梅宮辰夫

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梅宮 辰夫(うめみや たつお、1938年3月11日[1] - )は、日本俳優タレント実業家身長174cm、血液型A型[1]。所属事務所は株式会社ピックルズ(東京・赤坂)。娘はモデル・タレントの梅宮アンナ。愛称は「辰兄(にい)」。

東映ニューフェイスとしてデビューし、俳優として映画テレビドラマに出演。その後、飲食事業の経営やバラエティ番組にも進出し、料理の腕前や軽妙なトーク、家庭の様子がたびたび紹介されている。

経歴

生い立ち

会津出身の梅宮の祖父・辰次郎が陸軍士官学校卒業後日露戦争に従軍、その後妻とともに満州奉天に移住、辰次郎は関東軍参謀板垣征四郎とも懇意の仲で、祖父の葬儀では板垣が弔文を読んだという。同地で辰次郎の次男として生まれ、満州医科大学を卒業し医師となった後、満州国ハルビン特別市満鉄病院に勤務していた父・次郎の長男として生まれる。弟と妹それぞれ2人ずつの5人兄弟[2]。一家はその後、次郎の異動により開原市(現中華人民共和国遼寧省)に移住、同地で太平洋戦争終戦を迎え、1946年に他の引揚者らとともに信濃丸博多港に帰国[注釈 1]。帰国から半年後に茨城県水戸市の病院に職を見つけた父とともに一家で移住、茨城大学教育学部附属愛宕中学校では陸上競技をしていた。同窓に自動車評論家の徳大寺有恒がおり、同じく陸上競技をやっていた。同中学校の後輩にはジャーナリストで評論家の立花隆がおり、立花とは後年、テレビ番組の企画で共演している[3]。水戸移転から10年後、近くに親戚のいた品川区戸越銀座へ移住する。戸越銀座移転後、実家は内科小児科を診療科目とする梅宮医院を開業、辰夫は跡継ぎとして期待されていた[4] が、早稲田高等学校を経て、医学部を受験するも不合格となったため、日本大学法学部に入学(後に中退)。

東映ニューフェイス

大学在学中に銀座でスカウトされ、1958年昭和33年)、東映ニューフェイス5期生に合格[5]。同期には八代万智子応蘭芳高島新太郎小嶋一郎滝川潤がいる。東映へ入社し、翌年映画『少年探偵団 敵は原子潜航挺』シリーズで主演デビュー。新人時代は他に『遊星王子』等子供向けヒーロー映画に主演していた[5]。東映が全力で売り出していた波多伸二が1960年(昭和33年)、デビューから四作目で急死し、若手の主演級スターがいなくなり、プロデューサー・監督ら幹部クラスで波多に代わるスターの選考が行われた[6]。ここで大半が推したのは亀石征一郎だったが[6]岡田茂プロデューサー(のち、東映社長)が「亀石?あいつは暗くてダメだ!梅宮がいい。あいつは仰げばどんどん上がる。ああいう奴が人気が出るんだ」と鶴の一声を発し[6]、梅宮が東映東京撮影所(以下、東映東京)の次世代スターとして売り出されることになった[6]。以後、1964年(昭和39年)の『暗黒街大通り』までは「アクション映画」や「仁侠映画」で硬派な役柄で活躍していたが、段々私生活が派手になっていく梅宮を見て岡田プロデューサーが、梅宮の私生活に近いプレイボーイ、女を泣かす役柄をあてた[7][8][9]。これが1965年(昭和40年)の『ひも』に始まる「夜の青春シリーズ」で、これが同じ岡田プロデュースによる1968年(昭和43年)からの「不良番長シリーズ」に至る[8][9][10]1960年代半ば以降は東映京都撮影所(東映京都)で「任侠映画」が量産されたため、東映東京の看板スターだった鶴田浩二高倉健が東映京都に行くことが多くなり[9]、必然的に梅宮が東映東京の看板スターとなった[9]。このため女性からのモテ方は今の芸能人の比ではなかったと話している[9]

