東映アニメーション

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東映アニメーション株式会社(とうえいアニメーション、: TOEI ANIMATION CO., LTD.)は、日本アニメ制作会社日本動画協会正会員、一般社団法人練馬アニメーション理事。

沿革

1950 - 1960年代

1948年(昭和23年)1月、政岡憲三山本善次郎らにより日本動画株式会社設立[1]。設立当初は成城高校の空き教室約100坪を使って制作が行われた。1952年(昭和27年)8月、日動映画株式会社に商号変更した[1]

1955年(昭和30年)、日動映画の藪下泰司と山本善次郎が東映の今田智憲営業課長を訪ね[2]、「自分たちは日動というアニメの会社を24、5人でやっているんだが、どうも難しい。協力してもらえないか」と相談があり[2][3]、国際的な映像の仕事としての大きな可能性を感じた今田が大川博東映社長に「東洋のウォルト・ディズニーになりましょう」と進言し日動映画の買収を決めた[2]

1956年(昭和31年)1月、東映は東映動画の設立に向け「漫画映画製作研究委員会」を立ち上げ、委員長は大川社長で、設立準備の実務担当委員として赤川孝一管理課長[注釈 1]や、今田智憲らが任命された[4]。ところが、事業計画案を巡り赤川と今田の意見が対立した。今田は「カラー長編制作に加え、ディズニー社を始めとするアメリカの長編アニメ制作会社と提携し、その制作技術を導入すること」「作品制作事業だけでなく、関連商品販売やテーマパーク運営など、広範囲にわたる事業展開を図るべし」「絶対に天然色で、長編漫画でなければ収入はあがらない」などと提案[4]。今田は今日のキャラクター・ビジネスやマーチャンダイズに近い発想を既に持っていたが、結局赤川の教育映画部の意見が優先され、今田の意見は却下された。

同年7月、東映が日動映画を買収。森康二、藪下泰司らを擁する東映動画株式会社が発足した[1]。これ以前にも商業アニメーションは細々と存在したが、東映が買収したことで初めて日本のアニメーションに光が当たった[5][注釈 2]。発足当時の35名の社員はほとんどが旧日動の社員で、会社住所も日動と同じ新宿区原町であった[6]。東映動画の発足にあたっては短編・中編制作の事業計画のみが記載され、長編の記載はなかったが[4]、もとは香港からの持ち込み企画であった『白蛇伝』の制作をスタートさせた。当時、日本国内にアニメーション制作会社はごく少なく、長編制作の経験もほとんどなかった中で、東映は日動映画を買収することによりアニメーション制作のノウハウを得ようとしたのである。

1956年(昭和31年)、東京都練馬区の東映東京撮影所内にスタジオが完成。東映動画は1957年(昭和32年)1月9日、この新スタジオに移転した[1]。スタジオ完成とともに新たに採用された東映動画第一期生の中には大塚康生楠部大吉郎らがいた。また1958年から手塚治虫が『西遊記』の製作のために嘱託として参加している[7]。この時のノウハウが旧虫プロダクションで活かされることとなる[7]

新スタジオでは『白蛇伝』制作のためのスタッフ急増とCMフィルムの需要の増加に対応して同年末に第1次増設工事に着工して同年4月10日に竣工し、その2年後の1959年(昭和34年)6月15日には第2次増設工事竣工した。さらに『狼少年ケン』などのテレビアニメーション(テレビ漫画)の制作に対応するため1964年(昭和39年)6月2日には第3次増設工事が竣工して現在のスタジオに成長した。

