流鉄流山線

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流山線(ながれやません)は、千葉県松戸市馬橋駅と同県流山市流山駅を結ぶ流鉄鉄道路線である。

停車場・施設・接続路線
0.0 RN1 馬橋駅
STR ABZgl KRZu STR+r
STR STR STR
新松戸駅
KRZh KRZh KRZh KRZh ABZq+l
JR東武蔵野線
STR STR BHF ABZl+l STRr
1.7 RN2 幸谷駅
STR ABZg+l KRZu STRr
STRr STR STR
←JR東:常磐緩行線
STRq STRr STR
←JR東:常磐快速線
eBHF
2.2 大谷口駅 -1953
BHF
2.8 RN3 小金城趾駅
WBRÜCKE1
坂川
BHF
3.6 RN4 鰭ヶ崎駅
tSTRq KRZt tSTRq
首都圏新都市鉄道
STR
つくばエクスプレス
BHF
5.1 RN5 平和台駅
KBHFe
5.7 RN6 流山駅
ファイル:Ryutetu Nagareyama line.JPG
馬橋 - 幸谷間の住宅街を走り抜ける流山線。
(2007年8月12日)
ファイル:Nagareyama line Koganejoushi Station.JPG
馬橋 - 小金城址間は坂川の支流の新坂川に沿って線路が走る。
(2009年4月10日)

概要

みりん産業がある流山市中心部とJR常磐線の馬橋駅を結ぶ。接続するJR常磐線の複々線区間とは対照的に、2両編成の電車が走行する郊外の単線鉄道である。沿線は1970年代頃までは雑木林や農地などが広がるものだったが、その後は沿線の宅地化が進むと同時に都心への通勤利用が増加した。

以前の路線名は「総武流山線」であったが、もっぱら「流山線」を使用していた。これは「総武流山電鉄が経営する路線」と言う意味(会社線名)でも使用していた[1]2008年8月1日から「流山線」が正式な路線名となったが[2]馬橋駅の乗り場案内標識や車内掲示の路線図では従来より使用していたため表記に変更はない。

JR常磐線に乗り入れる東京地下鉄6000系06系の車内LEDの乗り換え案内では2010年3月頃まで「総武流山電鉄線(Sobu-Nagareyama Line)」と表示されていたが、現在は「流山線(Nagareyama Line)」と表示されている。路線図では「馬橋」の上部にある「総武流山線」の表記が修正されていないものもある。

写真「沿線の宅地化」(鰭ヶ崎駅付近)1977年→1986年
ファイル:総武流山電鉄・鰭ヶ崎 - 平和台間・モハ1101+クハ53(1977年)(s6-12).jpg
宅地化が進む以前の鰭ヶ崎駅付近(鰭ヶ崎 - 平和台間)。列車はモハ1101+クハ53。(1977年9月12日)
ファイル:総武流山電鉄・鰭ヶ崎 - 平和台間・クモハ1210+クハ81(s25-6).jpg
宅地化が進んだ鰭ヶ崎駅付近(鰭ヶ崎 - 平和台間)。列車はクモハ1210+クハ81。(1986年11月3日)
ファイル:総武流山電鉄・鰭ヶ崎 平和台間・クモハ1210+クハ81(s25-5).jpg
宅地化が進んだ鰭ヶ崎駅付近(鰭ヶ崎 - 平和台間)。この写真は左の写真の右側(平和台側)列車はクモハ1210+クハ81。(1986年11月3日)

路線データ

駅一覧

  • 全駅千葉県に所在
  • 駅番号は2018年5月から順次導入。
  • 全駅に駅員終日配置、全駅で出集札を終日実施(改札は省略)。
  • 駅周辺など各駅の詳細は各駅の記事を参照。
  • 線路 … ∨・∧:両端の駅、◇・|:単線区間(◇は列車交換可能)
    馬橋駅では東日本旅客鉄道常磐線と線路がつながっている(車両輸送用。ただし受け渡し先は第2種鉄道事業の日本貨物鉄道。)[5]
駅番号 駅名 駅間キロ 累計キロ 接続路線 駅周辺 線路 所在地
RN1 馬橋駅 - 0.0 東日本旅客鉄道JL 常磐線(各駅停車)(JL 24) 萬満寺 松戸市
RN2 幸谷駅 1.7 1.7 東日本旅客鉄道:JL 常磐線(各駅停車)(JL 25)・JM 武蔵野線新松戸駅)(JM 15)※ 流通経済大学新松戸キャンパス
RN3 小金城趾駅 1.1 2.8   大谷口歴史公園
RN4 鰭ヶ崎駅 0.8 3.6   東洋学園大学流山キャンパス 流山市
RN5 平和台駅 1.5 5.1   一茶双樹記念館
RN6 流山駅 0.6 5.7   近藤勇陣屋跡

※幸谷駅接続または新松戸駅を発着地とする馬橋駅接続の連絡運輸の設定はない

運賃

大人普通旅客運賃(小児半額・10円未満切り上げ)。2014年4月1日改定[6]

キロ程 運賃(円)
初乗り1 - 2km 120
3 130
4 170
5 180※
6 200

※180円区間は設定のみで実際には存在しない。

運行形態

全列車がワンマン運転の普通列車(各駅停車)で区間運転はなく、馬橋駅 - 流山駅間の全線を行き来する。列車交換は交換設備がある途中の小金城趾駅で行う。 全線所要時間11分。昼間は20分間隔、朝間帯は13分間隔で運行されている。それ以外は15 - 20分間隔、土休日の夜間のみ20 - 30分間隔での運転となっている。

1990年11月18日に実施してから2009年6月20日まで、18年7か月間もの長期にわたりダイヤ改正は行わなかった。この期間、接続する東日本旅客鉄道を始め、日本の多くの事業者がいわゆる「週休二日制」に伴い土曜日を休日ダイヤで運転するようになったが、本路線では土曜日も平日ダイヤでの運転を行っていた。

