武則天

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武則天 武
武周
皇帝
170px
王朝 武周
在位期間 690年10月16日 - 705年2月22日
都城 長安
姓・諱 媚娘→武照(武
諡号 則天大聖皇帝
則天順聖皇后
生年 武徳7年1月23日
624年2月17日
没年 神龍元年11月26日
705年12月16日
武士
楊夫人
陵墓 乾陵
年号 光宅684年
垂拱685年 - 688年
永昌689年
載初:689年 - 690年
天授:690年 - 692年
如意:692年
長寿:692年 - 694年
延載:694年
証聖695年
天冊万歳:695年
万歳登封:695年 - 696年
万歳通天:696年 - 697年
神功:697年
聖暦698年 - 700年
久視:700年 - 701年
大足:701年
長安:701年 - 704年
※「」は「照」の則天文字

武 則天(ぶ そくてん)は、中国史上唯一の女帝高宗皇后となり、後に唐に代わり武周朝を建てた。諱は)。日本では則天武后(そくてんぶこう)と呼ばれることが多いが、この名称は彼女が自らの遺言により皇后の礼をもって埋葬された事実を重視した呼称である。古来より「則天」と姓名をはっきりさせず呼ばれてきたが、現在の中国では姓を冠して「武則天」と呼ぶことが一般的になっている[1][2]

生涯

出生

利州都督武士と楊夫人の間に次女として生まれ、、幼名を媚娘と名付けられたという。生家の武氏は、唐初時代の政治を担った関隴貴族集団の中では傍流に列する家系であったが代々財産家であったため、幼い頃の媚娘は父から高度な教育を与えられて育った。しかし、12歳のときに父が死去すると、媚娘は異母兄と従兄に虐げられる生活を送ることとなった。

637年太宗後宮に入り才人(妃の地位、正五品)となった。ほどなく宮廷に「唐三代にして、女王昌」「李に代わり武が栄える」との流言が蔓延るようになると、これを「武照の聡明さが唐朝に災禍をもたらす」との意ではないかと疑い恐れた太宗は、次第に武照を遠ざけていった。途中、李君羨という武将が「武が栄える」の「武」ではないかと疑惑を持たれ処刑された事件があったが、太宗は李君羨の処刑後もなお武照と距離を置き続けた。こうした状況下で、太宗の子である李治(後の高宗)が武照を見出すこととなった。太宗に殺害されることを恐れた武照は、李治を籠絡したとおぼしく、李治は妄信的に武照を寵愛するようになる。

太宗の崩御にともない、武照は出家することとなったが、額に焼印を付ける正式な仏尼になることを避け、女性の道士坤道)となり道教寺院(道観)で修行することとなった。

その頃の宮中は帝位を継いだ高宗のもと、皇后の王氏と、高宗が寵愛していた蕭淑妃が対立し、皇后は高宗の寵愛を蕭淑妃からそらすため、高宗に武照の入宮を推薦した。武照が昭儀(後宮における上から5番目の地位)として後宮に入宮すると、高宗の寵愛は王皇后の狙い通り蕭淑妃からそれたが、王皇后自身も高宗から疎まれるようになった。

立后

永徽6年(655年)6月、高宗は武照を昭儀から新たに設けた宸妃(皇后に次ぐ位)にさせようとしたが、宰相・韓瑗来済の反対で実現はしなかった。同年、中書舎人李義府などの側近が皇后廃立と武照擁立の意図を揣摩し、許敬宗崔義玄袁公瑜らの大臣が結託して高宗に武照立后の上奏文を送った。高宗は、王皇后を廃して武照を皇后に立てることの是非を重臣に下問した。

この時の朝廷の主な人物は、太宗の皇后長孫氏の兄で高宗の伯父にあたる長孫無忌、太宗に信任されて常に直言をしていた褚遂良高祖と同じ北周八柱国出身の于志寧、太宗の下で突厥討伐などに戦功を挙げた李勣の4人であった。下問に対して、長孫無忌と褚遂良は反対し、于志寧は賛成も反対も言わず、李勣のみが皇后の廃立を消極的に容認した[3][4]

