栗林忠道

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栗林 忠道(くりばやし ただみち、1891年明治24年〉7月7日 ‐ 1945年昭和20年〉3月26日[1][注釈 1])は日本陸軍軍人陸士26期・陸大35期次席。最終階級陸軍大将位階勲等従四位勲一等旭日大綬章[注釈 2]長野県埴科郡西条村(現:長野市松代町)出身。

第二次世界大戦太平洋戦争/大東亜戦争)末期の硫黄島の戦いにおける、日本軍守備隊の最高指揮官(小笠原兵団長。小笠原方面陸海軍最高指揮官)として知られる。

経歴

戦国時代以来の旧松代藩郷士の家に生まれる。1911年(明治44年)、長野県立長野中学校を卒業(第11期)。在学中は文才に秀で、校友誌には美文が残されている。当初ジャーナリストを志し東亜同文書院を受験し合格していたが、恩師の薦めもあり1912年大正元年)12月1日に陸軍士官学校へ入校。陸軍将校の主流である陸軍幼年学校出身(陸幼組)ではなく、中学校出身(中学組)であった。長野中学の4期後輩に今井武夫陸軍少将がいる。陸士同期に、のちの硫黄島の戦いで混成第二旅団長に指名して呼び寄せた“歩兵戦の神”の異名をもつ千田貞季が、その他に田中隆吉影佐禎昭らがいた。

1914年(大正3年)5月28日、陸士卒業(第26期、兵科騎兵、席次:125番)、騎兵第15連隊附となり、同年12月25日に陸軍騎兵少尉任官。1917年(大正6年)10月から1918年(大正7年)7月まで陸軍騎兵学校乙種学生となり[4]、馬術を専修[5]1918年(大正7年)7月に陸軍騎兵中尉1920年(大正9年)12月7日、陸軍大学校へ入校。1923年(大正12年)8月、陸軍騎兵大尉。同年11月29日に陸大を卒業(第35期)、成績優等(次席)により恩賜の軍刀を拝受[6]。同年12月、栗林義井(よしゐ[7])と結婚[注釈 3]。太郎・洋子・たか子の一男二女を儲ける。孫に衆議院議員新藤義孝がいる(たか子の子)[8]

北米駐在・騎兵畑

騎兵第15連隊中隊長、騎兵監部員を経て1927年昭和2年)、アメリカ駐在武官在米大使館附)として駐在、帰国後の1930年(昭和5年)3月に陸軍騎兵少佐に進級、4月には陸軍省軍務局課員。1931年(昭和6年)8月、再度北米カナダに駐在武官(在加公使館附)として駐在した。フランスドイツ志向の多い当時の陸軍内では少数派であった「知米派」であり、国際事情にも明るくのちの対米開戦にも批判的であった。

1933年(昭和8年)8月、陸軍騎兵中佐、同年12月30日に陸軍省軍務局馬政課高級課員となりさらに1936年(昭和11年)8月1日には騎兵第7連隊長に就任する。1937年(昭和12年)8月2日、陸軍騎兵大佐に進級し陸軍省兵務局馬政課長。馬政課長当時の1938年(昭和13年)には軍歌愛馬進軍歌』の選定に携わっている。1940年(昭和15年)3月9日、陸軍少将に進級し騎兵第2旅団長、同年12月2日、騎兵第1旅団長に就任。

太平洋戦争(大東亜戦争)

太平洋戦争(大東亜戦争)開戦目前の1941年(昭和16年)9月、第23軍参謀長に就任。第23軍は緒戦の南方作戦においてイギリス香港を攻略することを任務としており、12月8日の開戦後、香港の戦いにおいて18日間でイギリス軍を撃破して香港を制圧した。

1943年(昭和18年)6月、陸軍中将に進級し、第23軍参謀長から留守近衛第2師団[注釈 4]に転じる[5]1944年(昭和19年)4月、留守近衛第2師団長から東部軍司令部附に転じる[5][注釈 5]。栗林が東部軍司令部附となったのは、厨房から失火を出した責によるとされる[5]秦郁彦は、厨房から火事を出した程度で留守師団長を更迭されるとは考えにくい、第109師団長に親補する前提での人事であろう、という旨を述べている[5]

