松田直樹

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{{#invoke:Infobox3cols|infobox}} 松田 直樹(まつだ なおき、1977年3月14日 - 2011年8月4日)は、群馬県桐生市出身のサッカー選手元日本代表ポジションディフェンダー

2002 FIFAワールドカップに出場。

来歴

小学1年の時、兄の影響でサッカーを始める。天沼小学校の天沼FCに小学3年生から始める既定のところを特例で入団した。当時できたリフティングは最高で16回。他にも野球・バドミントン・水泳・ラグビーと様々なスポーツに挑戦するが、負けず嫌いの性格からどうしても一番になれないサッカーに夢中になっていった[1]

中学・高校時代

桐生市立相生中学校まではFWの選手だった。当時U-15日本代表の監督であった小嶺忠敏が山田耕介(当時前橋育英高等学校監督)にいいDFがいないかを相談した際に、当時中学三年生でFWであった松田のDFとしての資質を推薦したのをきっかけに、その後のDF人生がスタートした。

U-15日本代表のメンバーに選出され、小嶺忠敏監督のもとでDFとして指導を受け、そのまま前橋育英高等学校へ進学。山田耕介監督の元で指導を受けた。その後、山田耕介監督が選手時に使用していた背番号「14」を与えられるようになった。U-17世界選手権(現U-17ワールドカップ)のメンバーに選出。その後U-19代表に選出、ほとんどが19歳の選手の中で松田は17歳で出場。Jリーグデビュー後もワールドユース代表に選出された。当時松田には「超高校級」の触れ込みがあり、当時のJの全12クラブのうち10クラブからオファーがあり、争奪戦となった。結果横浜マリノス(現横浜F・マリノス)に加入する。

オリンピック・ワールドカップ

U-16日本代表に招集されて以来、各世代の日本代表に選出された。

1996年アトランタオリンピックではマイアミの奇跡を経験。19歳4カ月でのオリンピックは、当時日本サッカー史上最年少五輪出場だった[2]2000年シドニーオリンピックの代表にも選出され、年齢制限のあるサッカーのオリンピック日本代表としては、中田英寿と共に数少ない2大会連続出場選手である。アトランタ五輪ではブラジル戦でサビオやロナウドのマークを担当するなどレギュラーのストッパーとして出場したが、シドニー五輪ではアジア予選には1度も召集されず、本大会にはメンバー入りしたものの控え要員であり、グループリーグ第3戦でレギュラーの中田浩二が負傷した事で本来とは違う左ストッパーとして2試合に出場しただけにとどまった。

トルシエジャパン時代

フラット3と呼ばれる3バックの一角としてプレイ。五輪チーム立ち上げ初戦のアルゼンチン戦(1998年11月23日)に召集されるも出場はなく、その後シドニー五輪のアジア1次予選にも召集されることはなかった[3]。最終予選前の韓国との壮行試合(1999年9月7日)に10ヶ月ぶりに召集されるが出場機会は与えられず、不満を露にし自ら代表を去った[4]。しかし2000年に入ってカールスバーグカップ(2000年2月)に挑むトルシエから「君にはもう1度チャンスを与える。生かすも殺すも君の自由だが、これが最後のチャンスだと思ってくれ」と再招集を受け[5]川口能活の説得もあり[6]代表に復帰。当初は中央か右の候補だったが、中央は森岡隆三宮本恒靖が重宝されるようになると、右ストッパー要員専門の候補となる。その後同じく右ストッパーの有力候補であった中澤佑二の復調が遅れると、2001年コンフェデレーションズカップ頃からは松田がレギュラーに定着し、2002年日韓W杯でもすべての試合でフル出場を果たした。

フラット3という戦術にこだわり初戦のベルギー戦で同点に追いつかれた際に、合宿場所である葛城北の丸の風呂で選手だけでミーティングをし、松田の「俺らは戦術に縛られすぎている」という発言により、選手の間でのみディフェンスラインを下げることに決めた[7]。その後の2002 FIFAワールドカップではベスト16入りを決めた。