2009年6月21日に日中のワンマン運転開始と終日に渡る運転間隔の均等化を実施した。その7か月後の2010年1月23日には、始発列車の繰り上げ(流山発4時55分[7])と最終列車の繰り下げ(馬橋発翌0時17分[8])、夜間帯の増発と終日ワンマン運転の実施と共に、土曜日を休日ダイヤに変更する改正を実施した[9]

利用状況

最近の動向

ファイル:Tsukuba Express 2000.jpg
つくばエクスプレスの列車

流山線沿線は、日本の他の公共交通機関の例に漏れず少子高齢化(通勤・通学者の減少)の影響も現れており、1993年度をピークに収益・乗車数とも減少傾向が続いている。

その後の2005年、流山線の近くに首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス(TX)が開業し、年間の乗車人員が前年度2004年度に比べて約16%減少、特に流山駅では1日の利用客が50%近く減少した。

TX開業前の2004年時点では、朝ラッシュ時3両編成の上り列車は流山駅ですべての座席が埋まり、幸谷駅に到着する頃には通勤客で立錐の余地もない状態であったのに対し、2006年時点ではほぼ全区間にて朝の上り列車で座れる程度にまで乗客が減っており、現在のように宅地化が進む以前の1970年代の水準にまで減少している。

TXとの乗換駅は設置されていないが、鰭ヶ崎駅と南流山駅の間の道程は約0.9km、流山駅と流山セントラルパーク駅の間は約1.3kmと近接しており、TXの駅にも近い所に住む通勤者の多くが通勤経路をTXへ変更したと見られている。

このため流鉄では2005年度末から2両編成車をワンマン対応に改造するなどの工事を行い、ワンマン運転化を進めた。ただしワンマン化には経費が約1,500万円がかかるといい、中期的な合理化であるとしている。2006年5月17日から比較的乗客の少ない昼間に限り一部列車でワンマン習熟訓練を実施し、2009年6月21日のダイヤ改正より昼間時の列車をワンマン化、2010年1月23日にはワンマン運転完全実施となった。

この他、柏市に流鉄の不動産を売却して鉄道事業の損失を補うなどの対策を採っている。一方、流山市としては都市計画と合わせた活性化策を検討している。活性化策の一つとして、2016年から始めたコスプレイベントの開催が挙げられる[10]

輸送実績

輸送障害

鉄道運転事故は1994年度の踏切障害事故(小型トラックと列車の衝突、負傷者なし)を最後に起きていなかったが[11]、2013年度に馬橋 - 幸谷間の踏切で自転車と接触する踏切障害事故(負傷者なし)[12]、2014年7月11日に幸谷 - 小金城趾間の踏切で乗用車との衝突で電車が脱線する事故(乗用車に乗っていた2人が死亡)が起きている[13]

その他の輸送障害(列車の30分以上の遅延や運休)の発生件数は以下の通りである[14][12]

年度 2004 2005 2006 2007 2008 2009 2010 2011 2012
障害発生件数 2 5 0 1 1 0 3 2 2

収入実績

営業成績

車両

車両は1994年以降全車が西武鉄道からの譲渡車で統一され、5編成10両の車両(2013年12月現在)が使用されている。各編成ごとに異なる愛称がつけられ、異なる塗色が施されている。「流馬」「流星」「若葉」「あかぎ」「なの花」は全車両が2両編成であり、ワンマン運転開始に伴い行先表示器が幕式からLED式に換装されている他、ドア開閉チャイムと案内放送、自動の車内アナウンス装置が取り付けられている。なお愛称ごとの車体色は車両が代替わりしても一貫しており、歴代愛称ごとの車体色は「流馬」=水色、「流星」=橙色、「あかぎ」=臙脂色、「なの花」=黄色、「明星」=柿色、「若葉」=黄緑色、「青空」=紺色、「銀河」=銀色となっている。

現有車両

5000形

2009年に西武から譲渡された元新101系で、クモハ5000形-クモハ5100形の2両編成。2010年1月20日より「流馬」(3代目)、2011年3月11日より「流星」(3代目)、2012年3月14日より「あかぎ」(2代目)、2012年12月3日より「若葉」(3代目)、2013年12月6日より「なの花」(3代目)が、それぞれ営業を開始した。西武時代に種別幕だった表示器には「ワンマン」を表示する。

過去の車両

2000形

1994年導入。クモハ2000形・モハ2100形・クハ20形の3形式から成る。元西武701系・801系であったが、老朽化のため、2009年に3両編成の「明星」・「流馬」(2代目)、2012年に2両編成の「青空」、2013年4月28日に2両編成の「なの花」(2代目)が、それぞれさよなら運転を実施して運用を終了した[15]

3000形

1999年に旧101系を譲受し、「流星」(2代目)と「若葉」(2代目)の3両編成2本としたもの。2010年1月23日のダイヤ改正で定期運用から離脱し、「流星」は2010年8月29日、「若葉」は2011年5月15日に、それぞれさよなら運転を実施して運用を終了した。

1200形・1300形

1979年 - 2001年在籍。1200形はクモハ1200形・サハ60形・クハ80形の3形式、1300形はクモハ1300形・クハ70形の2形式から成る。いずれも元西武の車両で、501系を種車にした3両編成の「流星」(初代)・「流馬」(初代)・「銀河」・「若葉」(初代)と、551系クハ1651形を種車にした2両編成の「なの花」(初代)・「あかぎ」(初代)があった。流山線で現在まで続く編成愛称を導入した最初の車両である。

電化後の車両(戦前・終戦直後製造車両)

