村松有人

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オリンピック
男子 野球
2004 野球

村松 有人(むらまつ ありひと、1972年12月12日 - )は、石川県金沢市出身の元プロ野球選手外野手、左投左打)、コーチ2017年からは福岡ソフトバンクホークスの一軍外野守備走塁コーチ(三塁ベースコーチ)を務めている。

経歴

プロ入り前

金沢市立小坂小学校を卒業、金沢市立鳴和中学校に進んだが、父の仕事の都合で敦賀市立松陵中学校に転校。卒業後、金沢に戻り星稜高等学校に進学。星稜高校では五番打者[1]。2学年下に松井秀喜がいた[1]。高校2年の1989年第71回全国高等学校野球選手権大会に出場し3回戦進出。高校3年の1990年第72回全国高等学校野球選手権大会にも出場したが、初戦の2回戦で敗退した。1990年のドラフト6位で福岡ダイエーホークスに入団[1]

ダイエー時代

1991年はサリナス・スパーズに野球留学した。入団当時から俊足で知られ、1992年8月11日に一軍初出場、翌日にはプロ初安打を放ち、1993年に初盗塁を記録。打撃が弱く、当初は完全に代走・守備要員だったが、1995年に打撃開眼して3割を超える高打率を残すと、高橋慶彦の指導で「塁に出たら間違いなく走る」と言われるほど積極盗塁に試み、規定打席未満ながら3割・32盗塁で1番打者に定着した。

1996年は完全にレギュラーを獲得し、58盗塁で初の盗塁王を獲得。1997年にも42盗塁を記録している。しかし、王貞治をはじめとした首脳陣の「俊足を生かすために叩きつけてバットに当てる」という指導方針から打撃が窮屈になり、長い打撃不振に陥った。1997年以降6年連続で打率.260を下回り、1998年以降は柴原洋に1番打者を奪われる。秋山幸二と柴原がレギュラーに定着し、1999年の日本一、2000年のリーグ連覇に貢献しているものの、長らく半レギュラーの座を甘受する。

2002年限りで秋山が引退し、そのオフに打撃コーチに就任した新井宏昌の指導もあり、俊足を生かすために叩きつけて出塁するバッティングから、「バットを水平にボールに当てる」レベルスイングに打撃改造。速球を基本どおりセンターに打ち返す本来の打撃がよみがえった。

2003年、脇腹を痛め開幕に間に合わなかった柴原を8番・右翼手に追いやり、1番・中堅手として復活を果たす。開幕から打率3割を維持し、それまでの12年間で2本塁打とほとんど本塁打が打てなかった(初出場から連続打数本塁打無しの日本記録保持)が、この年は6本塁打を放つ。7月1日にはサイクル安打を達成した[注 1]ダイハード打線の核弾頭として、打率.324(リーグ8位[2])、150安打、6本塁打と自己最高の打撃成績に加え、歴代5位タイとなる13三塁打を記録。盗塁王争いでも井口資仁との激しい競争をリードしていたが、8月23日の対千葉ロッテマリーンズ戦(福岡ドーム)で捕球を試みた際に右鎖骨を骨折して離脱。終盤戦を棒に振って盗塁王と最多安打を逃すが驚異的な回復を見せ、日本シリーズ(対阪神タイガース戦)には復帰して日本一に貢献した。

この年のオフに「特徴である足に負担が少ない、天然芝のグラウンドのチームでプレーしたい」という理由と、当時のダイエー球団社長兼オーナー代行だった高塚猛の独善的な言動・行為に不信感を持ったことからFA宣言し、オリックス・ブルーウェーブへ移籍。

オリックス時代

2004年にはアテネオリンピック野球日本代表に選出されるなど中心選手として活躍しているが、2番・3番での起用が多い影響もあり、移籍後は持ち味の盗塁が激減している。だが、リーグ5位の打率.320[3]、自己最多タイの6本塁打をマークし、最下位に低迷するチームにおいて奮闘した。この年のオフには球団合併による選手分配ドラフトによりオリックス・バファローズと契約。

2005年は「オリックス・バファローズ」になったことで、本拠地試合の半数以上は人工芝の京セラドーム大阪で行われることとなった。移籍後も野球への真摯な取り組みや低迷していたチームを牽引する姿勢から関西のファンに愛された。合併直後のシーズンには「ファンの人たちに喜んでもらうため」と球団の名物ファンサービスの「花火ナイト」を自費で企画実施するなど、ファンを大切にする態度も高く評価されている。しかし、打率.247と不振で規定打席にも到達せず、不本意なシーズンとなった。

