浅沼稲次郎暗殺事件

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浅沼稲次郎暗殺事件
場所 東京都千代田区
標的 浅沼稲次郎日本社会党委員長
日付 1960年昭和35年)10月12日
武器 銃剣
死亡者 浅沼稲次郎
犯人 山口二矢
容疑 殺人罪
動機 社会党への抗議
対処 山口の逮捕
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浅沼稲次郎暗殺事件(あさぬまいねじろうあんさつじけん)は、1960年(昭和35年)10月12日東京都千代田区にある日比谷公会堂において、演説中であった浅沼稲次郎日本社会党委員長が17歳の右翼少年・山口二矢暗殺された事件のこと。

事件の概要

この日、日比谷公会堂では近く解散総選挙が行われる情勢で、自民党社会党民社党3党党首立会演説会「総選挙に臨む我が党の態度」(東京選挙管理委員会・公明選挙連盟<現・(公財)明るい選挙推進協会>NHK・日本放送協会が主催)が行われていた。会場は2500人の聴衆で埋まり、西尾末広民社党委員長、浅沼社会党委員長、池田勇人自民党総裁の順で登壇し演説することになっていた。

浅沼委員長は午後3時頃演壇に立ち「議会主義の擁護」を訴える演説を始めた。浅沼委員長が演説を始めた後右翼団体の野次が激しくなり、ビラを撒く者も出たので、司会を務めるNHKの小林利光アナウンサーが「会場が騒々しくなってきまして、お話を聞きたいという方の耳に届かないと思います。最前列には新聞など報道機関の方が取材に訪れていますが、取材の余地がないほど騒々しいですので、ご静粛願います」と自制を求めると、場内には拍手が起き、一瞬野次が止まった。それを見計らって浅沼委員長は自民党の選挙政策についての批判演説を続けた。

浅沼委員長が「選挙の際は、国民に評判の悪い政策は、全部伏せておいて、選挙で多数を占むると……」と言いかけた午後3時5分頃、山口が壇上に駆け昇り、持っていた刃渡り33センチメートルの銃剣で浅沼委員長のを2度突き刺した。浅沼委員長はよろめきながら数歩歩いたのち倒れ、駆けつけた側近に抱きかかえられてただちに病院に直行した。秘書官は浅沼委員長の体を見回し、出血がなかったことから安心したが、それは巨漢ゆえに傷口が脂肪で塞がれたために外出血が見られなかっただけのことであり、実際には一撃目の左側胸部に受けた深さ30センチメートル以上の刺し傷によって大動脈が切断されていた。内出血による出血多量によりほぼ即死状態で、近くの日比谷病院に収容された午後3時40分にはすでに死亡していた。側近によれば、浅沼委員長は運ばれる途中踊り場で絶命したという。この殺害行為の発生により、演説会はそのまま打ち切られた[1]

山口はその場で現行犯逮捕、取調べに対し山口は若年ながら理路整然と受け答えしていたという。11月2日夜、東京少年鑑別所の単独室で、白い歯磨き粉を溶いた液で書いた[2]「七生報国 天皇陛下万才」(原文ママ)の文字を監房の壁に残した後自殺した。また、この事件で警視庁は山口のほかに「全アジア反共青年連盟」責任者・吉松法俊(当時32歳)を恐喝右翼団体防共挺身隊」の福田進隊長(同・32歳)を公正証書原本不実記載および強要、また大日本愛国党赤尾敏総裁(同・61歳)を威力業務妨害容疑で、それぞれ逮捕した。

公党の党首に対する攻撃を防げなかったとして山崎巌国家公安委員会委員長が引責辞任し、この事件を機に刃物の追放運動が全国に広がるようになった。また要人警護の不首尾も問題となり[3]、以降は警護の手法が“目立たないように”から“見せる警護”へと改められた。

事件と報道

この立会演説会には、上記に説明したとおり、NHKが共催として参画しており、NHKのラジオ第1放送で生中継されていた。そのため、事件の一部始終はラジオを通じてそのまま同時に日本全国へ放送された。また日本シリーズ第2戦(大洋×大毎戦、川崎球場)中継のため15時45分からの録画中継を予定していたNHK総合テレビも、15時13分に野球中継を急遽中断してテロップ速報を出し、15時21分には事件の生々しい様子を収めた映像を放送した。さらに日本シリーズ試合終了後の15時43分には、臨時ニュースで浅沼委員長の死亡が報道された。

その後も犯行の瞬間を捉えた映像が何度も放送された。犯行場面の放送については賛否両論が相次いだ。当時のNHKの佐野弘吉報道局長の話によると、報道映像としての意味を重視して放送に踏み切ったことを語った。この日NHKと民放各局は、通常の番組を変更して報道特別番組を編成した。特別番組ではいずれも民主主義議会制度を否定する暴力が非難され、暴力の排除が強く訴えられた。

事件はまた、放送そのものにも影響をもたらした。事件以前から指摘されており方針が決まっていたテレビ番組からの暴力場面の追放の動きについても、この事件がきっかけとなって大きく加速していった。

毎日新聞社長尾靖カメラマンは、山口が浅沼委員長にとどめを刺そうとする瞬間、突かれて眼鏡がずり落ちる浅沼委員長をカメラに装填してあった最後の一枚で撮影し、長尾カメラマンのその写真UPI通信社を通じて世界各国に配信され、日本人初のピューリッツァー賞を受賞している。

