毛利元義

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毛利 元義(もうり もとよし、天明5年11月9日1785年12月10日)- 天保14年4月5日1843年5月4日))は、長門長府藩の第11代藩主。

第10代藩主・毛利匡芳の長男。母は右大臣西園寺賞季の娘・宝珠院。正室は細川利庸の娘・光容院。側室に駒田氏など多数いる。子に元寛(長男)、元運(三男)、元承(十一男)、娘(脇坂安宅正室)、娘(細川義邵室)。官位は従四位下、左京亮、甲斐守。幼名は直次郎。ははじめ元敬、のち元義。

経歴

江戸で生まれる。寛政4年(1792年)、父の死去により跡を継ぐ。武芸や儒学を奨励して、藩校敬業館の充実や有能な人材登用に努めた。しかし次第に堕落して藩政から逃避し始め、もともと優れた絵画の才能だけはあったため、その世界に溺れて藩政を省みなくなり、藩財政を極度に悪化させた。

文政13年(1830年)9月、本藩の江戸藩邸を訪れて、幕府に対する従四位下への昇進の執り成しを申し入れる。同年11月、本藩は老中水野忠成に官位昇進の内願書を提出するものの、この年の昇進は実現しなかった。天保5年(1834年)12月16日、従四位下に昇進する。ただし、一代限りとの申し渡しを受ける。

天保12年(1841年)9月21日、三男・元運に家督を譲って隠居し、天保14年(1843年)4月5日に江戸にて死去した。享年59。法号は顕明寺殿好文間翁大居士。墓所は山口県下関市長府功山寺東京都港区高輪泉岳寺

文化人としては高く評価されており、この時代に長府では狩野芳崖諸葛函渓度会東明といった多くの文化人が生まれている。また、享和元年には長府藩の御用絵師を狩野、笹山、度会、諸葛の4家とした。

テンプレート:長府藩主