10月13日11月16日)、高宗は詔書をもって、「陰謀下毒」の罪[5]により王皇后と蕭淑妃の2名を庶民に落として罪人として投獄したこと、および同2名の親族は官位剥奪の上嶺南への流罪に処すことを宣告した。その7日後、高宗は再び詔書を発布して、武照を立后すると共に、諫言した褚遂良を潭州都督へ左遷した。

11月初旬、皇后になった武照は監禁されていた王氏(前皇后)と蕭氏(前淑妃)を棍杖で百叩きに処した上、処刑した[6][7][8]

垂簾政治

武皇后は高宗に代わり、垂簾政治を行った[9]。武皇后は自身に対する有力貴族(関隴貴族集団)の積極的支持がないと自覚していたため、自身の権力を支える人材を非貴族層から積極的に登用した。この時期に登用された人材としては、狄仁傑姚崇宋璟張説などがいる。これらは低い身分の出身であり、貴族制下では宮廷内での出世が見込めない人物だった。武皇后は人材の採用に当たっては、身分のみならず才能と武皇后への忠誠心を重視した。姚崇と宋璟は後に玄宗の下で朝政を行い、開元の治を導いたが、張説は評価の分かれる宰相である。

顕慶5年(660年)、新羅の請願を容れ百済討伐の軍を起こし、百済を滅ぼした。倭国日本)・旧百済連合軍と劉仁軌率いる唐軍が戦った白江口の戦い(白村江の戦い)にも勝利し、その5年後には孤立化した高句麗を滅ぼした(唐の高句麗出兵)が、武皇后の暴政と営州都督・趙文翽の横暴により契丹が大規模な反乱を起こして河北へ侵攻するなど、遼東遼西の情勢はかえって悪化した。

出自を問わない才能を発掘する一方で、武皇后は娘の太平公主薛懐義張易之昌宗兄弟といった自身の寵臣、武三思武承嗣ら親族の武氏一族を重用し、専横を招いた。また佞臣許敬宗などを任用し、底なしの密告政治により反対者を排除した。そのために来俊臣索元礼の徒ばかりか周興・『羅織経』の作者らのような元々法律に通暁した「酷吏」が総じて反対派を監視する恐怖大獄を行った。この状況に高宗は、宰相を招いて武皇后の廃后を計画するが、武皇后は計画を事前に察知し、皇帝の権力奪還を許さなかった[10]

弘道元年(683年)、高宗が崩御すると太子の李顕(中宗)が即位するが、中宗の皇后韋氏が血縁者を要職に登用したことを口実に、太平公主を使って中宗を廃位し、その弟の李旦(睿宗)を新皇帝に擁立した。睿宗は武后の権勢の下、傀儡に甘んじることを余儀なくされた。

武則天の専横に対して、皇族は男性・女性を問わず次々と挙兵に動いたが、いずれも打ち破られた上に族滅の惨状を呈した。民衆は武后に恐怖を感じ、朝政も生活を困窮に至らしめ多くの浮戸や逃戸を招いたが、農民蜂起が起こるほどの情勢ではなかったため、反乱軍に同調する者は少なく、大勢力には発展しなかった。この時に反乱軍の檄文を詩人の駱賓王が書いたが、その名文に感嘆した武則天が「このような文才のある者が(官職につけられずに)流落しているのは宰相の責任だ」と言ったという逸話があるが、そのとき宰相は黙って返答しなかった。

登位

宗室の挙兵を打ち破った後、武后は女帝出現を暗示する預言書(仏典中の『大雲経』に仮託して創作された疑経)を全土に流布させ、また代に存在したとされる「明堂」(聖天子がここで政治を行った)を宮城内に建造させ、権威の強化を謀り、帝位簒奪の準備を行った[11]