硫黄島の戦い

ファイル:Pre-invasion bombardment of Iwo Jima.jpg
硫黄島での戦闘(1945年2月17日)

1944年(昭和19年)5月27日[3]、小笠原方面の防衛のために新たに編成された第109師団長に親補された[5]。6月8日、栗林は硫黄島に着任し、以後、1945年(昭和20年)3月に戦死するまで硫黄島から一度も出なかった[5]。同年7月1日には大本営直轄部隊として編成された小笠原兵団長も兼任、海軍部隊も指揮下におき「小笠原方面陸海軍最高指揮官」となる(硫黄島の戦い#小笠原兵団の編成と編制)。兵団司令部を設備の整った従来の父島から、アメリカ軍上陸後には最前線になると考えられた硫黄島に移し、同島守備の指揮を執る。敵上陸軍の撃退は不可能と考えていた栗林は、堅牢な地下陣地を構築しての長期間の持久戦・遊撃戦(ゲリラ)を計画・着手する。水際陣地構築および同島の千鳥飛行場確保に固執する海軍の強硬な反対を最後まで抑え、またアメリカ軍爆撃機空襲にも耐え、上陸直前までに全長18kmにわたる坑道および地下陣地を建設した。その一方で隷下将兵に対しては陣地撤退・万歳突撃自決を強く戒め、全将兵に配布した『敢闘ノ誓』や『膽兵ノ戦闘心得』に代表されるように、あくまで陣地防御やゲリラ戦をもっての長期抵抗を徹底させた(硫黄島の戦い#防衛戦術)。また、島民はアメリカ軍上陸以前に本土や父島に避難(強制疎開)させた。

1945年(昭和20年)2月16日、アメリカ軍艦艇・航空機は硫黄島に対し猛烈な上陸準備砲爆撃を行い、同月19日9時、海兵隊第1波が上陸を開始(硫黄島の戦い#アメリカ軍の上陸)。上陸準備砲爆撃時に栗林の命令を無視し、応戦砲撃を行った(日本)海軍の海岸砲により擂鉢山火砲陣地が露呈し全滅するなど誤算もあったものの、十分にアメリカ軍上陸部隊を内陸部に引き込んだ日本軍守備隊は10時過ぎに一斉攻撃を開始する。上陸部隊指揮官のホーランド・スミス海兵隊中将は[5]、その夜、前線部隊からの報告によって硫黄島守備隊が無謀な突撃をまったく行なわないことを知って驚き、取材の記者たちに「誰かは知らんがこの戦いを指揮している日本の将軍は頭の切れるやつ(one smart bastard)だ」と語った[12]

その後も圧倒的な劣勢の中、アメリカ軍の予想を遥かに上回り粘り強く戦闘を続け多大な損害をアメリカに与えたものの、3月7日、栗林は最後の戦訓電報となる「膽参電第三五一号」を大本営陸軍部、および栗林の陸大在校時の兵学教官であり、騎兵科の先輩でもある侍従武官長蓮沼蕃大将に打電。さらに組織的戦闘の最末期となった16日16時には、玉砕を意味する訣別電報を大本営に対し打電(硫黄島の戦い#組織的戦闘の終結#訣別の電文)。

翌17日付で戦死と認定され[4][注釈 6]、特旨により陸軍大将に親任された[2]陸軍大臣杉山元元帥は、内閣総理大臣小磯國昭に送付した文書に次のように記している[5]

第百九師団長として硫黄島に在りて作戦指導に任じ其の功績特に顕著なる処、三月十七日遂に戦死せる者に有之候条、同日付発令相成度候 — 杉山元。出典では漢字カナ表記、[5]

太平洋戦争(大東亜戦争)において中将の戦死者が増加したため、中将で戦死した者のうち、親補職軍事参議官[10]。陸軍では、陸軍三長官陸軍航空総監師団長以上の軍隊の長、侍従武官長など[10]。海軍では、海軍大臣軍令部総長、艦隊司令長官、鎮守府司令長官など[10]。)2年半以上を経ており、武功が特に顕著な者を陸海軍協議の上で大将に親任するという内規が作られ、この内規により、陸軍で7名(栗林を含む)[13]、海軍で5名が戦死後に大将に親任された[14]

