植木庚子郎

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植木 庚子郎(うえき こうしろう、1900年1月28日1980年3月11日)は、昭和期の政治家大蔵官僚法務大臣大蔵大臣

来歴・人物

福井県丹生郡天津村清水山(後の清水町清水山、現在の福井市清水山町)に、清水伊右衛門の長男として生まれる。後に植木信一の養子となる。福井県立福井中学校(現・福井県立藤島高等学校)を首席で卒業後、第一高等学校を経て、1925年東京帝国大学法学部を卒業、大蔵省に入省する。池田勇人(元首相)、山際正道(元日本銀行総裁)と同期だった。

主計局[1]専売局長官を歴任し、1946年公職追放により退職する。追放解除後の1952年第25回衆議院議員総選挙吉田茂率いる自由党公認で旧福井全県区より立候補し当選する。以後当選9回(当選同期に福田赳夫黒金泰美内田常雄丹羽喬四郎灘尾弘吉宇都宮徳馬加藤精三山崎巌今松治郎重政誠之町村金五古井喜実など)。保守合同後は一時期愛知揆一らとともに賀屋興宣派立ち上げを試みたのち、佐藤栄作派-田中角栄派に所属する。1960年第2次池田内閣で法務大臣として初入閣。1971年第3次佐藤内閣小林武治の後任として再び法務大臣となる。

1972年第1次田中角栄内閣で大蔵大臣に就任する。蔵相時代はもっぱら田中首相の意向に沿って大型予算を組み、後の狂乱物価の一因となった。1976年の総選挙で落選し政界を引退。1970年勲一等瑞宝章受章。1980年3月11日死去。80歳没。

日本学協会の設立準備委員会の監事。

大蔵省時代の仕事

1943年、成績優秀だが貧しく修学が困難な学生に奨学金を貸与することを目的として大日本育英会(現・日本学生支援機構)が設立された。当時大蔵官僚で後に首相となる大平正芳は、大日本育英会の査定を担当していて、大平は国の手による育英事業は本当の英才に限られるべきとの考えから、当初の中学20万人案はいうに及ばす、文部省の3万人案よりも少なく査定した。さすがに厳し過ぎることから大蔵省首脳からも批判され、最終的には主計局長だった植木の説得で大平は譲歩したという[2]長野県松本税務署長時代には、管内の土地調査員を統括し、国家資格として確立させるための運動を示唆し、戦争による中断を経て、土地家屋調査士制度を実現させた[3]

脚注

  1. 『大平正芳』 44頁。
  2. 『大平正芳』 43-44頁。
  3. 日本土地家屋調査士会連合会

参考文献


議会
先代:
福田一
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1967年 - 1968年
次代:
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先代:
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日本の旗 衆議院大蔵委員長
1959年 - 1960年
次代:
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公職
先代:
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第76代:1972年
次代:
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先代:
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小島徹三
日本の旗 法務大臣
第28代:1971年
第15代:1960年 - 1962年
次代:
前尾繁三郎
中垣國男

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