太平洋戦争直後の化石燃料(石炭、ガソリン)事情の悪化に対応するために、戦後初の公選選挙で選ばれた流山町長が中心となって流山鉄道の電化に動き出す。町長は5.7kmの小私鉄である流山鉄道自社で変電所を建設及び維持することは採算に合わないと考え、国鉄常磐線の電化を見越して、国鉄から直流1500Vの電力を購入するために千葉県選出の参議院議員を通じて運輸省に働きかけ、国鉄からの電力購入に成功する。そして本鉄道は常磐線電化から半年後に電化を為し遂げる。電化当初の電車の輛数は3輛であった[16][17]

ファイル:総武流山電鉄・流山駅・モハ103(s12-24).jpg
モハ103(流山駅にて1979年4月15日)

電化前はガソリンの入手が困難で、ガソリンカーによる定時運行が思うようにいかない状況であった。そのためこの時期には蒸気機関車による旅客列車も復活した。国鉄から客車や救援車、蒸気機関車を借り入れて営業を行ったが、車両の増備は行われなかった。この車両不足の状況は電化によって改善することになる。

1949年末に電化は完成し、国鉄から電車を3両(モハ100形)購入した。その後100形が1両(モハ105)が増備され、クハ51、Mc+Tc編成(モハ1001+クハ52)も入線した。キハ31とキハ32はエンジンを撤去され、付随車として電車に牽引されていたが、電車の増備により廃車となった[18]

モハ100形

モハ100形は、本鉄道電化の際に国鉄から払い下げを受けた車両で、元南武鉄道モハ100形である。台車ボールドウィン製BW78-25A系[19]。単行[20]あるいは増結用として使われていた他、貨車を牽引して混合列車として運行されることもあった[21]。14m級半鋼製2扉車である。車体各部には若干の相違がある。通風器は101・103がお碗形、102・105がガーランド形である[22]。3ドア車の入線により増結用として使用されるようになった[23]。100形は本鉄道電化以来使用されてきた車輛のため、電気部品も老朽化が進んでいるため、2輛ぐらいを中間車化を兼て更新する予定があった[24]

  • モハ101 - 1949年に入線した元南武鉄道モハ107。1979年廃車。汽車会社製であるが、購入に際しては小糸製作所で改修を行い、機械はほとんど新品に換装し、その後も車内等の改装も本鉄道で行っているが[22]、座席は木製であった。塗色は緑色であった(1952年1月27日現在)[25]。モハ101の車歴は、南武鉄道モハ107(1928年)→国鉄モハ107(1944年)→流山(1949年)[26]
  • モハ102  - 1949年に入線した元南武鉄道モハ115。1979年廃車。汽車会社製であるが、購入に際しては小糸製作所で改修を行い、機械はほとんど新品に換装し、その後も車内等の改装も本鉄道で行っているが[22]、座席は木製であった。塗色は緑色であった(1952年1月27日現在)[25]。モハ102の車歴は、南武鉄道モハ115(1931年)→国鉄モハ115(1944年)→流山モハ102(1949年)[26]
  • モハ103 - 1949年に導入された元南武鉄道モハ106。1979年廃車。汽車会社製であるが、購入に際しては東急横浜製作所で改修している。機械はほとんど新品に換装し、その後も車内等の改装も本鉄道で行っているが[22]、座席は木製であった。塗色は緑色であった(1952年1月27日現在)[25]。車歴は、南武鉄道モハ106(1926年)→国鉄モハ106(1944年)→流山モハ103(1949年)[26]
  • モハ105 - 1954年に追加で1両が導入された。元南武鉄道モハ113(汽車会社製)であるが、電装を解除されクハ6002となり、流山電車区で再電装し、両運化された[22]。このような経緯から前述の3両とは微妙に形態が異なっていた。1979年廃車。車歴は、南武鉄道モハ113(1931年)→国鉄モハ113(1944年)→国鉄クハ6002(1953年)→流山モハ105(1954年)[26]

なお流鉄モハ100形の全廃と入れ替わりに、東濃鉄道駄知線から後述の流鉄モハ1002-クハ55が入線しているが、この車両とともに使用されていた東濃モハ103・クハ201・クハ202は、流鉄モハ100形と出生の同じ南武モハ100形である。


モハ1000形

モハ1000形はクハ50形と組んで2両編成で運用されることが多かった。

  • ファイル:総武流山電鉄・モハ1001(1978年)(s11-25a).jpg
    モハ1001(鰭ヶ崎 - 平和台間、1978年3月19日)
    モハ1001 - 西武クハ1212を1963年に譲受。元武蔵野鉄道デハ1321で、西武所沢工場で改修されたものを購入。同車はこのときに再電装された。車歴は、武蔵野デハ1321(1927年)→西武農業デハ1321(1945年)→西武デハ1321(1946年)→西武モハ222(1948年)→西武モハ216(1954年)→クハ1212(不明)→流山モハ1001(1963年)[26]。窓枠をアルミサッシに取り換え、前面は外板を張り替え、窓下帯(シル)がなくなった[23]1988年に廃車になった。
  • モハ1002 - 1927年に(旧)西武鉄道が川崎造船で製造したモハ554[27]東濃鉄道からモハ111を1975年に譲受。東濃鉄道時代にパンタグラフを連結側に移設し、パンタグラフ部分を低屋根化し、車体総張り替えを実施した。流鉄譲渡時に、名鉄住商車両工場で、ヘッドライトのシールドビーム2灯化、アルミサッシ化、運転台を中央から左側への移設などが行われた[27]。1988年に廃車となった。車歴は、(旧)西武[28]モハ554(1927年)→(旧)西武モハ105(1940年)→西武農業モハ105(1945年)→西武モハ105(1946年)→西武モハ155(1948年)→東濃モハ111(1963年)→流山モハ1002(1975年)[26]