昭和19年5月27日に第109師団長に親補され、昭和20年3月17日に戦死と認定された栗林は、上記の内規の年限を満たさなかったが、特旨により大将に親任された[14]

同日、最後の総攻撃を企図した栗林は残存部隊に対し以下の命令を発した。

  • 一、戦局ハ最後ノ関頭ニ直面セリ
  • 二、兵団ハ本十七日夜、総攻撃ヲ決行シ敵ヲ撃摧セントス
  • 三、各部隊ハ本夜正子ヲ期シ各方面ノ敵ヲ攻撃、最後ノ一兵トナルモ飽ク迄決死敢闘スベシ 大君{注:3語不明}テ顧ミルヲ許サズ
  • 四、予ハ常ニ諸子ノ先頭ニ在リ

17日以降、栗林は米軍の警戒が緩むのを辛抱強く待った[5]。米軍の警戒に隙が出た26日未明、栗林は階級章を外し、白襷を肩にかけ、抜刀して残存将兵400名の先頭に立ち、米軍が占領している第1・第2飛行場に突入した[5]。栗林は進撃中に右大腿部に重傷を負い、その場で自決したとされる[5][注釈 7]。満53歳没。

戦後

死後、日米の戦史研究者などからは高い評価を得ていたが、硫黄島の戦いを除くと参謀長や騎兵旅団長など軍人としては目立ったエピソードも少なく、局地戦で戦死した指揮官ということもあり、日本でも一般的な知名度は高くなかったが、2005年平成17年)に上梓された梯久美子散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道』、翌2006年(平成18年)に公開されたハリウッド映画硫黄島からの手紙』により、一躍その名が知られるようになった。

秦郁彦は下記のように述べている。

『散るぞ悲しき』(梯久美子著)がベストセラーになり、映画『硫黄島からの手紙』もヒットして、栗林忠道の名は日本中に知れわたりました。「太平洋戦争最高の名将」という地位をほぼ確立したんじゃないですか。 — 秦郁彦[5]

栗林は幼少の頃、一時的に養子に出ていたことがあり、養子に出ていた当時の記録は長らくの間不明であったが、近年、生家から少年時代の日記帳や成績表などが発見され、生後まもなく地元の士族・倉田家へ養子に出ていた時期など、これまで知られていなかった少年期の詳細が明らかになった。

墓所は長野市松代明徳寺だが、遺骨はない。栗林の長兄が継いだ長野市松代の生家では、仏壇に硫黄島の石、および、栗林が陣頭指揮・戦死した3月26日未明の最後の総攻撃に参加し、生還を果たした陸軍下士官が、復員から間もない1946年(昭和21年)に栗林の妻の義井に送った手紙(最後の総攻撃の様子を詳細に記す)を供えていた[7]1967年(昭和42年)、勲一等に叙せられ旭日大綬章を受勲。

アメリカ軍関係者の評価

アメリカ合衆国においては、硫黄島の戦いの報道がリアルタイムでなされていたこともあり、この戦闘の状況と栗林の知名度は高い。特に戦後、軍事史研究家やアメリカ軍軍人に対し、「太平洋戦争における日本軍人で優秀な指揮官は誰であるか」と質問した際「栗林将軍(: General Kuribayashi)」と、栗林忠道の名前を挙げる人物が多い。

戦闘自体は敗北に終わったものの、僅か22km2(東京都北区程度の面積)に過ぎない硫黄島を、日本軍の3倍以上の兵力、および絶対的な制海権制空権を持ち、予備兵力・物量・兵站・装備全てにおいて、圧倒的に優勢であったアメリカ軍の攻撃に対し、最後まで将兵や兵士の士気を低下させずに、アメリカ軍の予想を上回る1ヶ月半も硫黄島を防衛した指揮力は、アメリカ合衆国では高く評価されている。

従来、日本軍の島嶼防衛における「水際作戦」という方針を退け、長大かつ堅牢な地下陣地を構築したうえで、不用意なバンザイ突撃による玉砕を厳禁し、部下に徹底抗戦を指示した。その結果、アメリカ軍の死傷者総数が、日本軍守備隊のそれを上回るという成果を上げ、またM4 シャーマン中戦車LVT等を多数撃破・擱坐させるといった「物的損害を与えること」にも成功し、のちにアメリカ軍元帥をして「勝者なき戦い」と評価せしめた。