あくまでも故人への敬意からだが、のちにフィリップ・トルシエは「信頼できる強い選手で、2002年のW杯では日本代表のキープレーヤーだった。」と語った[8]

ジーコジャパン時代

2003~2005年日本代表選出。アジアカップ優勝時まで試合に出場したのは約8分間であり[9]、ほぼ控えに回っていた。アジアカップで優勝したが、貢献できなかった自分を悔やみ優勝メダルをスタッフにあげてしまうほどであった[9]。2006 FIFAワールドカップ・アジア最終予選の初戦北朝鮮戦(2005年2月9日)でレギュラーDFの田中誠が一次予選からの累積2枚目となる警告を受け、出場停止の状況で迎えた第2戦のアウェーのイラン戦(2005年3月25日)で、中田英寿、中村俊輔小野伸二が久しぶりに揃った事もあり、ジーコはCBを減らしMFを増やす4-4-2フォーメーションで臨む。記者から「黄金の中盤の起用は理想を追い過ぎでは?」と問われたジーコは、「イラン戦で4-4-2にしたのは、田中が出場停止だったからだ。それがなければ変えるつもりはなかった」と発言。松田はそれに対し、自分達控えDFが信頼できないのかと不満を露にし[10]、さらに続く第3戦であるバーレーン戦(2005年3月30日)でベンチ外が決まると、スタンドでの観戦が規則であったにも関わらず試合前に無断帰宅。その後謝罪の手紙を送ったが、以降代表招集されることは無かった。

国際Aマッチ通算40試合出場、1得点。

現役時代

1995年、当時のホルヘ・ソラーリ監督に「君は将来井原正巳を追い越す才能を持っている」と評価され[11]、3月28日、Jリーグ開幕戦からスタメンに抜擢される。同年9月30日、名古屋グランパスエイト戦でプロ初ゴールを決めた。ワールドユース出場後に戻ってくると、クラブの急激な世代交代の内乱に飲み込まれサブに回るようになる。ソラリ監督退任後、早野宏史監督体制になってからはレギュラーを外されるようになったが、ステージ最終節に先発に抜擢され、マリノスのステージ優勝に貢献した。当時はまだ背番号が固定制ではなかったため、DFながら「10番」を付けて試合に出場した事がある[12]。この事に対して横浜マリノス(日産)で長らく「10番」を背負い、「10番」に人一倍こだわりを持っている「ミスターマリノス」こと木村和司は、TBSのスーパーサッカー内で「マリノスの10番も軽くなったな」と冗談めかしに発言してる[13]が、あくまでも松田がまだチームを背負うような立場でない新人で、なおかつポジションも「10番」には似合わないDFであるためである。

1997年に右膝半月板損傷、1998年に初手術を受けた。復帰後は再びレギュラーに定着し、1999年 前橋育英高校時代からの背番号「14」から、井原の背番号「4」のひとつ前の「3」を付けるようになる。

2000年、A代表デビュー。シドニーオリンピック出場。スタメン出場し、アジアカップで大会制覇し、初めてのJリーグベストイレブンを受賞した。続けて2001年、コンフェデレーションズカップ準優勝。ナビスコカップ優勝。その後の国際親善試合フランス戦で「サンドニの悲劇」を経験する。

2002年、2002 FIFAワールドカップ日本代表に選出。フラット3として活躍し、大会ベスト16入りに貢献。群馬県桐生市より個人で初の市民栄誉賞を受賞した。[14] また、クラブでは2度目のJリーグベストイレブン受賞。その後、行われた契約交渉でクラブ側との意見の食い違いを見せ当時の左判社長との直接会談を要求し、その後5時間にわたって行われた直接会談が行われたが和解し“永久にマリノスだよ”という言葉を残し、契約更新をする。

2003年、2004年、チームキャプテンに就任し、2年連続でJリーグ連覇、2005年にJリーグ通算250試合出場を達成する。

2006年にはチームキャプテンに再び就任。2007年、オフに骨片が右膝十字靭帯を圧迫し、手術。その後、守備的MFとしてヤマザキナビスコカップ大宮アルディージャ戦で復帰した。この年、再び監督に就任した早野宏史からレギュラーを外されていたが、第16節のガンバ大阪戦でセンターバックとして先発し、39試合連続得点中のG大阪を無失点に抑えた。その後、第18節大分トリニータ戦で、リーグ戦300試合出場を達成。2006年には複数年契約拒否、2007年には約60%の減俸となったが、マリノスへの愛・サポーターからの愛情を大事にしたい一心で契約更新をする[15]