モハ1100形
  • ファイル:総武流山電鉄・モハ1101(1986年)(m4-2).jpg
    モハ1101(馬橋行、平和台 - 鰭ヶ崎間、1986年3月16日)
    モハ1101 - 車体は1947年に三井造船玉野製作所製で、京急クハ480形の車体を西武所沢車両工場で更新し、下回りは所沢工場の手持ちの部品を使用している。この時に両運転台化され、ヘッドライトもシールドビーム2灯化された。半鋼製である[29]。流山入線時は最も近代的なデザインの車輛であった。両運転台であるため、1輛でも運転することができる[23]が、新設された方の運転台は貫通路を備えており、クハ50形と組んで2両編成で運用されることが多かった。車歴は、東急デハ5400系(1947年)→京急400(1948年)→車体のみ屑鉄として西武所沢工場へ(1965 - 1966年)→流山モハ1101(1968年)[26]1994年廃車。


クハ50形

クハ50形は、モハ1000形あるいはモハ1100形と編成を組んで運用された。

  • ファイル:総武流山電鉄・クハ51(1977年)・s10-7a.jpg
    クハ51(流山駅、1977年11月5日)
    クハ51 - 国鉄クハ5601を1955年に譲受。元豊川鉄道クハ60形。モハ100形と編成して3輛運転を行うために国鉄から購入した[23]。いわゆる川崎造船のでき合いの車輛で、同型車は各地で活躍した。豊川鉄道時代は両運であったが、国有化後片運化された。国鉄から譲渡されたときには屋根は雨漏りがし、外板各柱とも腐食し、台枠は歪曲、窓枠も腐食しているという酷い状態であったが、ブレーキを制御管式に改造し、車体内外を大改修し[22]、台車や通風器は交換された[23]。1970年に休車となり、流山駅構内に留置され、石蹴りの標的になっていた。車体を更新して再度利用する話もあったが[24][30]、1970年代後半に廃車となる。車歴は、豊川附23(1927年)→豊川クハ62(1937年)→国鉄クハ62(1943年)→国鉄クハ5601(1953年)→流山クハ51(1960年)→休車(1970年)[26]
  • ファイル:Nagareyama line kuha52.jpg
    クハ52(1983年12月27日)
    クハ52 - 西武クハ1215を1963年に譲受[31]。元武蔵野鉄道サハ2321。車歴は、デハ1323→モハ223→モハ217→クハ1213(流山の書類ではクハ1215を購入したことになっている)→流山クハ52[22]。西武時代は密着連結器を装備していた[32]。木製の窓枠の痛みが目立ち、1975年度中に車体を更新する予定であったが[24]、1977年に日本電装で外板と屋根布の張り替えなどの更新を行った[29]。車歴は、武蔵野デハ1323(1927年)→西武農業デハ1323(1945年)→西武デハ1323(1946年)→西武モハ223(1948年)→西武モハ217(1954年)→西武クハ1213(1958年)→流山クハ52(1963年)[26]。1988年廃車。
  • クハ53 - 富士山麓電気鉄道ロハ901を1969年に譲受。元青梅鉄道モハ103。富士急行で使用されていた車体をそのまま使用[32]。国鉄時代に電装解除されたようだが詳細は不明[24]。車歴は、青梅モハ103(1928年)→国鉄モハ103(1928年)→富士急ロハ300(1949年)→富士急ロハ900(不明)→流山クハ53(1968年)[26]
  • クハ55 - 東濃鉄道クハ211を1975年に譲受。元西武クハ555名鉄鳴海工場で検査および塗装して流山に入線する[24]。車歴は、(旧)西武クハ605(1927年)→(旧)西武クハ1106(1940年)→西武農業クハ1106(1945年)→西武クハ1106(1946年)→西武クハ1156(1948年)→東濃クハ211(1963年)→流山クハ55(1975年)[26]。1981年廃車。
ファイル:総武流山電鉄・クハ55(1978年)(s11-24).jpg
クハ55(鰭ヶ崎 - 平和台間、1978年3月19日)


改軌後(軌間1067mm)の車両

駿豆鉄道から蒸気機関車2両(No.15・No.16)を借り入れ、後に正式に購入した。客車は国鉄から4輪客車を3両購入し、貨車も国鉄から購入した。1933年から1934年にかけて内燃動力の併用認可を得て、4輪ガソリンカーを2両(キハ31・キハ32)を新製で購入。当時は鉄道で内燃動車が実用化された頃で、経済性とフリークエントサービスを目的に採用した。ガソリンカーの導入により客車は休車となり、その後廃車。蒸気機関車は貨物及び入換専用となった。1938年には国鉄から蒸気機関車(No.105・No.1255)を購入し、No15とNo.16を廃車にした[18]

