横綱大関

提供: miniwiki
2018/10/14/ (日) 11:12時点におけるAdmin (トーク | 投稿記録)による版 (1版 をインポートしました)
(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
移動先:案内検索

横綱大関(よこづなおおぜき)とは、大相撲番付において大関空位(不在)、あるいは一人大関の時に、横綱が番付上大関の地位も兼任する形で表記される場合の呼び方である[1]

概要

江戸時代以来番付の片方には、必ず大関・関脇小結三役がそろうことが必要であった。1890年に、横綱を免許された西ノ海が番付上ではじめて「横綱」と頭書されたあとも、大関は東西に存在していた。1896年5月場所小錦が横綱免許を受けた際、同じ東方に大関がいなかったため番付上「大関」をメインにして、その下に出身地のわきに「横綱」を付記する形をとることにした。その後1898年5月場所朝汐が大関となったため小錦は西ノ海と同様に地位の部分に横綱と大書されて東に張り出された。これは、その当時はまだ横綱が地位として明確にされていなかったためのものである。これが、横綱大関のはじめといってよい。

1904年1月場所、常陸山梅ヶ谷とが同時に横綱に昇進したときに、大関がいなくなった際も同様に地位は大関と大書され出身地のわきに「横綱」と付記する形をとった。1905年5月場所国見山荒岩が同時に大関に昇進すると常陸山と梅ヶ谷は初めて大関の上位の枠内に「横綱」と大書された。これが横綱が大関の上の地位であることのきっかけとなった。

その後、1909年に横綱が地位として定められた後も、1924年5月場所の常ノ花1936年5月場所の男女ノ川が同様に、「大関」が上で下に「横綱」を書くケースであった。1943年1月場所の安藝ノ海のときに、はじめて「横綱」と「大関」とを並べて書く、現在の形式がはじまった。その後、大関が1人しかいないときや、1981年9月場所のような「3横綱0大関」という状況のときに、「横綱大関」という形の番付表記がされている。1981年9月場所のケースでは、東西の正横綱だった北の湖千代の富士を「横綱大関」とし、2代目若乃花を東の張出横綱とするという番付表記であった。

例外として、1955年のケースがある。1月場所と3月場所とは4横綱1大関だったが、西方には、横綱を二人並べ、どちらにも「横綱大関」の表記はなされなかった。また、同年9月場所にも、4横綱で大関1人の状態だったが、西の正横綱は単に「横綱」の表記で、さらに張出横綱を東西に置いたため、「大関」が西方には番付上存在しないことになってしまった。それに対しての批判もあったか、次に大関が1人になった1959年5月場所には、「横綱大関」の記載が復活した。

なお、これはあくまでも番付記入上の措置であり、待遇は変わらない。場内放送でも「横綱」とアナウンスされる。

番付における張出1994年5月場所を最後に廃止され、以前の張出に相当する力士も番付の欄内に記載されることになり、現在の制度としては張出は存在しないので、今後横綱が3人以上でかつ大関が1人のみもしくは不在となった場合、番付記載がどのようになるかは不明である。この場合は次のような方法が考えられる。

  • 張出があった時と同様に正横綱を横綱大関とする。ただしその場合は、「横綱大関、横綱、関脇、小結…」のようになって、番付表記上の地位の順序に矛盾が生じてしまう。実際張出があった1981年9月場所においても、正横綱が大関の地位を兼ねるのに、下位であるはずの張出横綱がそうではないのはおかしいのではないかという声もしばしば上がったという。
  • 東または西、あるいはその両方に2人以上いる横綱のうち最下位の者を横綱大関とする。その場合は、「横綱、横綱大関、関脇、小結…」となって地位の順序には矛盾が生じないが、その方法が行われた前例はない。
  • 東または西、あるいはその両方に2人以上いる横綱を単に「横綱」とだけ表記し、「横綱大関」の表記を行わない。1955年の前例があるが、番付上の「大関」が1人もしくは不在になってしまう(1955年の例は大関1人で、番付上の大関不在は前例がない)。
  • 張出を復活させた上で正横綱を横綱大関とする。

関連項目

脚注

出典

  1. 横綱大関[1]