スタジオの完成によって長編アニメーション制作の体制が整い、まず手慣らしとして旧日動映画スタッフの指導の下で、1957年(昭和32年)5月に初の短編作品『こねこのらくがき』を制作した。続いて1958年(昭和33年)10月には『白蛇伝』を完成した。その後、『わんぱく王子の大蛇退治』、そうして宮崎駿などの『白蛇伝』に影響を受けたスタッフらも制作に参加した『太陽の王子 ホルスの大冒険』、『長靴をはいた猫』などの長編作品を発表し、1960年代における東映動画の長編時代が築かれた。社員総数は1959年には250名にまで増えたが、そのうちCMアニメの制作に100名が従事しており、東映動画の主たる仕事は常にCMアニメの制作であった[6]1961年(昭和36年)虫プロダクションが設立されると、手塚治虫にアニメ制作の才能を請われたアニメーターたちが虫プロに移動したり、両方の作業をするという混乱期があった[6]。虫プロは設立に当たり、人材の大半を東映動画からの引き抜きに依存した[8]。東映動画という先行者がなしでは、虫プロも手際よく発足し、設立から一年半の間にテレビ漫画シリーズをスタートさせることはできなかった[8]。一時期の虫プロは、東映動画のスタジオが一部分そのままそっくり移転したかのような様相を呈した[8]。東映動画は作画関係者だけに限らず、演出家、美術家、カラープランナー、カメラマン、プロデューサーに至るまで抱えて育んでいたため、東映動画はアニメーション業界に、人材をつぎつぎと送り込む供給源になっていった[8]。手塚も『西遊記』『シンドバッドの冒険』『わんわん忠臣蔵』の東映動画の製作に誘われ、実際の作業の現場を経験したことにより、アニメーション制作の意を強くした[7]。東映動画に残ったクリエーターの多くは劇場公開アニメーションの制作など、東映動画の従来のアニメ制作の方針に拘った者であった[6]。当時、連続テレビ漫画番組は、制作に占める人件費の割合が多く、テレビ劇映画に比べて三倍の制作費がかかるといわれ[9]、毎週テレビ放送されるアニメシリーズの制作を企画したプロダクションやテレビ局はなかった。しかしそれが可能であることを示した虫プロの「鉄腕アトム」以降は、低い放映権料で番組制作を請け負った[6]。この産業構造が業界の水準となったため、後々までアニメ業界は受注金額が低く抑えられる状態が続くことになった[6][10]。また「鉄腕アトム」の例から、漫画雑誌に掲載された漫画作品を元にすれば知名度の点から人気が取れることが分かり、動画の技術としては手抜きな作品であっても視聴率が取れるとされ、東映が劇場用で目指したのとは異なる種類のマーケットが確立し、拡大していくことになった[11]。1961年(昭和36年)秋には東映動画に労働組合が結成され、過密労働と低賃金の改善という一般的な労組の目的の他、東映本社が企画権を握り、漫画映画らしい作品の企画とその制作が制限されている状況を打開したいという要求が増していく[6]

東映アニメーションのマスコットキャラクターは、『長靴をはいた猫』・『ながぐつ三銃士』・『長靴をはいた猫 80日間世界一周』の主人公ペロである。

1970 - 1990年代

大川博が1971年(昭和46年)8月に逝去し、後任として岡田茂が東映社長に就任すると(同月兼東映動画会長)[12][13][14]赤字の膨らむ東映動画は激しい合理化にさらされた[14][15][16][17][18]。岡田は「動画は東映のガンだ。ガンは放置しておいたら、やがて病巣は東映の全身に広がる。ガンは小さいうちに切開手術するのが医者(経営者)の義務だ」と発言し労組が猛反発した[19][20]。この頃長編動画の製作コストが上昇し作れば作るほど赤字を出していた[15]。累積赤字を3億円出していた東映動画には責任者として行くことを皆嫌がったが[19]、岡田は元東映勤労部長で労務管理のベテラン・登石雋一を言い含めて東映動画の社長に据え、強硬なリストラを命じた[15][19]。岡田と登石は製作数を減らし、さらに従業員320名の半分の希望退職を募集[15]労組は激しく反発し、両者の間で団交が繰り返されたが、希望退職の募集は何度も延期され、のちロックアウトが敢行され5カ月間に約120名が退職し東映動画は存続した[15][17]。当時の東映の主な赤字部門は、東映フライヤーズと東京タワー交通、ボウリング部門、東映動画の4つだったが、岡田は動画以外の3つを切り動画のみ残した[19]。岡田、登石と1974年8月、後任として岡田から東映動画社長に抜擢された今田智憲の尽力により[19][21][22]、1970年代始めに3億円あった東映動画の累積赤字は一掃され、1981年(昭和56年)に東映動画は売上げ70億円、利益2億円を出すまで回復した[19][22][23]1970年代に入ると、人気・制作本数ともに拡大し始めたテレビシリーズの制作におされ、コストのかさむ長編作品の制作は縮小されていくようになった。大手制作会社というイメージが、安心して仕事を任せられるという印象を放送局や広告代理店、出版社などに与えたこともあり、東映動画には週刊少年漫画誌原作のテレビアニメ制作の依頼が多く舞い込むようになった。人気テレビアニメの焼き直しの方が長編動画より利益幅が大きかった[15]。制作の中心はテレビシリーズへと移り劇場作品は漫画原作の「東映まんがまつり」が中心となり、さらに仮面ライダーシリーズのような実写ヒーロー物が「東映まんがまつり」に入ってくるようになったことで東映長編時代は終焉を迎える[13][24]。制作本数の増加と労働争議の激化により1973年(昭和48年)からは韓国への制作委託を開始。国外発注の強化とともに、自社のスタジオ周辺に下請けプロダクションを増やして制作の下請け・外注化を進めた。結果として自社で抱えていたクリエーターの多くがこれらの合理化で他のプロダクションなどへと移るなどして東映動画を去った[14][25]