蒸気機関車

蒸気機関車は、本鉄道所有機が4輛、国鉄からの借用機が1輛在籍していた。

  • 形式 - 甲2 [34]、番号 - 15・16ボールドウィン製B形サドルタンク。車軸配置 2-4-2、動輪直径 953mm[35]、動輪ホイールベース 1524mm、先従輪直径 610mm、先従輪間のホイールベース 5398mm、車高〈キャブ屋根〉2845mm。1890年製。北海道炭砿鉄道が輸入し、No.15・No.16となる。その後、1898年豆相鉄道へ2両共譲渡され、豆相鉄道の電化に伴い1924年に流山鉄道に移り、流山鉄道で最期を迎える[36]。代価は2両で15,800円。1933年にガソリンカーが入線するまで旅客及び貨物輸送を担っていたが、それ以降は貨物輸送専門となる。映画『牛づれ超特急[37]』にも出演したことがある。1938年11月14日付でNo.16が、1939年1月16日付でNo.15が廃車となる[38][39]
  • 形式 - 105、番号 - 105[34]、B形サイドタンク。車軸配置 2-4-0、動輪直径 1370mm。1913年秋田鉄道(現・JR花輪線カー・スチュアート社から購入した機関車(製番1198)で、秋田鉄道が国鉄に買収された時に「105」という形式が付けられた。1938年に流山に入線した(11月21日付払下認可、1月12日付使用開始)[34]。「105」という番号は国鉄の型式番号をそのまま継承する。貨物列車用及び入換用として電化後まで使用される[39]1951年5月に日車東京支店に売却された。番号については、『鉄道趣味』(No.25)では国有後も秋田鉄道時代と同番号で使用された、とある。秋田鉄道に入線した時の番号は「4.1」(4は動輪数、1は番号を表すそうである)であったらしい[41]
  • 形式 - 1255、番号 - 1255 [41]ピッツバーグ製C形サイドタンク。車軸配置 0-6-0。1897年製。ドームは3個ある[41]。105号機と共に国鉄から購入し、貨物列車用及び入換用として電化後まで使用し[39]1938年から1954年まで走り続けた[41][43]。『鉄道ピクトリアル』(No.20 1953年3月号 p28)には「1938年11月21日払下認可、1939年4月29日付使用開始」とある。この機関車の経歴は、阪鶴鉄道 No.3(1987年)→高野鉄道 No.3(1905年6月)→南海鉄道 No.3(1922年9月)→庄川水電 No.不明(1925年7月)→新宮鉄道 No.7(1930年頃)→鉄道省 No.1255(1934年7月買収)→流山鉄道 No.1255(1938年11月)。帳簿上はボールドウィン製になっているが、シリンダー上部を石でこすると「PITTSBURGH」の文字が判読できる。太平洋戦争中に機銃掃射を至る所に受けて、その穴を埋めた跡がある(「蒸気機関車No.1255の被弾」を参照)。1952年12月まで馬橋駅での貨車入換専用であったが、ディーゼル機関車DB-1の入線によりその仕事がなくなった[41]1955年10月25日に流山車庫で解体された(廃車年月日は不明)[38]
  • 借用機
    • 形式 - 1325、番号 - 1325。1911年アルコ・ロジャース製。1944年に国有化された西日本鉄道のNo.8である。この機関車は借用機で、田端機関区に私鉄貸出用としてあった機関車である。電化後に入線して、1951年の春頃まで在籍していたようである。本社の話によると、整備して使用する予定でいたが、余りにも状態が酷くて使用できなかったそうである。同年正月の時点では全体が赤錆ていた[41][44]
ディーゼル機関車

ディーゼル機関車は、馬橋駅での貨車入れ換え用機と1輛在籍していた。

  • ファイル:総武流山電鉄・馬橋駅・DB-1(1981年)(s18-11).jpg
    廃車後のディーゼル機関車DB-1(1981年5月15日)
    DB-1 - 森製作所製。凸型B型ロッド式10t機関車。老朽化した蒸気機関車No.1255に代わって導入されディーゼル機関車で、馬橋駅での入換専用であった。1952年12月20日付認可で入線した。エンジンは三菱日本重工製の130PS(2000rpm)、ホイールベース 2000mm、車輪径 660mm、製番 3299、プレートには10月製とある。エンジンは馬橋側のボンネットにあり、流山側には変速機と逆転機、バッテリーなどがある。1966年頃は1日2回程出場して入換作業をしていた。1970年代は休車状態になり、その後は夜間の保線用資材の運搬などに使用された。1975年には保線機械への改造が計画されていた[24]1977年4月1日付で貨物営業が廃止され、1978年5月31日付で廃車となり、1981年6月に解体処分された[45][41][46][47]
バッテリー機関車
  • 番号不明 - メーカー・製造年不明。キャブは木造で、車体は凸型かL型、動力はバッテリーと推察される。馬橋駅構内での入れ換え機である。車籍は本鉄道か国鉄と推察されるが、不明である。1965年1月に馬橋駅構内で稼働していることが確認されている[48]
ガソリンカー

ガソリンカーは、2輛在籍していたが、2輛とも後に動力装置を外され、客車として使用された後で廃車となった。

ファイル:Nagareyama-tetsudou kiha31.JPG
流山市総合運動公園に静態保存されている、1933年 - 1949年に走っていたガソリンカーキハ31形 2007年 
  • キハ30形・ キハ31  - 1933年3月汽車会社製の半鋼製2軸ガソリンカーである(→写真)。定員40名(座席20名)。同年4月から使用を開始し、電化されるまで旅客輸送の主力車両であった。窓・ドア配置は「F3-1D5D1」で、馬橋側に荷台がある。また、ドアにはステップが付いている。エンジンはフォードBB 4気筒 29kW(1600rpm)。座席はロングシート。1952年秋にエンジンと運転装置が撤去され、ラッシュ時に電車に牽引されて使用された。1959年に荷台の部分を窓1個だけ客室を延長してサハ31と改称した(窓・ドア配置は「F3-1D6D1」)。1963年5月15日付で廃車となった[49][46]。なお、キハ31は現在エンジンをおろした客車時代の姿で流山市総合運動公園に静態保存されている。
  • キハ30形・キハ32 - 1934年10月汽車会社製の半鋼製2軸ガソリンカーである。車体寸法はキハ31とほぼ同じ。同年12月から使用を開始した。窓・ドア配置は「F3-1D5D1」である。エンジンはウォーケシャー6mS 6気筒 42kW(1600rpm)。当時の燃料事情を反映して木炭ガス発生装置[51]が取り付けられていたのだが、成績不良のため、1944年末に撤去され、その跡は荷台となり、前後両端に荷台を持つことになった。1934年にこの装置が取り付けられた経緯は、政府がその装置の費用の半額以内(最高300円)の補助金を与えたからである[52]1950年9月にエンジンと運転装置を撤去しサハ32となったが、実際には1949年にエンジンを撤去している。廃車は1963年5月15日付。1966年頃は車体のみが流山で物置になっていた[49][46]
客車
ファイル:流山電気鉄道・サハ32.jpg
サハ32〔荷台付〕(流山駅、永井信弘
ファイル:総武流山電鉄・流山駅・サハ31(1979年)(s14-27).jpg
廃車後のサハ31車体〔荷台無し〕(流山駅、1979年9月)
ファイル:総武流山電鉄・流山駅・サハ31(1977年)(s1-16b).jpg
色褪せた廃車後のサハ31車体(流山駅、1977年3月25日)

