯達、等の「中央文革小組」と対立し、1967年2月の政治局日常工作会議において葉剣英徐向前聶栄臻譚震林中文版、等の軍・国務院幹部とともに、これを批判した。しかしこの行動は毛沢東により厳しく糾弾され、「二月逆流中文版」と呼ばれることになった。後に北京郊外に下放された時期もあったが、中央復帰後は周恩来首相の下で経済政策を補佐し、後の市場経済化の先鞭をつける。

1969年4月28日の第9期1中全会において党中央政治局委員に選出[8]1973年8月30日の第10期1中全会において党中央政治局委員に再選した[9]

1977年8月19日、第11期1中全会において中国共産党中央委員会副主席、党中央政治局常務委員会委員に選出され、党内序列第4位に昇格した[10]1982年9月の第12回党大会における党主席制廃止に伴い副主席を退任したが、直後の第12期1中全会において中央政治局常務委員会委員に再選された[11]

国家主席制の復活(1982年)に伴い、1983年6月18日の第6期全人代第1回会議において国家主席に選出[12]1987年まで中国共産党中央政治局常務委員の職にあった。

常務委員引退後は全国政治協商会議主席のポストを確保。保守派の長老として影響力を保持し、陳雲と共に経済特区には生涯足を踏み入れなかった。1992年6月21日、死去。83歳の誕生日を迎える2日前であった。

家族

家族は、中国人民対外友好協会会長を務める李小林とその婿である人民解放軍空軍政治委員の劉亜洲中将らがいる。

脚注

参考文献

中華人民共和国の旗中華人民共和国
先代:
董必武
(国家主席代理)
国家主席
1983年 - 1988年
次代:
楊尚昆
先代:
鄧頴超
全国政治協商会議主席
1988年 - 1992年
次代:
李瑞環
先代:
鄧小平
財政部長
1954年 - 1967年
次代:
殷承禎
(財政部革命委員会主任)