2008年、桑原隆監督の就任後、河合竜二の負傷により、DFから守備的MFに抜擢される。最終ラインを守るチームメイトからは「DFの前にDFがいる」と頼りにされた。6月下旬、小椋祥平に触発され、04年以来となる坊主頭(五厘刈り)を披露[16]。それがチーム内に連鎖し、田中裕介小宮山尊信らが次々と丸刈りにし、選手だけではなくチームスタッフや記者まで頭を丸めた。

また2008年から2010年まで、F・マリノスの選手会長を務めた。2009年、守備的MFとしてもプレーする機会が多く、プレースタイルの幅を広げた。シーズンオフの契約更新では“引退までマリノスでプレーしたい”とコメントしていた[17]

この年、自叙伝『闘争人』を出版。

2010年、慢性的なケガを抱えていた右膝半月板の4度目の手術を行った影響で出遅れ、13節広島戦で後半開始から交代でプレーしたのがシーズン初出場となった。

初先発となった17節のベガルタ仙台戦でゴールを決め、その後はイエローカードの累積による出場停止となった24節仙台戦以外は、最終節34節まで全試合にほぼ先発で起用された。2010年11月27日のG大阪戦後、マリノスから戦力外通告を受けた。1995年から16年にわたってマリノス一筋でプレーし、マリノスが獲得したすべてのタイトルを経験しミスターマリノス[18] と呼ばれた松田だったが、12月4日大宮アルディージャ戦後の退団セレモニーにて「マジでサッカー好きなんすよ。マジでもっとサッカーやりたい。本当にサッカーって最高な所を見せたいのでこれからも続けさせてください。」という言葉を残し、横浜Fマリノスを退団した[19]

2011年、当時JFLの松本山雅FCと契約[20]。背番号は横浜FM時代から引き続き3番をつけた。主にCBとして全15試合に出場、1得点。

生涯最後の公式戦となった7月23日のJFL後期第4節Honda FC戦(長野県松本平広域公園総合球技場)は、Jリーグ含め公式戦通算400試合出場を達成した日であった。

突然の死

同年8月2日9時58分頃、松本市の梓川ふるさと公園にて同チームの練習中に突然倒れ、心肺停止の状態で信州大学医学部附属病院高度救命センターに緊急搬送された[21]。病名は「急性心筋梗塞」と発表[21]人工心肺を付け、途中心拍が微弱ながら戻ったが意識を取り戻すことはなく、8月4日13時6分頃、同病院で34歳で死去[22]

戒名は「照徳嶺樹清居士(しょうとくりょうじゅせいこじ)」。「皆を照らしてくれる人物であり、スポーツが得意」という意味。喪主は松田の母が務めた。

スペインのセビージャでは松田の死を大きく報道し、国営放送TVEではゴールデンタイムのニュース番組で報じた。死去当日に行われたスペイン親善試合アントニオ・プエルタ杯では、スペイン代表のアントニオ・プエルタ、心臓発作で亡くなったエスパニョールの主将ダニ・ハルケと共に松田の写真も掲示された[23]。また国際サッカー連盟会長ゼップ・ブラッターは「日本代表の伝説的なディフェンダー(the legendary defender of the national team of Japan)」と評し、哀悼のメッセージを贈った[24][25]

8月8日の通夜、8月9日の葬儀・告別式には中田英寿中山雅史小野伸二曽ヶ端準安永聡太郎佐藤由紀彦城彰二秋田豊川口能活楢崎正剛前園真聖三都主アレサンドロ、松本山雅所属選手(木島良輔など)、横浜Fマリノス所属選手全員(中村俊輔中澤佑二など)、木村和司フィリップ・トルシエ岡田武史西野朗など多くの関係者やサポーターなどが参列し、故人を悼んだ[26]