天授元年(690年)、武后は自ら帝位に就いた。国号を「周」とし、自らを聖神皇帝と称し、天授と改元した。睿宗は皇太子に格下げされ、李姓に代えて武姓を与えられた。この王朝を「武周」と呼ぶ(国号は周であるが、古代の周や北周などと区別するためこう呼ぶ)。

即位後

帝室を老子の末裔と称し「道先仏後」だった唐王朝と異なり、武則天は仏教を重んじ、朝廷での席次を「仏先道後」に改めた。諸寺の造営、寄進を盛んに行った他、自らを弥勒菩薩の生まれ変わりと称し、このことを記したとする『大雲経』を創り、これを納める「大雲経寺」を全国の各州に造らせた[12]

武則天の治世において最も重要な役割を果たしたのが、高宗の時代から彼女が実力を見い出し、重用していた稀代の名臣、狄仁傑である。武則天は狄仁傑を宰相として用い、その的確な諫言を聞き入れ、国内外において発生する難題の処理に当たり、成功を収めた[13]。また、治世後半期には姚崇宋璟などの実力を見抜いてこれを要職に抜擢した。後にこの2名は玄宗の時代に開元の治を支える名臣と称される人物である。武則天の治世の後半は、狄仁傑らの推挙により数多の有能な官吏を登用したこともあり、宗室の混乱とは裏腹に政権の基盤は盤石なものとなっていった。

晩年

晩年の武則天が病床に臥せがちとなると、宮廷内では唐復活の機運が高まった(武則天は武姓にこだわって甥に帝位を譲ろうとしていたが、「子をさしおいて甥に譲るのはに反する」との狄仁傑の反対で断念していた。子とは即ち高宗との子であり、唐王朝の復活となる)。当時、武則天の寵愛を受け横暴を極めた張易之昌宗兄弟を除くために、神龍元年1月24日705年2月22日)、宰相張柬之は中宗を東宮に迎え、兵を発して張兄弟を斬り、武則天に則天大聖皇帝の尊称を奉ることを約束して位を退かせた。これにより中宗は復位し、国号も唐に戻ることになった。しかし、武氏の眷属は李氏宗室を筆頭とする唐朝貴族と密接な姻戚関係を構築しており、武則天自身も太后としての立場を有していたため、唐朝再興に伴う粛清は太平公主や武三思などには及ばず命脈を保った。その後まもなく武則天は死去し、706年(神龍2年)5月、乾陵に高宗と合葬された。唐代の帝陵は、代始の大乱に勝るとも劣らない幕引きの兵乱のさなか、京兆尹の温韜にすべてが盗掘される羽目にあったが、乾陵のみは発掘予定の夏に激しい雷雨が数晩続き、不成功に終わったという。

謚号

遺詔には「帝号を取り去り則天大聖皇后と称すべし」とあったといわれる。唐王朝での謚号はその後も変遷を経る。

  1. 唐隆元年(710年)、中宗、天后と改める。
  2. 景雲元年(710年)、睿宗、大聖天后と改める。
  3. 延和元年(712年)、睿宗、天后聖帝と改める。
  4. 開元4年(716年)、玄宗則天皇后と改める。
  5. 天宝8年(749年)、玄宗、則天順聖皇后の謚を追加する。

人物・逸話

武則天は女傑として長く人々の関心を集めてきたため、人柄を伝える多くの逸話が残っている。この項で記したもの以外に、本記事の注なども参照のこと。

出生と外見にまつわる逸話

武則天が生まれて間もない頃、袁天綱という名道士が来て彼女の相を占った際、人相を見た袁天鋼が「この子供は必ずや天に昇るであろう」と述べたという伝承がある。その伝承によれば、父が将来の皇后となることを期待して武則天に高度な教育を与え、幼名を媚娘と命名した理由には、乳児としての武則天の容姿が極めて美しかったことだけではなく、その予言を信じたこともあったとされる。

また、史書の伝えるところによれば、少女期の媚娘は漆黒の髪、特徴的な切れ長で大きな目、雪のような肌、桃色の唇、薔薇色の頬、大きな胸、見る者を魅了する媚笑、そして聡明な頭脳を備えていたとのことである。