客車は、本鉄道所有車が5輛(うち2輛はガソリンカーからの動力装置を外した二軸車)、国鉄からの借用車が4輛在籍していた。

  • フハ11 - 改軌の際して国鉄から購入した木造4輪2・3等合造車。1923年12月21日付で認可を得て入線。国鉄での車番はフロハ920(形式フロハ920)で、新橋工場製である[53]。初期の国産客車で、非貫通の区分席形[54]。であった。この客車は並等車として使用された。1933年にガソリンカーが入線したため、1937年3月5日付で廃車になった[46]
  • フロハ21 - 改軌の際して国鉄から購入した木造4輪2・3等合造車。1923年12月21日付で認可を得て入線。国鉄での車番はフロハ925(形式フロハ924)で、神戸工場製である[53]。初期の国産客車で、非貫通の区分席形[54]。であった。この客車は合造車として使用された。1933年にガソリンカーが入線したため、1937年3月5日付で廃車になった[46]
  • ハニ1 - 木造4輪3等荷物合造車。山陽鉄道兵庫工場製。国鉄から購入。旧番号はハニ3560(形式3558)。入線は1924年9月30日付で認可を受けた。1933年にガソリンカーが入線したため、1937年3月5日付で廃車になった[46]
  • サハ31 - キハ31の項目を参照。
  • サハ32 - キハ32の項目を参照。
  • 借用車
    • キハ502 - 1945年1月26日付の認可で、客車代用として国鉄から借り入れ。五日市鉄道南武鉄道買収車である。1年間使用し、その後、茨城交通ケハ502となった[55]
    • キハ42000形(42033)- 1948年頃に国鉄から一時的にエンジンなしで借り入れた車両で、電化後に返還された。ラッシュ時には小型ガソリンカーのキハ31とキハ32では輸送力不足なので、この42033を蒸気機関車で牽引して使用した。国鉄へ返還後はガスカー キハ42200形となった[49]
    • ナハ23818 - 1949年7月に国鉄から借り入れた4輪ボギー客車である。借入代金は1日850円であった。借入後2ヶ月で返還した[44]
    • ヤ5010 - 1949年10月、国鉄の都合で返還したナハ23818の代車として借り入れ、電化まで使用され、その後返還した[44]
貨車

貨車は、本鉄道で有蓋車と無蓋車を保有していた。


保線車輛等

保線車両等にはキャブ付タンク車、トロッコ、車輛整備時に使用する台車などがある。

  • トロッコ - トロッコは本鉄道検車区で製作する[60]


軽便鉄道(軌間762mm)時代の車両

流山市立博物館に写真が展示されている(2004年時点)。

開業時に準備した車両は蒸気機関車・客車・貨車がそれぞれ2両であり、営業運転上最小限の必要両数であった。この状態は電化時まで続けられた。蒸気機関車のうちC形9t機は使用を中止し、頸城鉄道の3号機(初代)を代わりに購入。その後、雨宮製作所製のB形6t機を購入して3号機とし、1号機を売却。さらに田中鉱山からB形5.7t機を購入して4号機とし、2号機を売却した[61]

蒸気機関車(軌間762mm)

(※参考文献によって、No.1とNo.2の車歴の記述が異なり、その影響で、この2輛の後継機となるNo.3とNo.4の当鉄道への入線経緯が錯綜することに注意)

  • 1号機(No.1)- コッペル製。頸城鉄道から購入[62](1915年月4日付認可)。1914年製のB形4.7t機。主力機関車として改軌直前まで活躍したが、No.3と交替し、1922年1月26日付認可で東京の永井弥五郎商店へ売却した[18]。本機は二つの動輪の間にシリンダーがある非常に珍しい構造であった[63]
  • 2号機(No.2)- 1909年製のコッペルB形5.2t機。No.1と共に開業に先立ち購入した(1916年3月11日付認可)[18]。ドイツから輸入後の約1年半、川崎付近で土木工事に使用されていたものを購入した、と言われている。一説によると、品川駅の後ろの海の埋め立て工事に使用されていた、とも伝えられている。土木工事用の機関車であったことは事実のようである[62]。購入時にはすでに相当損傷していたようで、当鉄道では手離したかったが、改軌直前まで活躍し、1924年10月13日付認可で東京本所(現・東京都墨田区)の横田鉄太郎に譲渡した[18]。本機の車歴はこのように伝わっていたが、本機は土木業者・大丸組が品川海岸の埋立て工事に使用していた機関車を当鉄道が購入したがすぐに交換として頸城鉄道へ転出させ、実際には使用されておらず、代わりに入線したがのNo.1であり、それと混同されてしまったらしい[63]。金田茂裕『O&Kの機関車』によれば、1909年製の製造番号 3613 - 3615のうちの1両と推定されている。
  • 3号機(No.3)- No.1の老朽化により代替機として購入(1922年4月9日認可)。雨宮製作所製のB形6t機。製造年、前歴などは不明。書類には「既製新品」とある。改軌まで活躍したが、1925年2月21日付で廃車になった[18]
  • 4号機(No.4)- B形5.7t機。製造年、メーカー共に不明。1924年6月18日付認可で田中鉱山(釜石)から入線。No.2の代替機として入線したが、認可時より1年以上早く入線したようである。当機認可時(1924年)にはすでに改軌認可が出た後であった。改軌後の1925年2月21日付で廃車になった[18]。金田茂裕によれば、2号機と同形の1908年コッペル製の釜石鉱山鉄道16を譲り受けたものとしている。
  • 未購入機・代替機
    • コッペル製C形9t機(1911年製)- 設計認可を得たが、購入しなかった機関車である[18]
    • 水管式6t機 - 製造所などは不明。No.2の状態が悪いため、No.2購入時の服部商店に対して代替機の斡旋を要求し、服部商店は水管式6t機を提示し、1917年1月30日に入線し試験運転を行ったが、成績不良で返還された[18]
客車(軌間762mm)
  • ロハ1・2 - 開業に際して、大日本軌道鉄工部で新造した[64]木造4輪ボギー特並合造車で、認可は1916年3月2日付。妻面3枚窓の非貫通、両端デッキ、側面の窓は8個。室内はロングシートで、室内灯は油灯であったが、1924年に電灯に改造された。改軌後は廃車となり、小坂鉄道に売却されハ10・ハ11となり、後に有蓋荷物緩急車ホニ1・ホニ2に改造された[38][64]。ホニ1・ホニ2の主要諸元は、台車ホイールベース 1016mm、車輪直径 610mm、台車中心間 4267mm[65]。車内には3HPの発電用ガソリンエンジンを搭載していた[64]
貨車(軌間762mm)
  • ワフ1(有蓋車)- 4t積み。大日本軌道で新製。改軌に伴い廃車となる[38]
  • トフ1(無蓋車)- 4t積み。大日本軌道で新製。改軌に伴い廃車となる[38]
  • 4輪緩急車 - 大日本軌道で新製。改軌に伴い廃車となる[38]