訣別の電文

 戦局最後ノ関頭ニ直面セリ 敵来攻以来 麾下将兵ノ敢闘ハ真ニ鬼神ヲ哭シムルモノアリ 特ニ想像ヲ越エタル量的優勢ヲ以テスル陸海空ヨリノ攻撃ニ対シ 宛然徒手空拳ヲ以テ 克ク健闘ヲ続ケタルハ 小職自ラ聊(いささ)カ悦ビトスル所ナリ

  然レドモ 飽クナキ敵ノ猛攻ニ相次デ斃レ 為ニ御期待ニ反シ 此ノ要地ヲ敵手ニ委ヌル外ナキニ至リシハ 小職ノ誠ニ恐懼ニ堪ヘザル所ニシテ幾重ニモ御詫申上グ 今ヤ弾丸尽キ水涸レ 全員反撃シ 最後ノ敢闘ヲ行ハントスルニ方(あた)リ 熟々(つらつら)皇恩ヲ思ヒ 粉骨砕身モ亦悔イズ 特ニ本島ヲ奪還セザル限リ 皇土永遠ニ安カラザルニ思ヒ至リ 縦ヒ魂魄トナルモ 誓ツテ皇軍ノ捲土重来ノ魁タランコトヲ期ス 茲(ここ)ニ最後ノ関頭ニ立チ 重ネテ衷情ヲ披瀝スルト共ニ 只管(ひたすら)皇国ノ必勝ト安泰トヲ祈念シツツ 永ヘニ御別レ申シ上グ
  尚父島母島等ニ就テハ 同地麾下将兵 如何ナル敵ノ攻撃ヲモ 断固破摧シ得ルヲ確信スルモ 何卒宜シク申上グ
終リニ左記〔注:原文は縦書き〕駄作御笑覧ニ供ス 何卒玉斧ヲ乞フ

  • 国の為 重き努を 果し得で 矢弾尽き果て 散るぞ悲しき[注釈 8]
  • 仇討たで 野辺には朽ちじ 吾は又 七度生れて 矛を執らむぞ
  • 醜草(しこぐさ)の 島に蔓る 其の時の 皇国の行手 一途に思う


    太字は大本営により添削された箇所

新聞に掲載された電文

戦局遂に最後の関頭に直面せり
 十七日夜半を期し小官自ら陣頭に立ち、皇国の必勝と安泰とを祈念しつ、全員壮烈なる総攻撃を敢行す

 敵来攻以来想像に余る物量的優勢を以て陸海空よりする敵の攻撃に対し克く健闘を続けた事は小職の聊か自ら悦びとする所にして部下将兵の勇戦は真に鬼神をも哭かしむるものあり

 然れども執拗なる敵の猛攻に将兵相次いで斃れ為に御期待に反し、この要地を敵手に委ねるのやむなきに至れるは誠に恐懼に堪へず、幾重にも御詫び申し上ぐ
 特に本島を奪還せざる限り皇土永遠に安からざるを思ひ、たとひ魂魄となるも誓つて皇軍の捲土重来の魁たらんことを期す、今や弾尽き水涸れ戦い残れる者全員いよく最後の敢闘を行はんとするに方り熟々皇恩の忝さを思ひ粉骨砕身亦悔ゆる所にあらず
 茲に将兵一同と共に謹んで聖寿の万歳を奉唱しつつ永へ御別れ申上ぐ

 終りに左記駄作、御笑覧に供す。


  • 国の為重きつとめを果たし得で 矢弾尽き果て散るぞ口惜し
  • 仇討たで 野辺には朽ちじ 吾は又 七度生れて 矛を執らむぞ
  • 醜草(しこぐさ)の 島に蔓る 其の時の 皇国の行手 一途に思ふ