大川博の息子・大川毅とそりが合わずユニオン映画に行っていた今田智憲が、盟友・岡田茂に呼び戻され1974年(昭和49年)社長に就任[21][22][26][27]。今田は1993年(平成5年)まで歴代最長の20年間社長を務め大きな功績を残した[6][22]。今田はそれまでの強硬路線と違い、柔軟路線をとり労組に対応[22]、先のリストラ時の解雇者の中で裁判に訴えていた18名の解雇を取り消して労使は和解し[6]労組問題に揺れた東映動画を立て直す[22][28]。続いて制作の赤字構造の改善に経営方針として、(1)版権ビジネス・キャラクター商品化の営業強化、(2)海外への販路拡大、(3)制作を下請け化して、その下請けプロを管理する、(4)海外にも下請けを拡大させる、(5)技術革新で省力化を図る、などを示した[6]。その後今田の施策は続々と実現されていった[6][22]

今田は東映動画創業時から、"アニメは日本の映像産業が世界に輸出し得る唯一の商品"という考えを持っており[2]、東映動画は今田が社長に就任してようやく海外にも眼を向けていこうという方針になった[29]。日本アニメ海外進出の推進役として陣頭指揮を執り[2][6][29][30]、それまで東映本体が行っていた海外販売を1975年(昭和50年)から新設した動画版権営業部に行わせ、東アジア東南アジアを手始めに欧州アメリカ等、世界各国のテレビ・映画の見本市に毎年出展。今田自ら世界各地の映画祭配給会社を訪ね、日本アニメの輸出促進を働きかけ[2]、フィルム輸出と海外版権の販路拡張を推し進めた[30]1976年(昭和51年)から『マジンガーZ』(1972年(昭和47年)制作)を始めとした自社制作作品の日本国外への売り込みを積極的に行う。特に『UFOロボ グレンダイザー』(1975年(昭和50年)制作)、『キャンディ・キャンディ』(1976年(昭和51年)制作)は世界各国で放送され、日本のアニメーション輸出に弾みをつけた[6]。またマーチャンダイジング営業強化の施策では、制作部門に対して付帯・関連部門を強化し、関連部門の売り上げが全体の60~70%を占めるようになり、制作の差損を営業によって埋め合わせる仕組みを作った[6]

将来を見据えたコンピュータの導入では1974年(昭和49年)、社内にプロジェクトチームを作り、1977年(昭和52年)正式に技術委員会プロジェクトを発足させた[6][26][31]。これが同社のデジタル化の切っ掛けとなる[26]。国内大手家電メーカーと連携して研究開発に取り組んだが、1980年代に於いては初期費用、ランニングコスト天文学的な数字にのぼり実現できなかった[26]。しかし1990年代に入ってパソコンの性能が飛躍的に向上し価格もどんどん下がり、1992年(平成4年)の『北斗の拳』のゲーム用データ作成を手始めに、一部実験的に試用を始め、1997年ゲゲゲの鬼太郎 第4シリーズ』4月放映分からデジタル制作に完全に切り替えた[6][26]。これが日本アニメのデジタル化第一作である[26]

1992年(平成4年)、フィリピンに地元企業EEIとの合弁でEEI-TOEI ANIMATION CORPORATION[注釈 3]を設立[1]。これによりコスト的に日本国内とほぼ変わらなくなった韓国に代わりフィリピンへの制作委託体制が確立した。1996年(平成8年)、東映グループにおける大人事改革の影響でそれまで継続していたテレビアニメ作品の全てを一旦終了。