松田の死後行われたリーグ戦・国際試合(日韓戦)では、試合の前に松田への黙祷が捧げられ、吉田孝行等J1・J2・JFLの多くの選手たちは自身が決めたゴールを「松田直樹に捧げる」というコメントを残した。

チームが使用したグラウンドにはAEDが設置されていなかったことから、日本サッカー協会は、2012年度よりJリーグだけでなく、JFL等(Fリーグ、なでしこリーグ)に試合や練習におけるAED常備を義務付けることを決め[27]、日本陸上競技連盟 (JAAF) は、松田が急逝した翌週に競技場内で行うトラック・フィールド種目でのAEDの設置の義務付け・操作方法を広めると決定した[28]。また、日本循環器学会AED検討委員会と日本心臓財団が松田直樹の件を取り上げてAEDの設置および配置について具体的な目安を示し[29]、相撲協会でAED講習会が行われるなど[30]、サッカー界だけでなく全国各地でAEDへの関心が広まった。

2011年8月12日、前年まで在籍していた横浜F・マリノスが松田の背番号「3」を永久欠番とすることを発表[31] したことに対し、松本山雅は3番を背負いたい選手が現れるのを待つとして永久欠番にはしなかったが、その後の2014年にマリノス時代にチームメイトだった田中隼磨が背番号「3」を付けることとなった[32]

2011年8月20日、横浜F・マリノスが試合開始前に松田直樹追悼映像を放映。8月26日、松本山雅FCにより松本平広域公園総合球技場アルウィンにて松田直樹壮行会(お別れ会)が行われた。

2011年12月5日、Jリーグ功労選手賞を受賞。

2013年5月17日、サポーター、ファンが選ぶ Jクロニクルベスト ベストイレブンに選出。

人物・エピソード

一男二女の父。「松田直樹」という冠を使うと一番上の子供に肖像権料が渡ることにより[33]、松田の死後「3人の子どもたちの成長を見守り続け出来る限りの支援活動を行うため」を一つの理由として「松田直樹メモリアル」が設立された[34]

トレードマーク(ヘアバンド・3)

日韓W杯を前後して試合中に松田がつけていたヘアバンドが世間で流行する現象が起きた。当時はヘアゴムを大きな輪にしてはめていただけであったが、その後アディダスにより製作されており、背番号3と共に松田を象徴する代名詞[35] と言われた。写真集の初版限定盤にはヘアバンドがつき、死去後設立した一般財団法人松田直樹メモリアルでは、3の入った黒のヘアバンドが販売されている。

サッカー選手として

「俺は負けるのが許せないし、だからこそプロの世界で生きてこられた。」[36] と、自他ともに認める“負けず嫌い”の性格であり、フィリップ・トルシエからは「試合に出さなきゃ殺すというオーラがある」[37] と評価され、Jリーグ時には闘志あふれるプレースタイルで、警告処分や退場処分にされることが多かったが[38]、「本当は冷静なのに相手との駆け引きで熱く見せたりすることもある」「イエローカードも一つの勲章だと思っていた。」と語った[39]

ピッチに立つことに強い思いがある選手であり、シドニー五輪ではトルシエと衝突し無断離脱したことがあるが、その後の2002年ワールドカップの日本代表に招集された[40]。2000年5月13日、東平尾公園博多の森球技場でのアビスパ福岡戦では、負けている福岡の選手がこれ以上の失点を防ぐために守りに入っていることに対し本気で激高し、ピッチ上でボールに座り、福岡の選手たちを手招きしながらののしった。試合後のインタビューでは「あいつらはプロじゃない。必死に戦ってくれているサポーターの気持ちが分からないのかな」と涙ながらに発言し[41]、2003年ナビスコ杯ジュビロ磐田戦では、西野泰正と接触プレー後西野のプレーに憤激して主審に向かい言い放った「やるよ、やっちゃうよ」はピッチ外マイクに拾われてテレビに流れ、以後、松田を象徴する名文句となった[42]