大本営発表により、新聞に掲載された原文のまま。下線は大本営により、新たに加筆された所

逸話

  • 陸大次席の秀才であり、「太平洋戦争屈指の名将[5]」と讃えられる優れた軍人であったが、同時に良き家庭人でもあり、北米駐在時代や硫黄島着任以降には、まめに家族に手紙を書き送っている。アメリカから書かれたものは、最初の子どもである長男・太郎が幼かったため、栗林直筆のイラストを入れた絵手紙になっている。硫黄島から次女(「たこちゃん」と呼んでいた)に送った手紙では、軍人らしさが薄く一人の父親としての面が強く出た内容になっている。硫黄島着任直後に送った手紙には次のようなものがある。実際の手紙は、防衛省に保管されている。
「お父さんは、お家に帰って、お母さんとたこちゃんを連れて町を歩いている夢などを時々見ますが、それはなかなか出来ない事です。たこちゃん。お父さんはたこちゃんが大きくなって、お母さんの力になれる人になることばかりを思っています。からだを丈夫にし、勉強もし、お母さんの言いつけをよく守り、お父さんに安心させるようにして下さい。戦地のお父さんより」
  • 妻宛てには、留守宅の心配や生活の注意などが事細かに記され、几帳面で情愛深い人柄が偲ばれる。これらの手紙はのちにまとめられて、アメリカ時代のものは『「玉砕総指揮官」の絵手紙』(小学館文庫、2002年)、硫黄島からのものは『栗林忠道 硫黄島からの手紙』(文藝春秋2006年)として刊行されている。なお、留守宅は東京大空襲アメリカ軍による日本本土空襲)で焼失したが、家族は長野県疎開しており難を免れている。
  • 弟の栗林熊尾が兄の後を追って、長野中学から陸軍士官学校へ進学したいと言い出したとき、栗林は陸軍では陸軍幼年学校出身者が優遇され、中学出身者は陸軍大学校を出ても主流にはなれないからと、幼年学校が存在しない海軍兵学校へ行くように薦めている。熊尾は海軍兵学校受験に失敗し、陸軍士官学校に入校したが(第30期)[注釈 9]、卒業後に肺結核で夭折、栗林は弟の死を嘆いた。
  • もともと新聞記者志望ということもあり、文才のある軍人としても知られていた。陸軍省兵務局馬政課長として軍歌『愛馬進軍歌』の選定に携わった際は、歌詞の一節に手を入れたという[5]
  • 自由民主党衆議院議員新藤義孝は、栗林の(次女・たか子の子供)に当たる。2015年(平成27年)4月30日安倍晋三首相アメリカ合衆国議会合同会議の演説の場で、硫黄島の戦い米海兵隊大尉として参加したローレンス・スノーデン海兵隊中将と握手した[17]
  • 2012年(平成24年)4月、栗林の墓がある長野市松代町豊栄の明徳寺に、長野の市民団体が中心となり、長野中学出身の栗林忠道陸軍大将と今井武夫陸軍少将の顕彰碑が建立された。

年譜

  • 1911年(明治44年)
    • 3月 - 長野県立長野中学校卒業(第11期)
  • 1914年(大正3年) - 陸軍士官学校卒業(第26期)、見習士官
    • 12月 - 陸軍騎兵少尉任官
  • 1918年(大正7年)
    • 7月 - 陸軍騎兵学校乙種学生卒業、陸軍騎兵中尉
  • 1923年(大正12年)
    • 8月 - 陸軍騎兵大尉
    • 11月 - 陸軍大学校卒業(第35期、次席)恩賜の軍刀を拝受
    • 12月 - 騎兵第15連隊中隊長
  • 1925年(大正14年)
    • 5月 - 騎兵監部員
  • 1927年(昭和2年) - 在米大使館駐在武官補佐官。軍事研究のためハーバード大学に学ぶ
  • 1930年(昭和5年)
    • 3月 - 陸軍騎兵少佐
    • 4月 - 陸軍省軍務局課員
  • 1931年(昭和6年)
  • 1933年(昭和8年)
    • 8月 - 陸軍騎兵中佐
    • 12月 - 陸軍省軍務局馬政課高級課員
  • 1936年(昭和11年)
    • 8月 - 騎兵第7連隊長
  • 1937年(昭和12年)
  • 8月 - 陸軍騎兵大佐、陸軍省兵務局馬政課長
  • 1938年(昭和13年) - 軍歌『愛馬進軍歌』の選定に携わる
  • 1940年(昭和15年)
    • 3月 - 陸軍少将、騎兵第2旅団長
    • 12月 - 騎兵第1旅団長
  • 1941年(昭和16年)
    • 12月 - 第23軍参謀長として香港の戦いに従軍
  • 1943年(昭和18年)
    • 6月 - 陸軍中将、留守近衛第2師団長
  • 1944年(昭和19年)
    • 4月 - 東部軍司令部附
    • 5月27日 - 第109師団長に親補される
    • 7月1日 - 小笠原兵団長兼任
  • 1945年(昭和20年)
    • 2月16日 - 硫黄島の戦い開戦
    • 3月16日 - 大本営に訣別電報打電
      • 17日 - 戦死と認定される。特旨をもって陸軍大将に親任される
      • 26日 - 日本軍守備隊最後の組織的総攻撃を指揮して戦死したとされる
  • 1967年(昭和42年)
    • 12月23日 - 叙勲一等・授旭日大綬章