1995年(平成7年)、人材育成を目的として東映アニメーション研究所を開設[1]。ディレクター・アニメーター・美術デザイナー・CGクリエーターの研究生募集を開始(現在は閉所)。1998年(平成10年)、東映アニメーション株式会社に商号変更した[1]

2000年代以降

2000年(平成12年)、ペンタブレットによる作画工程のデジタル化システムを導入。同年、フィリピンおよび日本国内の制作プロダクションを光ファイバー通信で結ぶ「東映アニメ製作ネットワークシステム」[注釈 4]の運用を開始[1][32]。これにより素材の輸送にかかる時間を大幅に短縮。生産性を大幅に向上させることに成功し、テレビシリーズ・劇場作品をあわせ現在に至るまで業界最多クラスの制作本数を維持している。

2003年(平成15年)に大泉スタジオ内に東映アニメーションギャラリーを開館。歴代作品がパネルで展示されているほか、時期により特定の作品にクローズアップした企画展が行われている。入場料は無料だが、社屋内に立ち入ることになる関係上、入館の際は守衛に申し込んで手続きする必要があった。

2006年(平成18年)には幻冬舎と共同でアニメや映画とは異なる映像カテゴリー「画ニメ(がにめ)」レーベルを立ち上げる[注釈 5][33]

2013年(平成25年)7月16日、営業・管理部門及び子会社である東映アニメーション音楽出版のオフィスを神楽坂新宿区横寺町)から中野セントラルパークイースト中野区中野)に移転した[34]。2014年には株主総会での承認を得た上で登記上の本店を実質的な本社機能のある中野オフィスに移した[35]ほか、同年9月より老朽化した大泉スタジオの建て替えを含めた敷地内の全面リニューアルを行うため、大泉スタジオの機能を2017年頃まで約3年間、練馬区光が丘に一時移転した[36]。大泉の新スタジオは2017年8月に竣工し[37]、2017年末に引っ越し作業を行った上で2018年1月より稼働を開始している[38]。大泉スタジオ内にあった東映アニメーションギャラリーについても同年9月23日より長期休館に入っていたが[39]、2018年7月28日に東映アニメーションミュージアムとしてリニューアルオープンしている[40]

2014年(平成26年)12月17日、委託契約を結んでいる原画制作者、CGクリエーター約400人に対する報酬を消費税増税後も据え置く「買いたたき」を行ったとして、公正取引委員会より消費税転嫁対策特別措置法に基づく再発防止の勧告を受けた。委員会の調査後、4-9月分の差額約2千万円を支払った[41][42]

特徴

東映アニメーションには、撮影所長以下、スタッフ自ら「活動屋」と呼ぶ、東映流映画づくりのポリシーと日本のアニメーションの良質な部分を引き継いだ日動の技術が濃厚に引き継がれている[11]。この二つは後々にも大きな影響力を持った[11]

実写映画の制作スタイルを踏襲し、劇場作品を「長編」、テレビシリーズを劇場作品の短編と捉えて「短編」と呼ぶ。短編作品では各話の担当演出が事実上の監督であるとの考えからシリーズ全体での監督職の表記はなく、シリーズ全体の統括職として他社制作アニメの監督よりも権限の弱い「シリーズディレクター」及び「チーフディレクター」の役職を設けている。音響監督はおいておらず、基本的に各話の演出担当者が行う[注釈 6]。そのため他社に比べ負担は重くなるが、その補佐をする役職として演出助手をおいている。演出助手が制作進行(東映では「製作進行」と表記)を兼任する場合は「演助進行」と呼ばれる。制作進行の担当は作画までで、仕上、美術の各工程それぞれに進行担当者が置かれる。背景美術についても美術担当が各話ごとに置かれる。他にスクリプターが設けられているなど映画会社母体の特徴が見られる。プロデューサーに転向した演出家もおり、作品によってはプロデューサーが演出に携わるケースもある。