「不良番長シリーズ』は、最初の数本こそシリアス・タッチだったものの、梅宮を軸にした集団コメディの色彩は回を重ねるごとに強くなり、後に公私共に盟友となる山城新伍がコメディリリーフとして加わってからは、ますます破壊的なギャグが繰り出され、計16作が封切り公開した。梅宮は「みなさんの中で役者・梅宮辰夫は『仁義なき戦い』の印象が強いかもしれないけど、僕の真髄は不良と女たらしを兼ねた『不良番長シリーズ』なんですよ[11]」と述べ、自身の代表作としている。続いて主演の『夜の歌謡シリーズ』、更に1970年代からは『帝王シリーズ』を成功させた。

ベテラン俳優として

1972年(昭和47年)、自身が経営する事務所「梅宮企画」倒産などによる多額の借金で窮地に立たされるが、クラウディア・ヴィクトリアと再婚、同年にはアンナが誕生した。1973年(昭和48年)からは『仁義なき戦い』や安藤昇主演の東映実録路線で貫禄十分の独特の存在を醸し出した[5]。同映画の監督、深作欣二とは同郷(茨城県水戸市)という縁もあった。

1974年(昭和49年)には睾丸腫瘍の診断を受けた。癌細胞はにまで転移していたものの、抗癌剤による化学療法の奏効によって治癒した。梅宮は化学療法を受けた際、副作用脱毛が全く起こらず、主治医が驚いていたという。この病気の後、梅宮は夜遊びを止め、酒を減らし、早起きして料理に励むようになった。

1975年倉本聡に請われて『前略おふくろ様』に出演。「渋い」板前役を演じ、役柄を広げることに成功。

1977年大映テレビ制作の刑事ドラマ新・夜明けの刑事』にて、温厚な人柄の刑事課長役を演じたことで新境地を開いた。以後、『明日の刑事』(1978年 - 1979年)、『スクール☆ウォーズ』(1984年 - 1985年)にも出演するなど、大映ドラマの常連俳優としても活躍する一方、『はぐれ刑事純情派』や『特命係長 只野仁』などのテレビドラマに出演し、名脇役ぶりを発揮する。

実業家・マルチタレント

これ以降は20代前半からの美食三昧で肥やした舌を活かし、料理人としても徐々に活路を見出して行く。

実業家・料理家としての才能にも長けており、「梅宮辰夫の漬物本舗」や、名古屋で「梅宮辰夫の炭焼き家 炎園」などの事業も展開している。

人物

特技はライフル剣道で、高校時代には剣道部の初代主将も務めた。

料理にかける熱はかなりのものがある。2001年2月13日、梅宮の運転手が仕事先の梅宮を迎えに行くため、梅宮の愛車であるメルセデス・ベンツV280(当時の販売価格で580万円)を渋谷区内の自宅近くのガソリンスタンドで給油中、カギを付けたまま休憩所に行き、戻るまでの数分間の間に車両盗難の被害に遭っているが[注釈 2]、その記者会見では「ベンツはいいから(積んであった特注の)クッキングボックスだけは返してくれ[注釈 3]」と訴えている。その後ベンツは発見されたが、逆にクッキングボックスは持ち去られていた。

俳優として初めて『料理の鉄人』に挑戦者として登場(1994年11月18日放送分、「対決」)。道場六三郎と戦うが敗戦している。

釣り好きとしても知られる。梅宮本人が語るところによれば、「旧満州に住んでいた子供の頃、医師だった父と一緒に川釣りを始め、父が国立水戸病院の医師として茨城県に移った時にも那珂川でナマズとウナギなどを釣っていた」という[13]サンテレビジョンで放送される釣り番組『ビッグフィッシング』への出演を希望したことがあると言われている。自らの釣りの中心地は伊豆半島静岡県伊東市)の八幡野とのことで[13]熱海港に釣り船「番長」を留めている。1977年4月には尖閣諸島大正島へ渡って磯釣りにも挑戦、その様子は釣り雑誌「別冊フィッシング」のカラーグラビアでも紹介された。

1968年(昭和43年)、3年間同棲し既に妊娠4ヶ月だった若井常代と一方的に婚約を解消[14]。同年12月に結婚した最初の妻は、銀座のクラブ「姫」のホステス・大門節子(大門節江)だが[15]、半年で離婚[15][注釈 4]。大門との結婚中に知り合った銀座のクラブで働いていた愛称"ビッキー"こと[15] 米国籍のクラウディア・ビクトリア・ルールダウ(梅宮クラウディア)と[15]、1972年にスポーツニッポンに結婚とすっぱ抜かれ[15]、同年3月に結婚した[15][注釈 5]

