浅野総一郎

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浅野 総一郎
生誕 嘉永元年3月10日1848年3月10日
越中国射水郡藪田村
死没 (1930-11-09) 1930年11月9日(82歳没)
神奈川県中郡大磯町
国籍 日本の旗 日本
職業 実業家

浅野 総一郎(淺野總一郎 あさの そういちろう、1848年4月13日嘉永元年3月10日) - 1930年昭和5年)11月9日)は日本実業家。一代で浅野財閥を築いた。

経歴

越中国射水郡藪田村(のち富山県氷見郡藪田村、現・氷見市)に、医師淺野泰順の長男として生まれた。幼名は泰治郎。姉夫婦が家督を継ぐことになったため、1853年(嘉永6年)に氷見郡氷見町の医師・宮崎南禎の養子となるが、理由あって離縁し、1861年文久元年)に養家より戻った。

周囲の反対を押し切り、家業の医師ではなく商人を志す。1866年慶応2年)、射水郡大野村の豪農・鎌仲惣右衛門の長女と婚姻し婿養子となる。越中の海産物等を運搬し北陸への販売を始めたが、船の遭難により巨額の資本を失う。これを契機に商売を諦めるように婚家や身内から説得されるが、商人となることを諦めきれず離縁となる。

一旦は実家に戻るが、1871年明治4年)の春、23歳の時に上京。当初は、東京本郷の旅館を宿とした。この宿の主のアドバイスから、夏場は御茶の水の冷たい名水に砂糖を入れた「水売り」、冬は本郷の赤門前で暖かいおでん屋をすると予想以上に繁盛し貯金ができた[1]。浅野はその資金を携え、一旗上げるために当時創業期であった横浜に向かう。横浜で勤めた味噌屋で贈答用の包みとして使われていた竹の皮に興味を持ち、贈答用の竹の皮の販売を手掛ける竹の皮屋となる。これを販売していたところ、医者であった父の旧友と横浜で偶然に再会、その勧めを商機と見た浅野は薪炭商(しんたんしょう)に転向した。 (この部分は、平凡社の大百科事典によれば、「浅野総一郎(1848-1931)は、越中藪田(現富山県氷見市)に百姓の長子として生まれ、1871年に上京、お茶の水で水売りを初め、竹の皮商から薪炭商へ転じ、コークスの売り込みに成功。」とある。)

1872年(明治5年)にサク(佐久、鈴木長右衛門の孫)と結婚。向かいの貸し布団屋の女中が実によく働くのに目をつけ浅野が求婚したもので、以来、妻の佐久との共働きで成功していくことになる。

1873年(明治6年)に石炭や薪炭を売り込む商いによりガス会社とつながりができ、石炭の廃物であるコークスの処分に困っていた横浜ガス局から、コークスコールタールを安値で買い取り、セメント製造の燃料として用いる方法を開発。ただ同然のコークスを深川のセメント工場に納め、巨万の利益を得た[2]。セメントが建設資材の柱になることにいち早く着目、1884年(明治17年)には官営深川セメント製造所を好条件で払い下げられ、これが浅野セメント(後の日本セメント、現在の太平洋セメント)の基礎となる。この払い下げには取引で浅野の仕事ぶりを見込んだ渋沢栄一の後ろ盾があった。浅野は、王子抄紙部(後の王子製紙(初代))にコークスと物々交換で石炭を納入していたが、人足等と真っ黒になって働く浅野に驚嘆した抄紙部総理渋沢栄一は、浅野を私邸に招き絆を深めた。以来、浅野は渋沢の助言をもとに、水力発電所鉄道建設など急増する需要を受けて、積極的な経営戦略を展開する。なお、浅野セメントの経営には、渋沢の代理として大川平三郎が加わった。また、横浜から深川までコークスを運搬するために運搬業も始め、それが東洋汽船へとつながっていった[2]

一方で、1896年(明治29年)には欧米視察に赴き、イギリスドイツアメリカなどの港湾開発の発展ぶりを目の当たりにする。横浜港に戻るとその旧態依然とした港の様子に衝撃を受け、浅野は港湾を近代化し、工場を一体化した日本初の臨海工業地帯を東京市から横浜市にかけての海岸部に政府の支援を受けずに独力で建設することを計画する。この大規模計画に神奈川県は当初、二の足を踏むが、浅野の計画の価値を認めた安田善次郎が支援に乗り出したことで動き出す。浅野が浅野セメントを合資会社にする際に安田が出資に協力して以来、安田は渋沢同様に浅野の理解者であった。また安田と浅野は同じ富山県の出身でもあり、安田の事業家精神に浅野は心酔していく。