過去に制作した作品のリメイクを盛んに行うのも東映アニメーションの特徴であり、1980年代は『ゲゲゲの鬼太郎』(第3作)、『ひみつのアッコちゃん』(第2作)、『魔法使いサリー』(第2作)、1990年代は『ゲゲゲの鬼太郎』(第4作)、『キューティーハニーF』、『ひみつのアッコちゃん』(第3作)、『ドクタースランプ』、2000年代は『ガイキング LEGEND OF DAIKU-MARYU』、『祝!(ハピ☆ラキ)ビックリマン』、『ゲゲゲの鬼太郎』(第5作)、2010年代は『ゲゲゲの鬼太郎』(第6作)をそれぞれ制作した。また、『ドラゴンボールZ』を再編集した『ドラゴンボール改』を制作している(2009年 [平成21年] - 2011年 [平成23年]に第1期、2014年 [平成26年]より第2期)。

各作品のエンディングのクレジットに「協力:青二プロダクション」とあるように同社との関係が深く、かつては青二プロダクションの所属声優を独占的に多く起用した作品も多かったが、1990年代後半以降は東映アカデミーがキャスティングマネージメントを行う作品もある。東映アカデミーの解散後は、東映東京撮影所マネージメント部[注釈 7]がキャスティングマネージメントを引き継いでいる。

長期に渡って放送されている一部作品ではストーリーの展開や設定を刷新し、番組終了後もタイトルを変更する形で次週以降も放送を継続したものが多い(例『ドラゴンボール』→『ドラゴンボールZ』など)。そのため、番組タイトルを変更せず10年以上継続して放送しているアニメは現在に至って『ONE PIECE』のみとなっている。

TV放送に関しては同社作品のレギュラー放送枠を複数持っており、テレビシリーズの作品の大半は東映レギュラー枠で放送される。ただし、資本関係を有するテレビ朝日・フジテレビとの制作作品は、一時全国同時スポンサードネット番組としての放映が途絶えていた時期があった[注釈 8][注釈 9][注釈 10]

週刊少年ジャンプ』との結びつきが強く、1981年に製作された『Dr.スランプ アラレちゃん』以降継続的にジャンプ作品のアニメが製作されており、「東映アニメーション=週刊少年ジャンプ」を連想する人も多い。漫画家の澤井啓夫は、『ボボボーボ・ボーボボ』のアニメ化に際し「アニメ化の話を聞いて一番嬉しかったのは、東映アニメーションが製作を担当すること」とコメントしている[43]

1986年から1993年まではゲームソフトの販売を行っていたことがあり、東映系の作品以外にも『バルトロン』や『ファイティングロード』といったオリジナル作品も携わっていた。その後、2010年の『こえであそぼう! ハートキャッチプリキュア』で17年ぶりにゲームソフトを販売。2014年にはスマートフォン向けのオリジナル作品ゲーム『円環のパンデミカ』を自社内で企画し、同年5月からサービスを開始した[注釈 11]

編集・音響制作等のポストプロダクションに100%子会社のタバックを起用している。録音業務も新宿区内のビルにあったタバックの本社スタジオで主に行っていたが、ビルの老朽化により現在は録音スタジオを東映デジタルセンターに移し、音響制作は引き続きタバックが担当している。長年存在しなかった撮影監督音響監督を設けるようになり、2014年以降からエンディングで表記されることが多くなった。ただし、音響監督はかつての様におかない場合もあり、2016年から2017年頃に廃止された。『うちの3姉妹』の様に、完全に他社に音響制作や録音・編集作業を委託した例もある。

大株主

2018年(平成30年)3月31日現在[44][注釈 12]

名称 所有株式割合(%)
東映株式会社 34.2
株式会社テレビ朝日 20.0
株式会社バンダイナムコホールディングス 11.0
株式会社フジ・メディア・ホールディングス 10.3
東映ビデオ株式会社 3.3
東映ラボ・テック株式会社 2.5
株式会社ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント 1.9
みずほ信託銀行株式会社退職給付信託ソニー株003口
再信託受託者 資産管理サービス信託銀行株式会社
1.9
日本マスタートラスト信託銀行株式会社(信託口) 1.5
資産管理サービス信託銀行株式会社(信託B口) 0.9