なお、現在昭和史を扱ったドキュメンタリーなどで使われる犯行の瞬間の映像は、当時の慣例で映像をキネレコ方式で転写し保存されているものがよく使われているが、オリジナルのVTR映像もNHKで保存されており、1983年のテレビ放送開始30周年記念番組の冒頭で、事件発生数分前からノーカットで放送されたほか、2003年放送記念日特集番組でも放送されている。

また、以前はそのままで放映されていたが近年ではテレビ放映に際して、山口が未成年者であったことからマスコミ各社は氏名を伏せる他、の部分を隠す加工が行われることもある。

事件の影響

事件前、総選挙は安保闘争の盛り上がりから一転、池田内閣は所得倍増計画などの経済政策を前面に押し出すことで世間の耳目を集め、迫る選挙戦は自民党の安泰ムードとなっていた。その最中に起こった凶行は、ムードが一変する可能性をもっていた。この日の夕方、早くも東京都内の各所では池田内閣の責任追及の抗議デモが発生、社会党も池田内閣の総辞職を要求してくるなど、池田内閣は発足以来最初の危機を迎えていた。

池田内閣は、この日の夕方「暴力を根絶する」との大平正芳官房長官による政府声明を発表する一方、翌13日の臨時閣議で、時の山崎巌国家公安委員長を政治責任をとる形で辞任させるなど、素早い対応をとった[4]。池田と極めて親しかった産経新聞吉村克己記者は浅沼が刺された瞬間をデスクのテレビで見ており、「この事件が政争のネタになったら、まさしく安保闘争の二の舞になる」と危惧し、池田邸を訪れて、数日後に迫る臨時国会を浅沼追悼国会として「池田総理自ら追悼演説をやるのが最良の方策です」と池田に進言[5]。池田はこの進言を受け入れ、10月18日衆議院本会議で、伊藤昌哉秘書の手による追悼演説を行った。この追悼演説は今日でも名演説として知られている(池田勇人#語録)。追悼演説によって、世論にある程度の納得を与えて、社会党としても上げた手の降ろしどころがなくなった[4][6]

この浅沼追悼演説は、初めて政治というものを世論という土俵の上に引き出す切っ掛けになったという点で、戦後社会に大きな意味を投げかけた[7][4]。仮に池田内閣がそれまでの政権同様、高圧的な手法でこの事件に対応していたら、池田内閣はその時点で潰れていた可能性もあり[4]、世論の反発を入れて追悼演説を行ったことにより、日本に初めて民主主義が根をおろしたとも論じられる[4]

10月24日、衆議院は解散した。11月20日投開票された第29回衆議院議員総選挙では、自民党は追加公認込みで300議席と圧勝した。社会党は18議席増の145議席だったが、民社党離反の痛手を埋めるには至らなかった。民社党は23議席減の17議席と惨敗した。そして社会党は、浅沼委員長の追悼ムードが薄れると、構造改革をめぐる党内抗争に突入していった。

また、経団連(旧経済団体連合会)会長で東芝石坂泰三社長は「暴力行為は決していいものではない。だがインテリジェンスのない右翼の青年がかねて安保闘争などで淺沼氏の行為を苦々しいと思っていて、あのような事件を起こした気持もわからないではない」と山口に同情的な発言をしたため、批判を受けた。経団連は自民党の有力な支援組織であるが、社会党にも少額の献金をしていた。安保闘争をきっかけに、経団連では社会党への献金を中止すべきとする意見が出されていたが、石坂社長の失言で、社会党への献金も続けることになった。

一水会元代表の鈴木邦男現顧問も山口と同じ17歳の時テレビニュースで事件を知り、そして右翼活動に身を投じるきっかけとなったと語った。

犯人の山口は少年だったこともあり、この事件をきっかけに「子供に刃物を持たせない運動」が始まった。それにより、それまでは鉛筆削りや工作に使用されていた肥後守を始めとする刃物が子供から取り上げられ、以後続く刃物規制[8]の始まりの一つとなった。

脚注

  1. 毎日映画社製作「毎日新聞ニュース」第307号・暴力を憎む-浅沼暗殺事件の前後- 1960年10月19日(映画館上映のニュース映画
  2. 一部で「血書」とされているが誤り。
  3. ニュース映像では、首相である池田を守るSPがおらず、大混乱となった壇上で呆然と立ち尽くす姿が収められている。
  4. 4.0 4.1 4.2 4.3 4.4 小林, pp. 12-17.
  5. 吉村, pp. 56-62.
  6. 自民党の歴史 長期政権化とそのひずみ 社会ニュースAll About
  7. 第34集 日本労働年鑑 1962版 大原社会問題研究所
  8. 昭和38年4月5日公布の銃砲刀剣類所持等取締法改正法

参考文献

  • 小林吉弥 『花も嵐もー宰相池田勇人の男の本懐』 講談社、1989年。ISBN 4-06-204404-8。
  • 沢木耕太郎 『テロルの決算』 文藝春秋〈文春文庫〉、1982年、ISBN 4167209047。
  • 吉村克己 『池田政権・一五七五日』 行政問題研究所出版局、1985年。ISBN 4905786436。

関連項目

外部リンク


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