埋め立て工事は、大正から昭和の初めにかけて約15年間に及ぶ年月をかけて完成、浅野は、浅野造船所(後の日本鋼管、現JFEエンジニアリング)など多数の会社を設立した。その後、第一次世界大戦の特需を受け、一代で浅野財閥を築いた。

1930年5月より欧米視察に向かうが、6月26日にベルリンで発病し、8月2日に帰国して大磯町の別邸で療養していたが、同年11月9日食道癌と急性肺炎のため死去[3]神奈川県横浜市鶴見区總持寺に葬る。法名は積功院殿偉業総成大居士。

銅像が浅野学園の敷地内に建てられている。

2008年7月、生地である氷見市薮田にある海岸近くの児童公園を廃して、富山湾を臨むようにした大きな銅像が建てられた。

2012年4月、氷見市から渋川市へ銅像が寄贈され、佐久発電所内のふれあい公園に氷見市の方向を向いた姿で設置された。

功績

日本におけるセメント産業を軌道に乗せ、経営する浅野セメントを当時の最大手企業に育成した手腕から「セメント王」と呼ばれるとともに、1914年(大正3年)には鶴見埋築株式會社(現・東亜建設工業株式会社)を創立して鶴見東京湾の埋め立てをはじめるなど、京浜工業地帯の形成に寄与した「日本の臨海工業地帯開発の父」でもある。

海運の岩崎弥太郎の牙城をくずすべく、共同運輸会社の設立に参加した。京浜工業地帯の埋立地に鶴見臨港鉄道(鶴見線の前身)を設立し、浅野駅にその名を残す。終点の扇町駅がある「扇町」の地名も、浅野家の家紋に因むものである。また、小倉市(現:北九州市小倉北区)の埋め立て工事も行い浅野の地名が残る。群馬県渋川市に建設された水力発電所・佐久発電所に浅野の妻・佐久の名が残る。また、南武線留萠鉄道五日市線の運営にも携わっている。札幌のビール事業の払い下げを政府から受けた大倉喜八郎渋沢栄一を加えサッポロビールを設立。

戸畑区戸畑鋳物と共同で自動車開発を行い後の日産自動車の基礎を築いた。

磐城炭礦の再開発およびガラス会社を営む。石炭輸送のために渋沢栄一の尽力で常磐線平駅・上野駅間を開通させた。東洋汽船社長時代、1921年息子の浅野良三大正活映を創設、谷崎潤一郎を脚本部に迎えて映画を数本製作した。興行成績が悪く松竹に売却したが、谷崎の映画活動として文学史に残る事業である。

宮内省にセメントを納め皇居建設の基礎となった。セメント会社で日本初の社内預金制度を採用している。

栄典

系譜

  • 浅野氏 家紋は「扇」
浅野泰順
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
総一郎(初代)貫一
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
総一郎(二代)[5]良三八郎四郎末一義夫[6]初子慶子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
一治博正五郎忠男喜子房子

家族

ファイル:Asano Souichiro's House.jpg
1909年に東京三田に新築された自邸「紫雲閣」。戦災で焼失するまで、家族の住居のほか、外国賓客の迎賓館として使われた。
  • 妻:サク(佐久) 父長平(婿養子、黒崎五郎兵衛嫡男)、母フサ(長右衛門長女)の三女。鈴木長右衛門(梅渓=狩野梅春貞信)は祖父。



脚注

注釈

出典

  1. 氷川隠士『現代実業家立身伝』(磯部甲陽堂、1912年)112頁
  2. 2.0 2.1 第4回講座 東京ガスの歴史とガスのあるくらし高橋豊、川崎区役所、平成18 年10 月19 日
  3. 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)13頁
  4. 『官報』第1351号「彙報 - 官庁事項 - 褒章 - 黄綬褒章下賜」1887年12月28日。
  5. 前名泰治郎
  6. 庶子

参考文献

  • 『浅野總一郎』 浅野泰治郎、浅野良三 著 1923年6月刊 浅野文庫
  • 『浅野総一郎の度胸人生』 新田 純子 著 2008年8月刊 毎日ワンズ
  • 『女の一心・淺野翁夫人正傳』 北林 惣吉 著 1931年2月刊  千倉書房

浅野総一郎を主人公とした映画

  • 『九転十起の男 -浅野総一郎の青春』2006年
  • 『弁天通の人々』2009年

関連項目

外部リンク