関連会社

連結子会社

  • 株式会社タバック
  • 東映アニメーション音楽出版株式会社
  • TOEI ANIMATION PHILS., INC.
  • TOEI ANIMATION ENTERPRISES LIMITED(香港現地法人)
  • TOEI ANIMATION INCORPORATED(北米現地法人、ロサンゼルス)
  • TOEI ANIMATION EUROPE S.A.S.(欧州現地法人、パリ)

持分法適用会社

非連結子会社

  • TOEI DOGA US Service, INC.
  • TOEI DOGA US Productions, LLC
  • TOEI DOGA US Entertainment, LLC
  • TOEI ANIMATION (SHANGHAI) CO., LTD.(中国現地法人、上海、2017年6月設立)

その他関係会社

  • 東映株式会社
  • 株式会社テレビ朝日
  • 株式会社アニュータ(音楽配信サービス、発足時に東映アニメーション音楽出版が参画)
  • コヨーテ株式会社(東映・東映アニメーション音楽出版・ディー・エル・イーの合弁会社、新規コンテンツの企画開発プロデュース)
  • 株式会社TENH ANIMATION MAGIC(SOLA DIGITAL ARTSとサンジゲンの共同設立によるCGアニメーションスタジオ、東映アニメーションも経営に参画)
  • 株式会社ダンデライオンアニメーションスタジオ(2018年8月に資本業務提携[45]

関連人物

歴代社長

  1. 大川博(1948年設立 - 1964年)
  2. 山崎李四郎(1964年 - 1964年)
  3. 山梨稔(1964年 - 1971年)
  4. 高橋勇(1971年 - 1972年)
  5. 登石雋一(1972年 - 1974年)
  6. 今田智憲(1974年 - 1993年)
  7. 泊懋(1993年 - 2003年)
  8. 高橋浩(2003年 - 2012年)
  9. 高木勝裕(2012年 - )

現役員

  • 森下孝三(東映アニメーション取締役会長)
  • 岡田裕介(東映グループ会長)
  • 重村一(ニッポン放送取締役会長、東映アニメーション社外取締役)

企画

アニメーター・演出家

脚本家

プロデューサー

美術デザイン

  • 佐藤千恵
  • 増田竜太郎
  • 行信三 (カルロス・ユキ)
  • ゆきゆきえ
  • 吉池隆司
  • 渡辺佳人

色彩設計

CG監督

  • 川崎健太郎
  • 宮本浩史
  • 小林真理
  • 鎌田匡晃
  • 高橋友彦

製作担当

作品履歴

テレビアニメ(連続物)

1960年代

1970年代

1980年代

※は国際映画社、〇はマーベル・プロダクションやサンボウ・プロダクションとの共同制作。

1990年代

2000年代

2010年代

テレビアニメ(スペシャル)

ウェブアニメ

劇場アニメ

1950年代(劇場アニメ)

1960年代(劇場アニメ)

1970年代(劇場アニメ)

1980年代(劇場アニメ)

1990年代(劇場アニメ)

2000年代(劇場アニメ)

2010年代(劇場アニメ)

OVA

実写映画参加作品

コンピュータゲーム

レーザーディスクゲーム

ミュージカル

CM

  • スズキ・ハスラー(2014年 - 、アニメーション制作)[46]
    • 『Dr.スランプ アラレちゃん』篇
    • 『クリスマス アラレちゃん』篇
    • 『感謝をこめて 特別仕様車・決算付』篇
    • 『コラージュ』篇
    • 『ワクワク広がれ』篇
    • 『ワクワクがズラリ』篇
    • 『ぴたっ!と安全』篇