改称・改変好き

称号や尊号、都市の名前など、人や事物に対して、伝統的に使用されてきた呼称に改変を加えることを非常に好んだとされる。には皇帝と皇后をそれぞれ天皇天后とした。この改称の狙いは、天皇と天后という相互に比肩する字義を持つ組み合わせへと尊号を改めさせることで「皇后が国政に介入しているに過ぎない状況」を「天后が正統かつ正当な支配権を行使している状況」へと変貌させ、現状における自己の政治への介入状況を追認させることにあったと言われる。地名の改称の例は洛陽神都とした例や、自らの出身県である文水県武興県と改めた例などであり、武則天の思想を反映するとともに、皇帝である自身の権威を高めることや、あまり家格の高くなかった生家の武氏の権威を高めることなどを意図したものが見られる。

武則天は漢字の改変も行い、則天文字と呼ばれる新しい漢字を創っている。その数は20字程度であり、今日使用されることはほとんどないが、「圀」の字は日本で徳川光圀本圀寺に使用されている。この改変は「國」がくにがまえの中に「惑」を含むことを武則天が忌み嫌ったもので、その代替としてくにがまえの中に「八方」を加えたものである。他にも、自らの名の「照」の代替として、空の上に日と月を並べた「」(明+空)を造字しており、いずれも思想的な理由に基づくものだった。

武則天はまた元号も頻繁に変更した。元号に関しては下記の一覧を参照。

元号

則天文字があるもの(*印の元号以下の使用例参照)は通常の文字に戻した。

天后時代
  1. 光宅 684年
  2. 垂拱 685 - 688年
  3. 永昌 689年
  4. 載初 690年
聖神皇帝時代(武周)
  1. 天授 690 - 692年*
  2. 如意 692年
  3. 長寿 692 - 694年
  4. 延載 694年*
  5. 証聖 695年*
  6. 天冊万歳 695 - 696年*
  7. 万歳登封 696年
  8. 万歳通天 696 - 697年*
  9. 神功 697年
  10. 聖暦 698 - 700年*
  11. 久視 700年
  12. 大足 701年
  13. 長安 701 - 704年

後世の評価

開元4年(716年)に武則天の子であった太上皇睿宗が没すると、玄宗は武則天の諡号から「皇帝」を除き、武則天の政策の否定や、彼女や武氏に粛清された人々の名誉回復に動き始めた[14]

後世の中国社会や文人界においては、女性でありながら君権の上に君臨し、唐室の帝位を簒奪した武則天の政治的遍歴に対する評価はおおむね否定的であり続け、簒奪に失敗した韋后の行実と併せて武韋の禍と呼ばれるなど、負のイメージで語られることが多かった。治世中の事績に関しても、彼女が施政した時代に浮戸逃戸が増大したこと、田籍の把握が等閑になって隠田の増加と均田制の実施困難を招いたこと、自身の氏族を要職に就けて政治をほしいままにしたことなどについて、現在も厳しい評価を受けている。

一方で、長年の課題であった高句麗を滅ぼし、唐の安定化に寄与した事実は見逃せない功績であるが、それは高宗がまだ重篤に陥っていなかった668年のことである。また、彼女が権力を握っている間には農民反乱は一度も起きておらず、貞観の末より戸数が減らなかったことから、民衆の生活はそれなりに安定していたと見る向きもある。加えて、彼女の人材登用能力が後の歴史家も認めざるをえないほどに飛びぬけていたことは事実であり、彼女の登用した数々の人材が玄宗時代の開元の治を導いたことも特筆に値する。歴史上にもわずかながら、彼女について「不明というべからず」と評した南宋洪邁(毛沢東が愛読)や「女中英主」と評価した代の趙翼(現有制度の打破を叫んだ)のように、武則天に対して肯定的な評価を下した者も存在した。毛沢東夫人で文化大革命を指揮した江青に至っては、毛沢東の死後に後継者にならんとする野望を持っていたため、名実ともに中国の国政を握った武則天を自らに重ね、これを称賛する運動を興した。江青と文革は共産党に否定されたが、武則天を主人公とした連続テレビドラマも製作された。