気合を入れるためにチームメイトに殴ってもらうことがあり、2004年CS(対戦相手は浦和)の試合前には栗原勇蔵に殴らせて気を失いかけた[43]。負傷で離脱している選手や退団が決まった選手の名前をアンダーシャツに書いて着用するなど[44]、仲間に対する想いも強かった。また 同世代の経験の豊かな選手が次々と戦力外として外されていくことに危惧しており、「若返り」と「身の丈経営」を理由にベテラン選手が解雇されていくJリーグの現状を危惧する発言を、自身が戦力外を通告される前から度々していた[45]

サポーターやクラブへの愛が強く、横浜FM時代にはミスターマリノス[18]と呼ばれるほど親しまれた。2007年のレギュラーから外されていた時期の練習中には、サポーターによって松田の名前が入った横断幕が常に掲げられていた。その年のリーグ戦初出場となったガンバ大阪戦では松田のコールが響き渡った[46]。のちに、松田は「あの時の横断幕は俺を奮い立たせてくれた」と語っている[47]松本山雅ではサポーターの多さと、サポーターとの距離が近いスタジアムにまず興味を示し[48]、山雅加入当時にはクラブ・監督・選手・サポーターが一丸となってJ2に上がりJ1へ行くと公言し、シーズン新体制発表の前に松本山雅FCのスタッフやチームメイトと共に松本市内の神社を訪れ、J2への「昇格」を祈願した[49]

選手・サポーターへの影響力

  • 松田の戦力外の報道がされると、その日の内にクラブハウスにサポーターが大勢押し寄せ、戦力外を直接伝えたと言われる下條佳明統括本部長に撤回を求め詰め寄った[50]。ファン・サポーターによって集められた再契約に関する嘆願書の署名数は数日で2万通を超えた。2010年12月4日の最終節後のセレモニーでは嘉悦朗球団社長と木村和司監督の挨拶はサポーターの松田のチャントでかき消され[18]、セレモニー後のスタジアムには数千人のサポーターが6時間以上座りこんだ。
  • 2011年12月4日、横浜FMの最終戦からちょうど1年後、松田の4か月目の月命日に松本山雅はホンダロックSC相手に2-0とJ2昇格を決定する勝利を納めた。試合後、選手たちは松田が着ていたユニフォームやフラッグと共に喜び、サポーターは松田の死後封印していた松田直樹のチャントを歌った[51]
  • 生前、「練習試合でもいいからマリノスと戦いたい」[52]。と発言していたが、2011年12月17日、松田が所属していた横浜FMと松本山雅FCが天皇杯4回戦で対戦した(4-0)。ウォーミングアップに入ると、松本山雅の選手全員が松田の背番号「3」入りの練習着を身にまとった[53]。試合後には横浜F・マリノスの選手全員が松本山雅のサポーターの元に足を運んで深々と一礼し、山雅のサポーターからは「Fマリノス」と大きくコールを受けた[54]
  • 親友である安永聡太郎佐藤由紀彦は「一般財団法人松田直樹メモリアル」を設立し、2012年1月22日に横浜国際総合競技場にて松田直樹メモリアルゲームが開催された。4万人を超える観客と松田直樹と親交の深い多くのサッカー関係者・音楽関係者が国内外から集まった[55]。また、この日のために5年ぶりにブラジルから来日した横浜FM時代の同僚のドゥトラは、2か月後、横浜F・マリノスに復帰することとなった。
  • 生前、親友の佐藤由紀彦の妻のまだ微妙な大きさのお腹に松田はいち早く気づいていた。その半年後(松田の死後)に産まれた佐藤由紀彦の四男は、松田直樹から一字とり[56]、由紀彦の“紀”と組み合わせて“直紀”と名づけられた。
  • 横浜FMの試合では松田の顔が描かれた横断幕が掲げられており、日産スタジアムの試合では3ゲートに掲げられている。日韓W杯で代表を共にした柳沢敦は、ベガルタ仙台移籍後初ゴールを決めたマリノス戦でのインタビューで「(松田の)横断幕を見ながらプレーした。また新しい思い出がつくれた。」と語っている[57]
  • 横浜FM・松本山雅でチームメイトだった木島良輔は、松田の死後の直後の8月7日のJFL後期第6節の対SAGAWA・SHIGA・FC戦にて途中出場した際、松田の3のヘアバンドと自身のユニフォームの下に松田のユニフォームを着こみ試合に臨んだ[58]。以降、試合に出場する際は必ず3のヘアバンドをつけている。
  • 横浜FMへ背番号3の永久欠番を提案した中村俊輔は、2013年12月10日に「2013Jリーグアウォーズ」最優秀選手賞を受賞し「彼の存在なしに今の私はいないと思っています。」というコメントを残した[59]
  • 全く同じ生年月日で 松田と深い交友のあった吉田孝行は、“いつも一緒に戦っていた”と語り、松田の死後の2011年8月6日に2ゴールを決め、その直後喪章と共に右手で3を作り天に示した[60]。また自身の引退である2013年11月24日には1ゴールを決め、その直後に松田直樹メモリアルが製作した3のヘアーバンドを取り出して頭につけている[61]
  • 松本山雅で3の背番号を引き継いだ田中隼磨は、2014年11月1日にJ1への自動昇格を決めた直後、ユニフォームを脱ぎ号泣しながらピッチへ膝をついた。名古屋グランパス所属時代から毎試合着用しているアンダーシャツ[62] には“ありがとう松田直樹3”と書かれており、試合後には、5月に松田と同じ右膝半月板を損傷しながらも試合に出続けていたことを発表した。その理由について「マツさんの遺志を受け継いだチームをJ1へ昇格させることにサッカー人生を懸けていた。」と語った[63]
  • 横浜FM時代チームメイトだった永井秀樹からは「自分が一緒にプレーした中で間違いなく最高のDF」と評され、2017年の松田の命日に自身の引退試合にJ LEGENDSの一員として発表。8月14日の引退試合では、松田の長男が背番号3のユニフォームを着てプレー。永井は試合後に「本当にDFの中で一番好き。今でも最高の選手だと思う。引退試合のお話をいただいてユニホームを発注する時、一番最初に書いたのが背番号3、松田直樹でした」と明かし、松田の長男のプレーについては「恥ずかしがってピッチに立たないのかなと思ったんですけど、堂々とやれた。少なからず直樹のDNAだなと思いました」と語った[64]