著書

  • 『栗林忠道 硫黄島からの手紙』文藝春秋、2006年8月、ISBN 4163683704、文春文庫、2009年8月
  • 『「玉砕総指揮官」の絵手紙』吉田津由子編、小学館、2002年4月、ISBN 4094026762

栗林忠道を演じた人物

脚注

注釈

  1. 栗林は1945年(昭和20年)3月17日付で戦死と認定されたため[2]、3月17日付で陸軍大将に親任され(戦死による)[1]、栗林の後任として立花芳夫中将が3月23日付で第109師団長に親補され[3]、「秦郁彦 編『日本陸海軍総合事典』(第2版)東京大学出版会、2005年」61ページの「第1部 主要陸海軍人の履歴-陸軍-栗林忠道」では栗林の出生および死去年月日を「明24・7・7 - 昭20・3・17」と記載している。一方、栗林の出生および死去年月日を「明治24(1891)7・7生 - 昭和20(1945)3・26没」と記載している「半藤 2013b, 位置No. 3720/4133, 陸軍大将略歴〔昭和期(昭和十六年から二十年までに親任)」は、【凡例】に「本表は秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』記載の「主要陸海軍人の履歴」を底本とし各種文献・史料を参照のうえ、加除、修正して作成している」と記しており、『半藤 2013b』は半藤一利・横山恵一・秦郁彦原剛の4名の共著である。
  2. 栗林は金鵄勲章を受章していない[2]半藤一利は「功一級でもおかしくないのにね」と評している[2]
  3. 栗林忠道の妻である栗林義井は、旧姓も栗林であるが、二人の間に特に血縁関係はない[5]。義井は川中島付近(現・長野市氷鉋[7])の地主の娘[5]
  4. 留守師団とは、内地及び朝鮮を衛戍地とする師団が戦地に動員された際に、動員された師団の衛戍地に、陸軍動員計画令によって設置され、留守・補充業務などを行う師団[9]近衛第2師団スマトラ島方面に動員されていた。師団長親補職であるが[10]、留守師団長は親補職ではない[11]
  5. 1944年(昭和19年)6月に栗林が留守近衛第2師団長から東部軍司令部附に転じた後、同年7月には留守近衛第2師団を母体として近衛第3師団が編成されている。
  6. 昭和20年3月17日付で栗林の戦死が認定されたことにより、父島にいた混成第1旅団長の立花芳夫陸軍少将が、3月23日付で陸軍中将に進級し、栗林の後任として第109師団長に補されている[5]
  7. 大野芳は、栗林がアメリカ軍に降伏しようとして部下に斬殺されたという説を唱えた[15]が、梯久美子はこれを否定している[16]
  8. 新聞発表では、「悲しき」の部分を「口惜し」と改竄の上、発表された。
  9. 長野中学からのもう一人の同期生は今井武夫陸軍少将である。

