毛利広豊

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毛利広豊
時代 江戸時代中期
生誕 宝永6年4月4日1709年5月13日
死没 安永2年10月29日1773年12月12日
幕府 江戸幕府
周防国徳山藩
氏族 毛利氏

毛利 広豊 (もうり ひろとよ)は、周防徳山藩の第5代藩主。就隆系毛利家5代。3代藩主・毛利元次の三男。兄は4代藩主・毛利元堯毛利輝元男系曾孫にあたる。

生涯

宝永6年4月4日1709年)、江戸三田の徳山藩邸で生まれる。享保元年4月(1716年)、徳山藩改易と同時に麻布萩藩邸に移り、次いで国に帰り、兄・元堯と共にへ赴き、徳山藩再興までの3年間を過ごす。

享保6年(1721年)に兄で第4代藩主の元堯が早世したため、その養子として跡を継ぎ、名を広房と改めるが、実際にはまだ元服の年齢に達してはいなかったため、幕府には宝永2年(1705年)生まれの17歳と届け出る。同年12月18日、従五位下に叙せられ、翌日、但馬守に任じられる。

嗣封の初めはまだ幼少だったため、長府藩主・毛利匡広がその後見役として、しばらく政務を預かることとなる。享保7年11月16日1722年)、広豊と改名。享保8年(1723年)、徳山藩再興の時に萩藩から派遣された井原孫左衛門らが萩へ引き揚げる。延享4年9月5日1747年)、但馬守を改め、山城守に任じられる。

宝暦8年(1758年4月8日、次男・広寛に家督を譲って隠居する。明和5年12月7日1768年)、茅山と号す。安永2年(1773年10月29日下松の別邸で死去した。享年65だが、公には享年69である。

子女

毛利広豊は好色家でもあり、非常に多くの子供をもうけている。

男子
女子
  • 長女 吉子(早世)
  • 次女 鶴槌子(早世)
  • 三女  春子(早世)
  • 四女  豊子(早世)
  • 五女  秀子(早世)
  • 六女  美代子(公家八条隆輔室)
  • 七女  利子(早世)
  • 八女  久米子(吉田兼隆との縁談が決まるも嫁ぐ前に夭折)
  • 九女  松子(旗本花房職朝の養女となる)
  • 十女 富子(早世)
  • 十一女 源子(早世)
  • 十二女 行子
  • 十三女 猪野子(早世)
  • 十四女 要子(姉小路公聡室)
  • 十五女 遊(交代寄合平野長純室)
  • 十六女 好子(毛利就兼室)
  • 十七女 吉子(早世)
  • 十八女 鉄子(岡部利寛室)
  • 十九女 澄子(早世)
  • 二十女 武子(福原就清室)
  • 二十一女 栄子(粟屋俊満室)
  • 二十二女 多野子(早世)
  • 二十三女 幾子(早世)

関連項目

テンプレート:徳山藩主