2006年はチームが貧打に喘ぐ中、規定打席に到達してチームトップの打率.303(リーグ10位)と健闘。

2007年も128試合に出場し、打率.289と下がったが前年より多い131安打を記録した。

2008年は春先こそ活躍したが、7月3日のソフトバンク戦で盗塁時に足を痛めて降格。8月19日に復帰したものの、不在の間に小瀬浩之が台頭したため出場機会を得られず、出場試合数が6年ぶりに100試合未満に終わった。同年10月31日、大村直之との交換トレードで福岡ソフトバンクホークスへ移籍。5年ぶりの古巣球団への復帰となった。

ソフトバンク時代

2009年は開幕前に左足ふくらはぎを痛め出遅れたものの、5月22日に1軍登録され、外野のスーパーサブ的な役割を担っていた。

2010年は開幕1軍で迎えたが、3月22日北海道日本ハムファイターズ戦に代打で起用されたのみで降格となった。以後は出場機会がなく、9月27日に現役引退を発表した[4]。ファン感謝祭での引退挨拶においては、「自慢の脚力を活かして」と発言してスカウト活動を誓った。

引退後

2011年からはファン感謝祭での発言通り、ソフトバンクのスカウト(東海・北信越担当)を務める[5]。2014年からは3軍外野守備走塁コーチを務める[6]

2015年2月6日に「GLOBAL BASEBALL MATCH 2015 侍ジャパン 対 欧州代表」の日本代表外野守備・走塁コーチを務めることが発表された[7]2017年からは一軍外野守備走塁コーチを担当する[8]

人物・エピソード

  • 星稜高校時代の2学年下には松井秀喜がいて、4番・松井、5番・村松のクリーンナップを組んでいた。盗塁王獲得後に松井と再会する機会があり、松井から「まさかプロで盗塁王をとるような選手になるとは思わなかった」と言われたという。
  • 以前は巨人ファンだったことを公言している。週刊ベースボールのインタビュー記事では、子供の頃は原辰徳の影響で、村松自身が左利きなのに右打ちだったことも明かしている。
  • 真剣に練習に取り組む様子は若手の手本となっている。ソフトバンク移籍後、代打・代走や守備固めでの出場が増える中で、普通の控え選手が7回前後から始めるウォーミングアップを4回から始めていた。
  • 特技は般若心経の暗唱。
  • ダイエー時代の1996年に、ともさかりえ矢田亜希子との共演でローソンのCMに出演した。
  • プロ野球ニュースの企画で、約束した盗塁数を達成できなければ愛車である赤のフェラーリをピンクに塗り替える約束をし、約束が果たせなかったので木佐彩子藤村さおりによってピンクに塗り替えられた。下取りに出す際、この件でフェラーリの価格が下がってテレビ出演料の何倍もの損失を出したという。
  • うるぐすの企画で、井上悟とベースランニングで対決して勝利した。しかし、井上にベースランニングの技術を教えた直後に勝負すると、1秒差で敗れた。
  • 引退会見で、チームが不振だった1996年に選手が乗ったバスに対してファンから生卵を投げつけられたこと(生卵事件)を涙ながらに思い起こし、「あの悔しさ(生卵事件)を野球人生にぶつけようと思ってやってきた。1999年の最初の優勝で(当時の)王監督を胴上げできたことが一番うれしかった」と振り返った[9]
  • 中学時代、転校直後に野球部でレギュラーを取り、また将来の夢は「PLで4番エース、巨人ドラフト1位」と書いた。また努力を惜しまず、家でもずっとキャッチボールやランニングに励んでいた。

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1992 ダイエー 39 80 69 4 13 0 2 0 17 1 0 1 5 0 5 0 1 12 0 .188 .253 .246 .500
1993 13 32 28 3 5 0 2 0 9 3 1 1 1 0 3 0 0 6 0 .179 .258 .321 .579
1994 12 41 39 6 10 0 0 0 10 6 5 0 0 0 2 0 0 4 0 .256 .293 .256 .549
1995 95 369 328 57 101 11 3 0 118 13 32 17 11 0 29 0 1 26 3 .308 .366 .360 .726
1996 108 473 406 56 119 14 9 0 151 38 58 26 16 1 45 1 5 42 2 .293 .370 .372 .742
1997 131 551 477 59 115 15 4 0 138 29 42 23 12 1 58 2 3 56 5 .241 .327 .289 .616
1998 120 268 232 41 58 7 2 1 72 16 11 6 10 1 23 1 2 33 3 .250 .322 .310 .632
1999 110 272 234 21 57 7 2 0 68 15 13 6 19 1 17 1 1 37 2 .244 .296 .291 .587
2000 128 365 321 45 83 8 6 1 106 24 11 4 16 0 26 0 2 35 3 .259 .318 .330 .648
2001 121 261 242 34 60 3 6 0 75 18 14 2 2 1 15 1 1 28 4 .248 .293 .310 .603
2002 94 204 189 21 49 13 1 0 64 14 7 3 5 2 6 0 2 24 1 .259 .286 .339 .625
2003 109 510 463 85 150 29 13 6 223 57 32 10 5 4 35 0 3 67 5 .324 .372 .482 .854
2004 オリックス 108 503 459 70 147 29 1 6 196 51 11 6 5 1 35 1 3 87 12 .320 .371 .427 .799
2005 118 409 360 49 89 15 2 0 108 30 7 4 2 3 42 0 2 62 3 .247 .327 .300 .627
2006 126 439 400 52 121 11 4 3 149 28 13 8 16 1 21 1 1 42 4 .303 .338 .373 .711
2007 128 506 453 56 131 11 3 0 148 28 9 6 19 3 27 1 4 58 6 .289 .333 .327 .659
2008 83 263 234 28 62 7 5 1 82 16 4 1 6 1 20 0 2 32 4 .265 .327 .350 .677
2009 ソフトバンク 29 52 46 6 10 1 1 0 13 5 0 2 1 0 3 0 2 5 1 .217 .294 .283 .577
2010 1 1 1 0 0 0 0 0 0 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000 .000 .000 .000
通算:19年 1673 5599 4981 693 1380 181 66 18 1747 393 270 126 151 20 412 9 35 666 58 .277 .335 .351 .686
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • ダイエー(福岡ダイエーホークス)は、2005年にソフトバンク(福岡ソフトバンクホークス)に球団名を変更

