浅野幸長

提供: miniwiki
2018/8/6/ (月) 09:04時点におけるAdmin (トーク | 投稿記録)による版 (1版 をインポートしました)
(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
移動先:案内検索
浅野幸長
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 天正4年(1576年
死没 慶長18年8月25日1613年10月9日
主君 豊臣秀吉秀頼徳川家康秀忠
紀伊和歌山藩
氏族 浅野氏


浅野 幸長(あさの よしなが)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将大名紀伊国和歌山藩(紀州藩)初代藩主浅野氏15代当主。

生涯

天正4年(1576年)、近江国浅井郡小谷[1]浅野長政の長男として生まれる。父は豊臣秀吉の正室・ねね(高台院)の義弟で、豊臣政権では五奉行の1人となっている。

天正17年(1589年)、従五位下・左京大夫に叙任される。天正18年(1590年)、小田原征伐で初陣し、父・長政と共に岩槻城を攻める。この頃、前田利家の五女[2]与免と婚約するが、嫁ぐ前の文禄2年(1593年)に早世した。同年の文禄の役では、朝鮮へ渡海して西生浦に拠る。また、父と共に甲斐国府中21万5千石[3]を与えられる。しかし、文禄4年(1595年)、関白豊臣秀次の失脚に連座し、能登国津向に配流されたが、前田利家・徳川家康の執成しもあり、まもなく復帰した。

慶長2年(1597年)、慶長の役では、再び渡海して西生浦に着陣し、その後蔚山城(現在の蔚山広域市内)に拠って将・李如梅の軍と戦った。慶長3年(1598年)、秀吉の死去に伴い朝鮮より撤退し、その後は黒田長政加藤清正福島正則らの武断派七将)に与して、五奉行文治派石田三成らと対立。慶長4年(1599年)、前田利家の死後に他の武断派らと共に石田三成を襲撃した。

ファイル:Site of Asano Yoshinaga's Position.jpg
垂井一里塚にある関ヶ原の戦いの浅野幸長陣跡(岐阜県不破郡垂井町

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは徳川家康率いる東軍に属し、池田輝政らと岐阜城を攻略、9月15日の合戦の当日には南宮山の毛利秀元長束正家などの西軍勢に備え、垂井一里塚付近に陣を構えた。 戦後、紀伊和歌山37万6千石を与えられる。同年、従四位下・紀伊守に叙任された。慶長8年(1603年)、豊臣姓が確認される[4]。慶長16年(1611年)、加藤清正と協力して二条城における家康と豊臣秀頼の会談を実現させ、ともに警備を行った。

慶長18年(1613年)8月25日、和歌山で死去。享年38。幸長には男子が無かったため、死後、次弟・長晟が家督を継いだ。

人物

  • 武勇に優れた歴戦の勇将であり、その武勇には諸大名も一目置いたといわれる。また、学問にも熱心で、藤原惺窩堀正意らに師事した。
  • 加藤清正、福島正則、黒田長政らと共に石田三成嫌いで、武断派の重鎮である。
  • 加藤清正と同じく徳川家康の天下を認めつつも、終生にわたって豊臣氏に忠誠を誓い続けた。そのため、警戒した徳川氏によって暗殺されたとする説もある。
  • 徳川家康のために、赤坂見附御門とともに江戸城外堀として堰堤によって溜池を築造した。実際には家臣・矢島長雲にあたらせた。矢島は甲州人。
  • 当代記』には幸長の死因を好色故の虚ノ病(腎虚(花柳病)か)から、唐瘡(梅毒)へ至ったとしている。

出典

  1. 現・滋賀県長浜市
  2. 母はまつ
  3. 一説に長政に5万5千石、幸長に16万石。
  4. 村川浩平「羽柴氏下賜と豊臣姓下賜」『駒沢史学』49号、1996年

テンプレート:浅野氏歴代当主 テンプレート:紀州藩主