テレビ・映画

映画『牛づれ超特急』(1937年)
ボールドウィン製サドルタンク機(形式 - 甲2)が登場する映画[37][66]
NHK総合テレビ『小さな旅』(1994年)
1994年平成6年)2月13日(日)午前8時からNHK総合のテレビ番組『小さな旅』で「ぬくもりが街に香る・千葉県流山市」が放送され、江戸川万上みりんを製造するキッコーマン流山工場とともに流山線も紹介され、流山駅を発車する「若葉」と鰭ヶ崎駅に到着した「あかぎ」の姿が放送された。NHKによる取材は同年1月19日から1月25日にわたり行われた[67]

脚注

  1. 券売機・路線図表記とアナウンス
  2. “総武流山電鉄 社名と線名を変更”. 鉄道ニュース > 最新鉄道情報 (鉄道ホビダス) (2008年6月27日). http://rail.hobidas.com/news/info/article/86164.html. 
  3. 3.0 3.1 3.2 『歴史でめぐる鉄道全路線 公営鉄道・私鉄』21号 3頁
  4. 安全報告書 2009、流鉄株式会社、p. 3 (2009)。
  5. 馬橋駅、JRと流鉄の線路は美しくつながっています!
  6. 鉄道運賃の改定について (PDF) - 流鉄、2014年3月10日(2014年4月8日閲覧)
  7. 流山駅時刻表
  8. 馬橋駅時刻表
  9. 流鉄について(流山市都市計画課 交通計画推進室)内に改正情報。
  10. 流鉄流山線イベント booty公式サイト
  11. 安全報告書 2012 (PDF) 、流鉄株式会社 (2012)
  12. 12.0 12.1 安全報告書 2013 (PDF) 、流鉄株式会社 (2013)
  13. 車と衝突、電車脱線 車の2人死亡 千葉・流鉄流山線 - 朝日新聞デジタル、2014年7月12日
  14. 安全報告書 2009、流鉄株式会社 (2009)
  15. 流鉄2000形「なの花」のさよなら運転実施 - 『鉄道ファン』交友社 railf.jp鉄道ニュース 2013年4月29日
  16. ちばの鉄道一世紀』(p204)より。
  17. 流山電鉄七十八年』(p50)より。
  18. 18.0 18.1 18.2 18.3 18.4 18.5 18.6 18.7 18.8 鉄道ピクトリアル』1966年7月臨時増刊号(p57)より。
  19. 世界の鉄道 '75』(p160)より。
  20. 鉄道ピクトリアル』1966年7月臨時増刊号(p10, p60)に単行走行中の写真が掲載されている。
  21. 鉄道ピクトリアル』1966年7月臨時増刊号(p54)にモハ101が牽引する混合列車、『戦後を走った木造車1』(p103)にモハ105が牽引する混合列車の写真が掲載されている。
  22. 22.0 22.1 22.2 22.3 22.4 22.5 22.6 鉄道ピクトリアル』1966年7月臨時増刊号(p60)より。
  23. 23.0 23.1 23.2 23.3 23.4 世界の鉄道 '75』(p63)より。
  24. 24.0 24.1 24.2 24.3 24.4 24.5 鉄道ピクトリアル』1975年11月号(p67)より。
  25. 25.0 25.1 25.2 25.3 25.4 25.5 鉄道ピクトリアル』1953年3月号(p30)より。
  26. 26.00 26.01 26.02 26.03 26.04 26.05 26.06 26.07 26.08 26.09 26.10 鉄道ピクトリアル』1975年11月号(p68)より。
  27. 27.0 27.1 鉄道ピクトリアル』1983年6月臨時増刊号(p128)より。
  28. 「(旧)西武」とは、現在の西武新宿線を主とした鉄道で、1945年に武蔵野鉄道と合併し、西武農業鉄道となり、翌年西武鉄道と社名を改称した鉄道のこと --『鉄道ピクトリアル』1975年11月(p68)より。
  29. 29.0 29.1 『鉄道ピクトリアル』(No.418 1983年6月臨時増刊号 p129)より。
  30. 世界の鉄道 '75』(p63)では「予備車」となっている。
  31. 世界の鉄道 '75』(p161)より。
  32. 32.0 32.1 世界の鉄道 '75』(p62)より。
  33. 鉄道模型趣味』1951年6月号「口絵写真」より。
  34. 34.0 34.1 34.2 鉄道ピクトリアル』1953年3月号(p27)より。
  35. 1号機関車からC63まで』(p34)では動輪直径が953mmとなっているが、「北海道炭礦鉄道15号形蒸気機関車」では914mmとなっている。
  36. 1号機関車からC63まで』(p34)より。
  37. 37.0 37.1 ちばの鉄道一世紀』(p204)より。『鉄道ピクトリアル』1966年7月臨時増刊号(p58)では『牛のろ超特急』と書かれているが、Googleで検索すると、『牛づれ超特急』は見つかるが、『牛のろ超特急』は見つけられなかった。『牛づれ超特急』は、製作は東宝映画(東京撮影所)。1937年11月3日、大阪千日前敷倶楽部。10巻 2,151m 79分 白黒。出演は藤原釜足など。『牛づれ超特急』はNo.15(1939年廃車)とNo.16(1938年廃車)が廃車になる前に製作された映画である。