年度別守備成績


外野












1992 37 60 0 0 0 1.000
1993 10 20 1 0 0 1.000
1994 12 25 0 2 0 .926
1995 90 185 1 1 0 .995
1996 105 211 10 5 1 .978
1997 129 285 9 1 2 .997
1998 115 145 6 1 3 .993
1999 104 158 4 2 2 .988
2000 122 175 6 2 2 .989
2001 112 163 3 1 0 .994
2002 87 112 3 2 1 .983
2003 109 196 4 2 1 .990
2004 91 194 2 2 2 .990
2005 111 169 2 1 0 .994
2006 119 216 6 1 2 .996
2007 118 181 5 4 0 .979
2008 70 120 2 0 1 1.000
2009 23 18 0 2 0 .900
通算 1564 2633 64 29 17 .989

タイトル

表彰

記録

初記録
  • 初出場:1992年8月11日、対西武ライオンズ13回戦(西武ライオンズ球場)、8回裏に中堅手で出場
  • 初先発出場:1992年8月12日、対西武ライオンズ14回戦(西武ライオンズ球場)、8番・中堅手で先発出場
  • 初安打:同上、8回表に石井丈裕から
  • 初打点:1992年9月13日、対近鉄バファローズ18回戦(藤井寺球場)、8回表に江坂政明から
  • 初盗塁:1993年8月6日、対西武ライオンズ15回戦(福岡ドーム)、8回裏に二盗(投手:横田久則、捕手:垣内哲也
  • 初本塁打:1998年4月12日、対近鉄バファローズ3回戦(大阪ドーム)、1回表に岡本晃から右越先頭打者本塁打 ※1566打席目の初本塁打はNPB史上2番目(当時は史上最高)に遅い記録[10]
節目の記録
その他の記録

背番号

  • 63 (1991年 - 1992年)
  • 23 (1993年 - 2003年)
  • 3 (2004年 - 2008年)
  • 35 (2009年 - 2010年)
  • 93 (2014年 - )

代表歴

脚注

注釈

  1. この日は稲葉篤紀(ヤクルト)もサイクル安打を達成している。同日に複数選手がサイクル安打を記録したのは史上初のこと。さらに翌日には桧山進次郎(阪神)もサイクル安打を達成し、2日間で3人の選手がサイクル安打を記録したこととなる。

出典

  1. 1.0 1.1 1.2 『日本プロ野球偉人伝 vol.14 2000→2005編』 ベースボール・マガジン社、2014年。ISBN 978-4-583-62118-0。
  2. 年度別成績 2003年 パシフィック・リーグ”. 日本野球機構. . 2018閲覧.
  3. 年度別成績 2004年 パシフィック・リーグ”. 日本野球機構. . 2015閲覧.
  4. 村松が現役引退=プロ野球・ソフトバンク、時事通信、2010年09月27日。
  5. 人事について福岡ソフトバンクホークス公式サイト2010年11月7日配信
  6. 2軍監督及びコーチ人事について福岡ソフトバンクホークス公式サイト2013年10月28日配信
  7. 「GLOBAL BASEBALL MATCH 2015 侍ジャパン 対 欧州代表」コーチングスタッフについて 野球日本代表 侍ジャパンオフィシャルサイト (2015年2月6日) 2016年3月10日閲覧
  8. 2017年 コーチングスタッフについて - 福岡ソフトバンクホークス・オフィシャルサイト 2016年10月28日
  9. 村松が引退会見「王監督を胴上げできて嬉しかった」
  10. ロッテ岡田 67年ぶり更新 不名誉だけど「自分らしい」スポーツニッポン2014年8月1日配信

関連項目

外部リンク

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