出典

  1. 1.0 1.1 半藤 2013b, 位置No. 3720/4133, 陸軍大将略歴〔昭和期(昭和十六年から二十年までに親任)
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 半藤 2013a, 位置No. 85/119, 第一章 大将の誕生-ほとんどが金鵄勲章佩用者
  3. 3.0 3.1 秦 2005, 第2部 陸海軍主要職務の歴任者一覧-III 陸軍-9.部隊/師団-A 師団
  4. 4.0 4.1 秦 2005, 第1部 主要陸海軍人の履歴-陸軍-栗林忠道
  5. 5.00 5.01 5.02 5.03 5.04 5.05 5.06 5.07 5.08 5.09 5.10 5.11 5.12 5.13 5.14 5.15 5.16 5.17 5.18 半藤 2013b, 位置No. 2860/3049, 第四章 戦没した将軍たち-栗林忠道 太平洋戦争屈指の名将
  6. 秦 2005, 第3部 陸海軍主要学校卒業生一覧-I 陸軍-1.陸軍大学校卒業生
  7. 7.0 7.1 7.2 梯 2013, 位置No. 407/423, ドキュメント1 栗林忠道 その死の真相-栗林家に保存された一通の手紙
  8. 生い立ち~現在 | 新藤義孝公式ウェブサイト” (日本語). www.shindo.gr.jp. 新藤義孝. 2018年8月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。. 2018閲覧.
  9. 秦 2005, 第5部 陸海軍用語の解説-る-留守師団
  10. 10.0 10.1 10.2 10.3 秦 2005, 第5部 陸海軍用語の解説-し-親補職
  11. 『留守師団長上奏に関する件』 レファレンスコード C01001578700”. アジア歴史資料センター. . 2018閲覧.
  12. Derrick Wright, The Battle for Iwo Jima, Sutton Publishing, 2006. Page 80.
  13. 山口 2005, 第一節 「陸軍大将」誕生の条件
  14. 14.0 14.1 秦 2005, 第5部 陸海軍用語の解説-た-大将
  15. SAPIO』2006年10月25日号、小学館。
  16. 「硫黄島 栗林中将衝撃の最期」『文藝春秋』2007年2月号、文藝春秋。
  17. “新藤前総務相:硫黄島戦参加の元米中将と握手 米議場で”. 毎日新聞. 毎日新聞社. (2015年4月30日). オリジナル2015年5月2日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20150502220120/http://mainichi.jp/select/news/20150430k0000e010140000c.html . 2017閲覧. 

参考文献

関連資料

  • 舩坂弘 『硫黄島――ああ!栗林兵団』 講談社、1968年8月
  • 陸戦史研究普及会編 『陸戦史集15 硫黄島作戦』 原書房、1970年
  • 児島襄 『将軍突撃せり――硫黄島戦記』 文藝春秋、1970年
  • 鳥居民 『小磯内閣の倒壊――3月20日〜4月4日』 草思社、1987年9月、ISBN 4794202865
  • 現代タクティクス研究会 『第二次世界大戦将軍ガイド』 新紀元社、1994年8月、ISBN 4883172341
  • 岡田益吉 『日本陸軍英傑伝――将軍暁に死す』 光人社、1994年8月、ISBN 4769820577、初版1972年刊行
  • R.F.ニューカム 、田中至訳 『硫黄島――太平洋戦争死闘記』 光人社、1996年2月、ISBN 4769821131、原著1965年刊行
  • 橋本衛ほか 『硫黄島決戦』 光人社、2001年8月、ISBN 4769823177
  • 堀江芳孝 『闘魂 硫黄島――小笠原兵団参謀の回想』 光人社、2005年3月、ISBN 4769824491、初版1965年刊行
  • 梯久美子 『散るぞ悲しき――硫黄島総指揮官・栗林忠道』 新潮社、2005年7月、ISBN 4104774014、新潮文庫、2008年8月
  • 田中恒夫ほか 『戦場の名言――指揮官たちの決断』 草思社、2006年6月、ISBN 479421507X
  • 留守晴夫 『常に諸子の先頭に在り――陸軍中將栗林忠道と硫黄島戰』 慧文社、2006年7月、ISBN 4905849489
  • 柘植久慶 『栗林忠道――硫黄島の死闘を指揮した名将』 PHP研究所、2006年12月、ISBN 4569667430
  • 川相昌一 『硫黄島戦記――玉砕の島から生還した一兵士の回想』 光人社、2007年1月、ISBN 4769813287
  • 小室直樹 『硫黄島栗林忠道大将の教訓』 ワック、2007年1月、ISBN 9784898311028
  • 別冊宝島編集部 『栗林忠道硫黄島の戦い』 宝島社文庫、2007年8月
  • 今井貞夫、高橋久志監 『幻の日中和平工作 軍人今井武夫の生涯』 中央公論事業出版、2007年11月、ISBN 9784895142946

関連項目