娘はタレントモデル梅宮アンナ。姪は女優の梅宮万紗子。声楽家の高橋好子は母方従姉妹。俳優の高橋克典は母方の従甥(伯母の孫)である。元プレアイドルの梅宮亜須加とは遠戚である。

数多くの映画で共演した松方弘樹とは盟友であり、バラエティで共演するたびに子供っぽいケンカをする事が多かった。『スクール☆ウォーズ』で夫婦役として共演した和田アキ子とは「あんちゃん」「アッコ」と呼び合う兄妹のような仲である。安岡力也からは「兄貴」と慕われ、山城新伍とは「兄弟」と呼び合う仲であった。めちゃイケのコーナー、爆烈お父さんの父で、加藤浩次演ずる加藤辰夫のモデルといわれている。

ロバート秋山竜次は「芸人として本当に悩んでいたことをかき消すきっかけとなったのが梅宮さんの“体ものまね”[16][17]。梅宮さんから『やるんだったら、中途半端じゃなく、突きつめろ。何をどうやってもいいから、ちゃんとした芸をやれ![18]』と励まされた」と言い、秋山にとって梅宮は大きな転機をいただいた恩人と語っている[16][17]

1994年平成6年)から実娘・アンナが、タレントの羽賀研二との交際を始めると、プレイボーイの羽賀との交際に公然と反対、これら三者の関係は、ワイドショーなどで盛んに取り上げられた。

出演作品

映画

テレビドラマ

テレビアニメ

バラエティ

CM

歌唱

シングル

  • 母恋いやくざ / 銀座の風来坊(1962年。ビクター VS-753)
  • 遊侠三代 / さかずき節(1966年。コロムビア SAS-678)
  • 夢は夜ひらく / 憎いあん畜生(1966年。コロムビア SAS-781)
  • 番長シャロック(『不良番長』主題歌) / 盃よお前だけ(テイチク A-21)
  • 番長ブルース(『番長シリーズ』主題歌) / おれは番長(テイチク A-32)
  • 番長新宿仁義(『番長シリーズ』主題歌) / 夢は夜ひらく(テイチク A-39)
  • 番長数え唄(『番長シリーズ』主題歌) / 野良犬(テイチク A-45)
  • 男・番長流れ星(『番長シリーズ』主題歌) / 番外地ブルース(テイチク A-48)
  • ダイナマイト・ロック / ウッシッシ節(1970年。テイチク A-55)
  • シンボル・ロック(『夜遊びの帝王』[19] 主題歌) / 夜は俺のもの(1970年。テイチク A-63。のちに発売禁止。その後CD化されて発売される)
  • 梅宮辰夫の東京流れ唄 / 番長(テイチク A-69)
  • 柄じゃなかった恋なんか / 男泣かせの霧が降る(テイチク A-71)
  • 辰ちゃんの青春日記 / 辰兄いの三度笠(1971年、テイチク A-73)
  • 悔恨の唄 / さすらいのワルツ(1971年、テイチク A-77)
  • 生きて行こうよ / ジンと来るんだ(テイチク A-80)
  • 盛り場番長 / 人生劇場(テイチク)
  • もてたつもりの数え唄 / 女町みれん(ミノルフォンレコード KA-554)
  • つよがり / 男ひとり(1982年、コロムビア 7DX-1187)

アルバム

  • 夜遊びの帝王(テイチク ASL-3)
  • 人生劇場/不良番長(テイチク AT-1)
  • 男の演歌(ユニオン ULP-2012)
  • 梅宮辰夫 ザ・ベスト