所属クラブ

個人成績

テンプレート:サッカー選手国内成績表 top テンプレート:サッカー選手国内成績表 th |- |1995||rowspan="4"|横浜M||rowspan="2"|-||rowspan="4"|J||33||1||colspan="2"|-||1||0||34||1 |- |1996||16||0||11||2||1||0||28||2 |- |1997||rowspan="2"|14||31||2||6||0||2||0||39||2 |- |1998||12||0||4||1||1||0||17||1 |- |1999||rowspan="12"|横浜FM||rowspan="13"|3||rowspan="12"|J1||27||0||2||0||3||0||32||0 |- |2000||24||2||3||0||2||1||29||3 |- |2001||29||0||9||0||1||0||39||0 |- |2002||25||2||0||0||1||0||26||2 |- |2003||20||0||5||0||0||0||25||0 |- |2004||24||1||4||0||1||0||29||1 |- |2005||27||1||4||1||1||0||32||2 |- |2006||29||4||9||3||0||0||38||7 |- |2007||8||1||5||0||2||0||15||1 |- |2008||30||1||7||0||3||0||40||1 |- |2009||31||1||10||2||3||0||44||3 |- |2010||19||1||3||0||3||0||25||1 |- |2011||松本||JFL||15||1||colspan="2"|-||colspan="2"|-||15||1 テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算始385||17||82||9||25||1||492||27 テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算行15||1||colspan="2"|-||colspan="2"|-||15||1 テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算終400||18||82||9||25||1||507||28 |} その他の公式戦

国際大会個人成績
年度 クラブ 背番号 出場 得点
AFCACL
2004 横浜FM 3 4 0
2005 4 0
通算 AFC 8 0

その他の国際公式戦

代表歴

出場大会など

試合数

  • 国際Aマッチ 40試合 1得点(2000-2005)[65]