その他

参考文献

  • 渡辺泰・山口且訓 『日本アニメーション映画史』 有文社、1978年。
  • 東映動画・徳間書店児童少年編集部 『東映動画 長編アニメ大全集』上巻、徳間書店、1978年。
  • 大下英治 『日本ヒーローは世界を制す』 角川書店、1995年。ISBN 4-04-883416-9。
  • 御園まこと監修 『図説テレビアニメ全書』 原書房、1999年。ISBN 4-562-03217-0。
  • 川崎市市民ミュージアム編集 『日本アニメの飛翔期を探る』 読売新聞社・美術館連絡協議会、2000年。
  • 大塚康生『作画汗まみれ 増補改訂版』徳間書店、2001年(ISBN 4198613613)
  • 多田信『これがアニメビジネスだ』廣済堂出版2002年(ISBN 4331508676)
  • 山口康男 『日本のアニメ全史 世界を制した日本アニメの奇跡』 テン・ブックス、2004年。ISBN 4-88696-011-1。
  • 大塚康生・森遊机 『大塚康生インタビュー アニメーション縦横無尽実業之日本社、2006年。ISBN 4-408-61255-3。
  • 津堅信之『アニメ作家としての手塚治虫-その軌跡と本質』NTT出版、2007年(ISBN 9784757141520)
  • 『映画界のドン 岡田茂の活動屋人生』 文化通信社、2012年。ISBN 978-4-636-88519-4。
  • 布村建「極私的東映および教育映画部回想」、『映画論叢』第18巻、国書刊行会、2014年7月号。
  • 大下英治 『仮面ライダーから牙狼へ 渡邊亮徳・日本のキャラクタービジネスを築き上げた男竹書房、2014年。ISBN 978-4-8124-8997-0。
  • 『日本TVアニメーション大全』 世界文化社、2014年。ISBN 978-4-418-14901-8。
  • 増田弘道 『デジタルが変えるアニメビジネス』 NTT出版、2016年。ISBN 978-4-7571-2356-4。
  • 津堅信之:「ディズニーを目指した男 大川博 ―忘れられた創業者―」、日本評論社、ISBN 978-4-535-58695-6 (2016年8月25日)。

注釈

  1. 後の教育映画部次長、赤川次郎の父。
  2. 一般人のアニメーションへの知識や関心が高まったのは、1978年に『アニメージュ』などのアニメ雑誌が創刊されて以降の話で、それまではアニメーターや演出家などのスタッフ名まで知っている人はほとんどいなかった(『大塚康生インタビュー』15頁)。
  3. 1999年よりTOEI ANIMATION PHILS. INC. 略称:TAP、Toei Phils.
  4. 略称: PRO2NET、プロツーネット
  5. 当時はイラストなどに音楽やナレーションなどを加えて、画の持つ魅力やメッセージ性を強調していく表現手法として、また少人数、低予算で製作でき、作者のカラーを出しやすくなることも特徴」と説明された。(なお、同レーベルは数年後にほぼ終息した)
  6. ただしまれに社内でない演出家がシリーズディレクターになった場合などは音響監督を置く。代表的な例は『バビル2世』、『北斗の拳』、『Dr.スランプ アラレちゃん』など。また、国際映画社制作の作品や『ドラゴンボール』シリーズ(『ドラゴンボール超』の第76話まで)など、自社の演出家がシリーズディレクターになっても稀に音響監督を置くことがあった。
  7. クレジット上は東映東京撮影所
  8. テレビ朝日がシンエイ動画とも提携・資本関係を強化したことや、アニメ枠が減少したことも影響した。なお、シンエイ動画は元々東京ムービーの協力企業だったAプロダクションが発祥で、テレビ朝日との関係が深まる以前は東京ムービーを通じてTBSテレビ(現在の東京放送ホールディングスに相当する旧法人が東京ムービーに設立に関与)・日本テレビや、在阪局の朝日放送(現:朝日放送テレビ)毎日放送読売テレビと親密な関係だった。
  9. その間テレビ朝日系では、東映アニメーションとは直接の資本関係を有しない(東映本社とは2000年代以降資本関係を有している)在阪準キー局朝日放送(現:朝日放送テレビ)との作品で全国同時ネット放送を維持していた。上述の経緯から、放送枠上では1970~1980年代初期と2000年代で在京局(NET~テレビ朝日)・在阪局(毎日放送→朝日放送)と制作会社(シンエイ動画/東映アニメーション)との取引関係が実質逆転状態となっていた。
  10. フジテレビ系では2013年現在も全国同時ネットは途絶えているが、『ONE PEICE』は個別スポンサードネット・番組販売扱いを組み合わせる形で遅れネットも含め全国で放送している(系列局所在地でも大分県のみ、編成上の都合で同地域の系列外局に放映権を移譲)。
  11. 「円環のパンデミカ」 東映アニメがゲームに乗り出した理由を訊く
  12. 東映の連結子会社、テレビ朝日の親会社であるテレビ朝日ホールディングス持分法適用会社である。

出典

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関連項目

外部リンク

  • 公式サイト
  • 公式YouTubeチャンネル
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