  38. 38.0 38.1 38.2 38.3 38.4 38.5 鉄道ピクトリアル』1966年7月臨時増刊号(p58)より。
  39. 39.0 39.1 39.2 総武流山電鉄七十年史』(p94)より。
  40. 鉄道ピクトリアル』1953年3月号「第2図 105号形式図」(p28)より。
  41. 41.0 41.1 41.2 41.3 41.4 41.5 41.6 鉄道ピクトリアル』1953年3月号(p28)より。
  42. 引用エラー: 無効な <ref> タグです。 「鉄道ピクトリアル No.20 p28」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません
  43. 「町民鉄道」の60年』(p55)より。
  44. 44.0 44.1 44.2 鉄道ピクトリアル』1966年7月臨時増刊号(p61)より。
  45. 総武流山電鉄七十年史』(p98)より。
  46. 46.00 46.01 46.02 46.03 46.04 46.05 46.06 46.07 46.08 46.09 46.10 鉄道ピクトリアル』1966年7月臨時増刊号(p59)より。
  47. 森製作所の機関車たち』(p82)より。
  48. 鉄道写真集 ジュラ電からSL終焉まで』(p194)より。
  49. 49.0 49.1 49.2 鉄道ピクトリアル』1953年3月号(p29)より。
  50. 鉄道ピクトリアル』1953年3月号「第6図 キハ32形式図」(p29)より。
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  53. 53.0 53.1 流山の記録ではフロハ920フロハ925の製造所が逆になっているが、ここでは『客車略図』(1911年、明治44年)(国立国会図書館デジタルコレクション)に従う --『鉄道ピクトリアル』1966年7月臨時増刊号(p58)より。
  54. 54.0 54.1 室内のクロスシートが車幅全幅にわたっており、各座席ごとにドアがある --『鉄道ピクトリアル』1966年7月臨時増刊号(p58)より。
  55. 内燃動車発達史 上巻』(p86)より。
  56. 56.0 56.1 56.2 56.3 56.4 56.5 鉄道ピクトリアル』1966年7月臨時増刊号(p60)より。
  57. 台枠には雨宮製作所の製造銘版があった --「遠い日の総武流山電鉄。(下)」『編集長敬白』(2008年01月28日 09:08)の写真参照。
  58. DETAIL FILE 2/私鉄の車輌たち』(p115)より。
  59. ト1と思われる --「遠い日の総武流山電鉄。(下)」『編集長敬白』(2008年01月28日 09:08)より。
  60. レイル・マガジン』1985年12月号(p42)より。
  61. 鉄道ピクトリアル』1966年7月臨時増刊号(p56)より。
  62. 62.0 62.1 総武流山電鉄七十年史』(p91)より。
  63. 63.0 63.1 引用エラー: 無効な <ref> タグです。 「ちばの鉄道一世紀 p203」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません
  64. 64.0 64.1 64.2 とれいん』1975年1月号(p48)より。
  65. とれいん』1975年1月号(p49)より
  66. No.15とNo.16の両方が登場するのか、あるいはどちらか一方だけが登場するのか、不明。
  67. 流山電鉄七十八年』(p10, p11)より。

参考文献

ウェブサイト

書籍

年刊誌『世界の鉄道』(朝日新聞社)

  • 『世界の鉄道 '75』 朝日新聞社 編、朝日新聞社、1974年。

月刊誌(増刊号含む)『とれいん』(プレス・アイゼンバーン)

月刊誌(増刊号含む)『Rail Magazeine』ネコ・パブリッシング

月刊誌(増刊号含む)『鉄道ピクトリアル』(鉄道図書刊行会)

  • 谷知幸「総武流山電鉄」、『鉄道ピクトリアル』No.620  1996年4月号臨時増刊〈特集〉関東地方のローカル私鉄、鉄道図書刊行会
  • 宮田敦彦関健一「総武流山電鉄」、『鉄道ピクトリアル』No.418  1983年6月号臨時増刊 関東地方のローカル私鉄特集、鉄道図書刊行会。
  • 立教大学鉄道研究会「総武流山電鉄」、『鉄道ピクトリアル』No.312  1975年11月号 ★学鉄連研究シリーズ[7]、鉄道図書刊行会。
  • 宮沢元和「流山電気鉄道」、『鉄道ピクトリアル』No.186  1966年7月号〈臨時増刊〉私鉄車両めぐり 第7分冊、鉄道図書刊行会。
  • 青木栄一「流山電気鉄道」、『鉄道ピクトリアル』No.20  1953年3月号 私鉄車両めぐり(6)、鉄道図書刊行会。

月刊誌『鉄道模型趣味』(機芸出版社)

月刊誌『散歩の達人』(交通新聞社)

辞典

  • 高橋政士 『詳解 鉄道用語辞典』 山海堂、2006年5月30日 第1刷発行、初版。ISBN 978-4381085955。

関連文献

論考

書籍

雑誌

関連項目

  1. 鉄道忌避伝説の謎』(p21)より。

外部リンク