脚注

注釈

  1. ファミリーヒストリー」(NHK総合2015年2月13日放送分)によると、次郎が終戦直後、開原の病院で関東軍の引揚兵の一人だった柳澤孝信(後に柳澤管楽器経営者)の命を助け、その後次郎が八路軍に連行され家族と引き離された際、柳澤が残された辰夫ら家族の引揚を開原から奉天まで手助けした。なお次郎は八路軍により連行される途中の列車から脱出し逃亡、先に到着した奉天で身を潜め、その後2013年3月に開原から奉天に到着した家族および柳澤と合流し、一緒に帰国している。
  2. これが経緯で2002年(平成14年)自動車盗難防止キャンペーンのポスターのイメージキャラクターに選ばれた。
  3. 愛用していた包丁セットが入っていた[12]
  4. レコードを出したこともある大門は、広島市大洲(現在の南区)の出身。梅宮と離婚後、沢村忠と婚約したが結婚はしなかった。その後、広島に帰郷しお店を経営していたが、四国の一般人と再婚したという話。このあたりは山口洋子の著書『ザ・ラスト・ワルツ- 「姫」という酒場』に少し書かれている。
  5. 当時クラウディアは妊娠4ヶ月でお腹の大きな写真がスポーツニッポンに載った。クラウディアは梅宮顔負けの日本人の遊び人と1968年に結婚し、男子をもうけていて、夫婦仲が上手くいかずホステスをしているときに梅宮と知り合った。クラウディアの夫と梅宮との間でゴタゴタがあったが、結局手切れ金を渡しクラウディアと別れさせた(「げいのう 『涙にゃ弱い遊び人』」「サンデー毎日」 1972年3月19日号 43頁)。

出典

  1. 1.0 1.1 梅宮辰夫”. 日本タレント名鑑. VIPタイムズ社. . 2017閲覧.
  2. 東映の友 1963年7月号 18頁。
  3. 『旧友再会〜梅宮辰夫と立花隆』(NHK) 2009年放送
  4. 東映の友 1961年5月号 2〜3頁。
  5. 5.0 5.1 5.2 #不良番長 植地毅「俳優・梅宮辰夫の軌跡」52–55頁。
  6. 6.0 6.1 6.2 6.3 #不良番長「吉田達プロデューサーインタビュー」246–253頁。
  7. 梅宮辰夫さん インタビュー | 昭和キネマ横丁 - Part 2(archive)
  8. 8.0 8.1 「梅宮辰夫インタビュー」、『映画秘宝』2014年11月号、洋泉社、 78-79頁。
  9. 9.0 9.1 9.2 9.3 9.4 #不良番長「梅宮辰夫インタビュー」274–282頁。
  10. #HW「吉田達プロデューサーインタビュー」134–137頁。
  11. BIG tomorrow、青春出版社、2010年8月号、77頁。
  12. “梅宮辰夫、アンナ出産に「大丈夫」”. ZAKZAK (産経デジタル). (2002年1月12日). http://www.zakzak.co.jp/geino/n-2002_01/g2002011201.html . 2017閲覧. 
  13. 13.0 13.1 『昭和名優のダンディズム』梅宮辰夫編 東京スポーツ 2016年6月23日付18面
  14. 「ヤングレディ」講談社 1968年7月29日号 28〜31頁
  15. 15.0 15.1 15.2 15.3 15.4 15.5 「げいのう 『涙にゃ弱い遊び人』」「サンデー毎日」 1972年3月19日号 43頁
  16. 16.0 16.1 中西正男 (2014年5月25日). “<私の恩人>秋山竜次、梅宮さんはネタだけじゃなく…「ロバート」も救ってくれた!1”. THE PAGE (ワードリーフ): p. 1. http://thepage.jp/detail/20140525-00000003-wordleaf?page=1 . 2014閲覧. 
  17. 17.0 17.1 中西正男 (2014年5月25日). “<私の恩人>秋山竜次、梅宮さんはネタだけじゃなく…「ロバート」も救ってくれた!3”. THE PAGE (ワードリーフ): p. 3. http://thepage.jp/detail/20140525-00000003-wordleaf?page=3 . 2014閲覧. 
  18. 中西正男 (2014年5月25日). “<私の恩人>秋山竜次、梅宮さんはネタだけじゃなく…「ロバート」も救ってくれた!2”. THE PAGE (ワードリーフ): p. 2. http://thepage.jp/detail/20140525-00000003-wordleaf?page=2 . 2014閲覧. 
  19. 夜遊びの帝王”. 東映チャンネル. 2014年5月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。. 2014閲覧.

参考文献

外部リンク

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