日本代表国際Aマッチ
出場得点
2000 14 0
2001 10 0
2002 12 0
2003 0 0
2004 3 0
2005 1 1
通算 40 1

ゴール

# 開催年月日 開催地 対戦国 勝敗 試合概要
1. 2005年1月29日 日本、横浜市 テンプレート:KAZf ○4-0 キリンチャレンジカップ

個人賞

関連情報

関連書籍

  • 松田直樹写真集(広報社)2002年、ISBN 978-4-906654-10-9
  • 闘争人―松田直樹物語(三栄書房/二宮敏朗)2009年、ISBN 978-4-7796-0609-0
  • フットボール・ラブ(集英社/小宮良之)2011年、ISBN 978-4-08-780636-6
  • 松本山雅劇場 松田直樹がいたシーズン (株式会社カンゼン/宇都宮徹壱)2012年、ISBN 978-4-86255-124-5
  • 楽しむことは楽じゃない プロサッカー選手に見る、生き残り術 (河出書房/寺野典子)2012年、ISBN 978-4-309-27366-2
  • 松田直樹を忘れない。〜闘争人II 永遠の章〜(三栄書房/二宮敏朗)2013年、ISBN 978-4-7796-1753-9
  • グロリアス・デイズ(集英社/小宮良之)2013年、ISBN 978-4-08-780708-0

松田直樹メモリアル

一般社団法人 松田直樹メモリアル
団体種類 一般社団法人
設立 2011年10月
主要人物 安永聡太郎 (代表理事)
佐藤由紀彦 (理事)
越後有希 (理事)
活動地域 日本の旗 日本
活動内容 松田の功績を後世に伝えるとともにサッカーの普及の活動、
AEDと心肺蘇生の一般普及の活動
ウェブサイト http://www.matsu3.jp/
テンプレートを表示

一般社団法人 松田直樹メモリアルは、松田と親友であった安永聡太郎佐藤由紀彦が中心となって設立させた一般社団法人である。

メモリアルゲーム

脚注

  1. 闘争人―松田直樹物語(三栄書房/二宮敏朗)2009年、32頁
  2. “平山相太、日本サッカー史上最年少の五輪出場”. サンケイスポーツ. (2004年7月17日). http://www.sanspo.com/athens2004/football/news/st2004071702.html 
  3. トルシエ革命(フィリップ・トルシエ/田村修一著)新潮社2001年、57頁
  4. トルシエ革命(フィリップ・トルシエ/田村修一著)新潮社2001年、57~58頁、206頁
  5. トルシエ革命(フィリップ・トルシエ/田村修一著)新潮社2001年、206頁トルシエの発言は掲載原文のまま
  6. 川口能活と松田直樹の晩餐 あの夜、僕はトルシエのためにマツを説得した
  7. 早すぎる別れ。偉大なDF松田直樹に捧ぐ」”. Reuters (2011年8月5日). . 2014閲覧.
  8. サッカー=松田選手死去、トルシエ氏「34歳の死は悲劇」”. Reuters (2011年8月4日). . 2014閲覧.
  9. 9.0 9.1 闘争人―松田直樹物語(三栄書房/二宮敏朗)2009年、160頁
  10. 青の群像 サッカー日本代表クロニクル1992~2007(戸塚啓著)ソニーマガジンズ2007年、216頁 ジーコの発言は掲載原文のまま
  11. 闘争人―松田直樹物語(三栄書房/二宮敏朗)2009年、60頁
  12. 横浜F・マリノスの10番を背負ってきた名選手5人 木村、中村、山瀬、小野、松田
  13. クラブを彩ってきた象徴的な番号の足跡 横浜FMの背番号にまつわるストーリー
  14. 復刻】松田に市民栄誉賞、個人では初、スポーツニッポン 2015年8月8日閲覧
  15. 闘争人―松田直樹物語(三栄書房/二宮敏朗)2009年、199頁
  16. “DF松田が決意の”五厘刈り””. カナロコ 神奈川新聞社 (2008年6月24日). . 2014閲覧.
  17. 横浜松田、契約保留も「生涯マリノス」、日刊スポーツ(2009年12月8日)
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関連項目

外部リンク


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