参考文献

脚注

  1. 一例として、台湾ドラマ『一代女皇』と大陸ドラマ『武則天』の題名の対比が挙げられる。
  2. その他の名前としては、唐の第2代皇帝太宗に媚娘と号され、第3代皇帝高宗には「昭儀」と号された他、自ら尊号「天后」を受けた。武周建国以降は、聖母神皇、聖神皇帝、則天大聖皇帝、金輪聖神皇帝、越古金輪聖神皇帝、慈氏越古金輪聖神皇帝、天冊金輪聖神皇帝などがある。
  3. 李勣は他の朝臣が下問を受けた会議には欠席していた。後に高宗が皇后廃立について直々に下問したところ、李勣は「これは陛下の家庭のことです。なぜ余所の人間(である私)にお聞きになるのですか」と答えたという。
  4. 後世の史家は、この李勣の返答で武照の専横が止められなくなったと非難するが、後に長孫無忌と褚遂良が武則天によって死に追いやられ、沈黙した于志寧も左遷されたことを考えると、李勣が武照の計算高さと残忍さを見抜いて戦略的な判断を行った可能性もあり、一概に非難することは難しいであろう。
  5. 王皇后への嫌疑は武照の娘を毒殺したとの内容であったが、現在では、武照の娘は王皇后を陥れるために武照自身によって殺害されたのではないかと疑う者もいる。
  6. 一説によれば、このとき武照は2人が二度と生き返らないように、四肢を切断した上で「骨まで酔わせてやる」と言って酒壷に投げ込んだため、王氏と蕭氏は酒壷の中で数日間泣き叫んだ後に絶命したという。
  7. 処刑後、遺族の姓を侮蔑的な意味を込めた字である「」(ウワバミ、蛇の一種)と「」(フクロウ、子が親を食う不孝の鳥とされていた)に改称させた。
  8. 蕭氏は死の間際に、武照が生まれ変わったら鼠になれ、自身は猫に生まれ変わって食い殺してやる、と呪いながら死んだといわれ、後年の武則天は宮中で猫を飼うのを禁じたといわれる。
  9. 唐初はと同じく宮廷内の政治は貴族政治が行われており、関隴貴族集団と呼ばれる貴族層が権力を握っていた。隋代から科挙は行われていたが、この頃は科挙官僚は低い役職にしか登用されず、科挙による人材登用と国政運営には限界があった。良くも悪くも、この科挙制度の改革以後は、貴族といえども科挙を通過して登用される道を「正途」とした。
  10. この時期の事件として、高宗が晩年病を得た際に治療を望んだが、武皇后がそれを知ると治療を中止させた、という逸話を『唐書』が伝える。
  11. ただし、帝位簒奪をいつの時点で企図したのかは研究者の間でも定説がない。
  12. これは後に日本の国分寺制度の元になった。また、洛陽郊外の龍門山奉先寺にある高さ17mの盧舎那仏の石像は、高宗の発願で造営されたが、像の容貌は武則天がモデルといわれる。
  13. 武則天は狄仁傑のことを国老と呼んで敬意を払い、彼が700年に死去した際は、「なぜ天は私から国老を奪ったのか」と嘆き悲しんだという。
  14. 金子修一「玄宗の祭祀と則天武后」古瀬奈津子 編『東アジアの礼・儀式と支配構造』(吉川弘文館、2016年) ISBN 978-4-642-04628-2

登場作品

『』は日本公開、「」は日本未公開の作品。

小説

映画

テレビドラマ

ゲーム

関連項目

  • 金星:「武照」と命名されたクレーターがある。
  • ギボウシ(ホスタ):「エンプレス・ウー」と命名された園芸品種がある。
  • 遣唐使:武周時代の来航がある。
先代:
武周の皇帝
690年 - 705年
次代: