清水寺

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清水寺
所在地 京都府京都市東山区清水一丁目294
位置 東経135度47分6.01秒北緯34.9948306度 東経135.7850028度34.9948306; 135.7850028
山号 音羽山
宗派 北法相宗
1965年までは法相宗
寺格 北法相宗大本山
本尊 千手観音秘仏
創建年 (伝)宝亀9年(778年
開基 (伝)延鎮
札所等 西国三十三所16番
法然上人二十五霊跡13番
洛陽三十三所観音霊場10~14番
神仏霊場巡拝の道117番(京都37番)
文化財 本堂(国宝
仁王門、三重塔、鐘楼ほか(重要文化財
世界遺産
地図
京都盆地における位置
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清水寺(きよみずでら)は、京都府京都市東山区清水にある寺院山号は音羽山。本尊は千手観音開基(創立者)は延鎮である。もとは法相宗に属したが、現在は独立して北法相宗大本山を名乗る。西国三十三所観音霊場の第16番札所である。

概要

清水寺は法相宗(南都六宗の一)系の寺院で、広隆寺鞍馬寺とともに、平安京遷都以前からの歴史をもつ、京都では数少ない寺院の1つである。また、石山寺滋賀県大津市)、長谷寺奈良県桜井市)などと並び、日本でも有数の観音霊場であり、鹿苑寺(金閣寺)、嵐山などと並ぶ京都市内でも有数の観光地として有名であり、季節を問わず多くの参詣者が訪れる。また、修学旅行で多くの学生が訪れる。古都京都の文化財としてユネスコ世界遺産に登録されている。

清水寺の宗旨は、当初は法相宗で、平安時代中期からは真言宗を兼宗していた。明治時代初期に一時真言宗醍醐派に属するが、明治18年(1885年)に法相宗に復す。昭和40年(1965年)に当時の住職大西良慶が北法相宗を立宗して法相宗から独立した。[1]

歴史

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音羽の滝にて賢心法師(左)は行叡居士と対面 清水寺縁起絵巻(土佐光信筆、東京国立博物館蔵)上巻より

創建伝承

清水寺の創建については、『群書類従』所収の藤原明衡撰の『清水寺縁起』、永正17年(1520年)制作の『清水寺縁起絵巻』(東京国立博物館)『今昔物語集』、『扶桑略記』の延暦17年(798年)記などにも清水寺草創伝承が載せられている。これらによれば、草創縁起は大略次の通りである。

宝亀9年(778年)、大和国興福寺の僧で子島寺[2] で修行していた賢心(後に延鎮と改名)は、のお告げで北へ向かい、山城国愛宕郡八坂郷の東山、今の清水寺の地である音羽山に至った。金色の水流を見出した賢心がその源をたどっていくと、そこにはこの山に篭って滝行を行い、千手観音を念じ続けている行叡居士(ぎょうえいこじ)という白衣の修行者がいた。年齢200歳になるという行叡居士は賢心に「私はあなたが来るのを長年待っていた。自分はこれから東国へ旅立つので、後を頼む」と言い残して、去っていった。行叡は観音化身であったと悟った賢心は、行叡が残していった霊木に千手観音像を刻み、行叡の旧庵に安置した。これが清水寺の始まりであるという。

その2年後の宝亀11年(780年)、鹿を捕えようとして音羽山に入り込んだ坂上田村麻呂758年 - 811年)は、修行中の賢心に出会った。田村麻呂は妻の高子の病気平癒のため、薬になる鹿の生き血を求めてこの山に来たのであるが、延鎮より殺生の罪を説かれ、観音に帰依して観音像を祀るために自邸を本堂として寄進したという。後に征夷大将軍となり、東国の蝦夷平定を命じられた田村麻呂は、自身が建立した清水寺に平定参拝をしたという。その後、若武者と老僧(観音の使者である毘沙門天地蔵菩薩の化身)の加勢を得て戦いに勝利し、無事に都に帰ることができた。延暦17年(798年)、田村麻呂は延鎮(もとの賢心)と協力して本堂を大規模に改築し、観音像の脇侍として地蔵菩薩と毘沙門天の像を造り、ともに祀った、という。以上の縁起により、清水寺では行叡を元祖、延鎮を開山、田村麻呂を本願と位置づけている。[3]

平安時代以降

延暦24年(805年)には太政官符により坂上田村麻呂が寺地を賜り、弘仁元年(810年)には嵯峨天皇の勅許を得て公認の寺院となり、「北観音寺」の寺号を賜ったとされる。『枕草子』は「さわがしきもの」の例として清水観音の縁日を挙げ、『源氏物語』「夕顔」の巻や『今昔物語集』にも清水観音への言及があるなど、平安時代中期には観音霊場として著名であったことがわかる。[4]

清水寺の伽藍は康平6年(1063年)の火災(扶桑略記に言及)以来、近世の寛永6年(1629年)の焼失まで、記録に残るだけで9回の焼失を繰り返している。平安時代以来長らく興福寺の支配下にあったことから、興福寺と延暦寺のいわゆる「南都北嶺」の争いにもたびたび巻き込まれ、永万元年(1165年)には延暦寺の僧兵の乱入によって焼亡している。文明元年(1469年)には応仁の乱の兵火によって焼失し、その再建のために時宗僧の勧進願阿弥が迎え入れられた。願阿弥は清水寺入寺以前に橋や寺堂の再建、救恤といった事業に従事しており[5]、その際に率いていた勧進集団や要人との人脈をもって再興事業に臨んだ[6]。願阿弥自身は再興の完遂を見届けることなく世を去ったが、願阿弥の率いた勧進集団は寺内に地歩を築き、本願成就院として近世にいたる本願の出発点となった[7]。現在の本堂は上記寛永6年の火災の後、寛永10年(1633年)、徳川家光の寄進により再建されたものである。他の諸堂も多くはこの前後に再建されている。[8]

三職六坊

豊臣秀吉は清水寺に130石の寺領を安堵し、徳川幕府になってもこの寺領が継承された。近世の清水寺は「三職六坊」と呼ばれる組織によって維持運営されていた。「三職」とは寺主に当たる「執行」、副寺主に当たる「目代」、寺の維持管理や門前町の支配などを担当する「本願」を指し、執行職は宝性院、目代職は慈心院、本願職は成就院がそれぞれ務めた。「六坊」はこれに次ぐ寺格を有するもので、義乗院、延命院、真乗院、智文院、光乗院、円養院の6か院である。このうち、宝性院は仁王門北方に現存する。慈心院は本堂のみが随求堂(ずいぐどう)として残っている。成就院は近代の中興の祖である大西良慶(後述)が住坊とした所で、境内北側に位置し、現在は清水寺本坊となっている。「六坊」の6か院はいずれも境内南方にまとまって所在したが、このうち真乗院は織田信長によって廃絶され、以後は成就院によって寺籍のみが継がれていた。義乗院、智文院、光乗院、円養院も廃仏毀釈の時期に廃絶し、現在は延命院が残るのみである。[9]

近代

近代に入り、大正3年(1914年)には興福寺住職・法相宗管長であった大西良慶(1875年 - 1983年)が清水寺の貫主(住職)に就任する。大西は昭和40年(1965年)に法相宗から独立して北法相宗を開宗、初代管長となった。大西は昭和58年(1983年)、満107歳で没するまで70年近く清水寺貫主を務め、「中興の祖」と位置づけられている。大西は昭和41年(1966年)に月2回の北法相宗仏教文化講座を開始、昭和49年(1974年)には日中友好仏教協会を設立するなど、仏教を通じた国際交流、平和運動、文化活動などに尽力した。 現貫主は、森清範が務めている。

2015年には、10年かけて制作された絵巻物「清水寺平成縁起絵巻」が完成し、奉納された[10]。寺の草創期から「平成の大改修」の完了までの1200年を描いた全巻で、全長65m。作画は日本画家で京都嵯峨芸術大学名誉教授の箱崎睦昌[11]。絵絹や裏彩色といった伝統技法を復活させて描かれた。戦火が多く描かれた室町時代の『清水寺縁起絵巻』とは異なり、何度も焼失と再建を繰り返した清水寺を支えた庶民の姿をテーマに描かれた[12]

各地の同名寺院

日本各地に「清水寺」(きよみずでら、せいすいじ)を名乗る寺院が多数あり、中には坂上田村麻呂の開創ないし中興の伝説を有するものもある。岩手県花巻市の音羽山清水寺は田村麻呂の開創を伝える。長野県山形村の慈眼山清水寺は田村麻呂の中興を伝え、この寺の千手観音像が京都にもたらされて東山の清水寺になったという。岐阜県加茂郡富加町の「白華山清水寺」は田村麻呂と延鎮による草創を伝える。

境内

ファイル:Kiyomizuzaka-kyoto.JPG
清水道(松原通)、西方向を見る

参道

東大路通の清水道交差点から清水寺までの約1.2キロの坂道は清水道と称され、道の両側には観光客向けのみやげ物店などが軒を連ねている。この道は松原通(かつての五条通)の延長である。その南、東山五条の交差点から北東に上り、清水道に合流する五条坂も参詣道となっている。さらに、五条坂の途中から分岐して清水寺仁王門付近に達する清水新道(茶わん坂)もある。これらの参道が開けたのは近世以降のことであり、中世までは八坂の塔(法観寺)を経て産寧坂(三年坂)を南方向へ上り、経書堂(きょうかくどう)のところで左(東)へ折れるルートが参道であった。

境内の概要

境内は標高242メートルの清水山(音羽山)中腹に石垣を築いて整地され、多くの建物が軒を接するように建ち並んでいる。入口の仁王門を過ぎ、西門、三重塔、鐘楼、経堂、開山堂(田村堂)、朝倉堂などを経て本堂に至る。本堂の先、境内の東側には北から釈迦堂、阿弥陀堂、奥の院が崖に面して建つ。本堂東側の石段を下りた先には寺名の由来でもある名水が3本の筧(かけい)から流れ落ちており、「音羽の滝」と呼ばれている[13]。音羽の滝からさらに南へ進むと、「錦雲渓」と呼ばれる谷を越えた先に塔頭寺院の泰産寺があり、「子安塔」と呼ばれる小さな三重塔がある。北には清水寺本坊の成就院がある。

このほか、本堂のすぐ北隣に地主神社(じしゅじんじゃ)があり、明治以降は神仏分離により独立したが、もともとは鎮守社として清水寺の一部であった。

本堂

国宝。徳川家光の寄進により寛永10年(1633年)に再建されたもの。「清水の舞台」とも呼ばれる。屋根は寄棟造、檜皮葺きで、正面(南面)左右に入母屋造の翼廊が突き出し、外観に変化を与えている。建物の前半部分は山の斜面にせり出すようにして建てられ、多くの長大なケヤキの柱(139本という)が「舞台」と呼ばれるせり出し部分を支えている(釘は使われていない)[14]。このような構造を「懸造(かけづくり)」、あるいは「舞台造」といい、観音菩薩は補陀洛山(ふだらくさん)に現われるという『妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五』(観音経)の所説に基づくものである。なお、同じく観音霊場である長谷寺や石山寺の本堂も同様の「懸造」である。

平面は、桁行(間口)9間、梁間(奥行)7間の身舎(もや)が主体部となる(ここで言う「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を指す。以下も同)。身舎は奥の梁間3間分が内々陣、その手前の梁間1間分が内陣、内陣のさらに手前の梁間3間分が外陣となる。外陣内部は柱の省略がなく、独立柱が等間隔に立つ。内々陣と内陣の部分を正堂(しょうどう)、外陣部分を礼堂(らいどう)とも称する。一般拝観者が立入りできるのは外陣までである。この9間×7間の主体部の東・西・北面には1間幅の裳階(もこし、差し掛け屋根)をめぐらす。正面にあたる南面は、1間幅の庇を設け、その南には東西端にそれぞれ翼廊(楽舎)を設け、両翼廊の間に舞台を設ける。翼廊部分の屋根は入母屋造、妻入とし、外観に変化を与える。堂の西面にも裳階の外側に翼廊を設け、この部分を車寄と称する。裳階には、正堂部分では局(つぼね、参籠所)などが設けられている。外陣は東・西・南面を1間幅の廊下で囲まれ、外陣・廊下境には蔀戸を吊る。構造的には、礼堂の東と西の廊下は裳階、南の廊下は庇にあたる。裳階、翼廊を含めた平面規模は間口36メートル、奥行31メートルとなる。正堂部分は平坦な地面に建っているが、外陣及びそれより手前の部分は傾斜面に建っており、床下にはケヤキ材の長い柱と貫を縦横に組んで建物を支えている。このうち、もっとも手前(南)に位置し、せり出した舞台を支える6本の柱は平面十六角形で、長さ12メートルに及ぶ。これらの柱や貫は寛永再建時のものだが、舞台の床面の板(ヒノキ材)は、耐用年数が25 - 30年ほどで、たびたび張り替えられている。内々陣には、5間幅の須弥壇を設け、その周囲は床を一段低くし、石敷きの土間となる。須弥壇上には3基の厨子(国宝の附指定)が置かれ、中央の厨子には本尊の千手観音立像、左(向かって右)の厨子には毘沙門天立像、右(向かって左)の厨子には地蔵菩薩立像をそれぞれ安置する。三尊とも秘仏である(本尊については後述)。本尊厨子の左右には千手観音の眷属である二十八部衆像を安置し、内々陣左右端には風神・雷神像が安置される。[15]

思い切って物事を決断することを「清水の舞台から飛び降りるつもりで」と言うが、清水寺塔頭・成就院に残る『成就院日記』の記録によれば、実際に飛び降りた人が元禄7年(1694年)から元治元年(1864年)の間に未遂を含み235件[16] に上り、生存率は85.4パーセントであった。明治5年(1872年)に京都府は「舞台飛び落ち」は封建的な悪習であるとして禁止する布令を出し、舞台欄干周囲に柵を張るなどの対策を施したことで、「飛び落ち」は影をひそめた[17]

その他の建造物等

  • 経書堂(きょうかくどう) - 清水道の途中、清水道、五条坂、三年坂(産寧坂)の合流点の北側にある。清水寺塔頭の来迎院の仏堂である。能の「熊野」(ゆや)に「経書堂はこれかとよ」という台詞で登場する。
  • 大日堂 - 経書堂の東方、清水道の途中の北側にある。清水寺塔頭の真福寺の仏堂である。ここに安置されていた大日如来像(重要文化財)は宝蔵殿に移されている。
  • 仁王門(重要文化財) - 境内入口に建つ朱塗りの門。三間一戸楼門、入母屋造、檜皮葺きで、正面左右に鎌倉時代末期の金剛力士(仁王)像を安置する。室町時代の建立で、馬駐(うまとどめ)、鐘楼とともに寛永6年(1629年)の大火をまぬがれた。
  • 馬駐(重要文化財) - 仁王門前の右(北)に建つ、切妻造、瓦葺きの簡素な建物。その名の通り、参詣者が馬を繋いだところで、室町時代の建立である。
  • 西門(重要文化財) - 仁王門をくぐって右方の小高い位置に建つ。寛永8年(1631年)の建立。切妻造、檜皮葺きで、形式的には八脚門だが、正面に向拝、背面には軒唐破風(のきからはふ)を付し、内部には床板と格天井を張る特殊な形式の門である。全面朱塗り、軒下の組物や蟇股(かえるまた)などは極彩色とするなど、門というよりは神社の拝殿のように見え、特殊な用途をもった建物と推定されている。
  • 三重塔(重要文化財) - 西門の先に建つ和様の塔。寛永再興時の再建。高さ30.1メートル。昭和62年(1987年)に完了した解体修理により、外部の極彩色が復元されている。内部には、曼荼羅の密教世界が造形されて、中央には大日如来が安置されている。
  • 随求堂(ずいぐどう) - 仁王門から参道を進んだ正面に位置する。もとは塔頭慈心院の本堂で、慈心院を中興した僧・盛松により、享保20年(1735年)に建立された。本尊は大随求菩薩像(秘仏)。脇侍として吉祥天立像と毘沙門天立像(重要文化財)を安置していたが、後者は宝蔵殿に移されている。堂の地下の暗闇を歩く「胎内めぐり」が行われている。
随求堂本尊の秘仏大随求菩薩坐像は、1728年(享保13年)に造られた木彫像で像高110センチ。頭上に宝冠を頂き、8本の腕に五鈷杵、剣、蛇などの法具などを持つ。光背は円形で金泥梵字が描かれている。これまで展覧会や清水寺境内の他の施設での「出開帳」を除く随求堂内での「居開帳」は、造像以来1754年(宝暦4年)と1796年(寛永8年)の2回だけしか行われてこなかったが、西国三十三所創設1300年を記念して、2018年3月2日から3月18日までと10月5日から10月15日まで、222年ぶりに随求堂内で居開帳する[18][19]
  • 経堂(重要文化財) - 三重塔の隣に建つ入母屋造、瓦葺きの五間堂。寛永再興時の再建。内部には釈迦三尊像(脇侍は文殊菩薩と普賢菩薩)を安置する。堂は工芸品などの展示場として使用されることもある。
  • 開山堂(田村堂)(重要文化財) - 経堂の隣に建つ入母屋造、瓦葺きの三間堂。開山堂とも称する。寛永再興時の再建。内部には開放形の厨子内に坂上田村麻呂夫妻像を安置し、その向かって左に行叡と延鎮の像を祀る。いずれも清水寺創建に関わる人物である。堂内は通常は非公開。
  • 朝倉堂(重要文化財) - 拝観受付所と本堂を結ぶ廊下の北側にある。入母屋造、瓦葺きの五間堂。清水観音を篤く信仰した、越前の守護大名朝倉貞景の寄進した建物だったことから朝倉堂と称するが、現在の建物は寛永再興時の再建。内部には秘仏の千手観音、毘沙門天、地蔵菩薩の三尊のほか、西国三十三所の観音像を安置する。堂内は通常は非公開。
  • 釈迦堂(重要文化財) - 本堂の先の山腹に建つ、寄棟造、檜皮葺きの三間堂。寛永再興時の再建。昭和47年(1972年)の集中豪雨による土砂崩れで倒壊し、3年後に旧材をもって復元された。
  • 阿弥陀堂(重要文化財) - 釈迦堂の右(南)に建つ入母屋造、瓦葺きの三間堂。寛永再興時の再建。前面の旧外陣部分を改造して奥の院への通路としている。内陣正面には後柏原天皇筆の「日本最初常行念仏道場」の額が架かる。文治4年(1188年)、法然がこの地で念仏を修したとの故事により、法然上人二十五霊場の十三番とされている。
  • 奥の院(重要文化財) - 阿弥陀堂の先(南)、本堂の全貌を見渡すことができる位置に建つ、寄棟造、檜皮葺きの五間堂。寛永再興時の再建。本堂より小規模ながら、崖にせり出した懸造の建物である。本堂と同様に千手観音、毘沙門天、地蔵菩薩、二十八部衆、風神・雷神の諸仏を安置する。ただし中尊は本堂本尊と異なり坐像である。
  • 音羽の滝 - 奥の院の建つ崖の下にある、清水寺の寺号の由来である霊水で、3本の筧(かけい)から水が流れ落ちている。
  • アテルイモレの慰霊碑 - 坂上田村麻呂のゆかりから、平安建都1200年を期して1994年に建立されたもので、音羽の滝から仁王門方面へ戻る道の左手に立つ。碑面には「北天の雄 阿弖流爲 母禮之碑」とある。
  • 子安塔(重要文化財) - 奥の院前の道を南の清閑寺方面へ歩いた先にある、塔頭・泰産寺の三重塔。高野山の木食応其が造営、寛永再興時に再建された。高さは15メートルで、仁王門近くにある三重塔の約半分である。元は仁王門下の南側、警備詰所のあたりにあったが、明治44年(1911年)現在地に移築された。名前のとおり、安産に大きな信仰を集めてきた。
  • 成就院 - 境内北方にある、清水寺の本坊。池泉回遊式庭園は国の名勝に指定されている。秋季などに行われる特別公開の時期を除き、通常は非公開である。なお、内部での撮影は原則として禁止となっている。2010年に中島潔が46枚の襖絵「かぐや姫・風の故郷(春夏)・風の故郷(秋冬)・大漁」を奉納した。
  • 大講堂 - 仁王門の北方に建つ。創建1,200年を期に昭和59年(1984年)完成したもので、中央の多宝閣と東西棟からなる。多宝閣は4階吹き抜けで、1階には大仏足石がある。東棟は1階が寺務所・宗務所、2階が文化財を収蔵する宝蔵殿(非公開)、西棟は1階が各種法要、行事などの会場となる円通殿、2階が迎賓殿である。
  • 地主神社 - 本堂の北にある、元は清水寺の鎮守社で、現在では縁結びの神として信仰を集めている。本殿、拝殿、総門は清水寺本堂と同じく寛永10年(1633年)の再建である。ちなみに清水寺・仁王門前にある狛犬は地主神社のものである。明治の神仏分離により清水寺から独立しているが、歴史的経緯から世界遺産「古都京都の文化財」の清水寺の一部として登録されている。

本尊

本堂本尊

清水寺本堂本尊の千手観音立像は33年に1度開扉の秘仏であり、写真も公表されていない[20]。ただし、秘仏本尊を模して造られた「お前立ち像」の写真は公表されている。本像は、42本の手のうち、左右各1本を頭上に伸ばして組み合わせ、化仏(けぶつ)を捧げ持つ特殊な形式の像である。このような形式の像を「清水寺形千手観音」と称し、これを模した彫像、画像が日本各地に存在する[21]。このような、脇手のうちの2本を頭上に掲げる形の千手観音については経典に典拠がなく、その由来は未詳である。脇侍として毘沙門天像と地蔵菩薩像を安置するが、このうち地蔵菩薩像は、鎧で武装した上に袈裟を着け、兜をかぶり、剣を持つ特殊な形の像である。

本堂本尊は、20世紀末以降では以下の機会に開帳された。

奥の院本尊

奥の院本尊の秘仏千手観音坐像(重要文化財)は、鎌倉時代の作で一木割矧造、像高63.9センチメートル。正面・右・左の3つの顔をもち、頭上に24の小面を乗せ、計27面をもつ特異な形の像である。本面と左右脇面は額に縦の眼を有する三眼とすること、膝前で組み合わせる宝鉢手は親指と人差し指で輪をつくる、阿弥陀如来と同様の印相とすること、光背に観音の三十三応現身を表すことなど、図像的に特異な点が多い。作風には快慶風が強いが、作者を快慶と同定するには至っていない。

本像は2002年に重要文化財に指定され、翌2003年3月7日から12月7日まで243年ぶりに開帳された。また、2008年8月から11月にかけて奈良国立博物館及び名古屋市博物館で開催された特別展「西国三十三所」に出陳された。

文化財

国宝

  • 本堂 附:厨子3基
文化財保護法第2条[22] に基づき、建物とともに清水寺境内地も1993年9月1日付けで国宝に追加指定されている。

重要文化財(建造物)

ファイル:Kiyomizu3106.JPG
開山堂(田村堂)
  • 仁王門 - 室町時代
  • 馬駐(うまとどめ) - 室町時代
  • 西門
  • 三重塔 - 寛永9年(1632年
  • 鐘楼 - 慶長12年(1607年
  • 経堂
  • 田村堂 附:厨子1基
  • 朝倉堂 附:厨子1基
  • 鎮守堂(春日社)
  • 本坊北総門
  • 轟門
  • 釈迦堂
  • 阿弥陀堂
  • 奥の院 附:厨子1基
  • 子安塔
  • 地主神社本殿・拝殿・総門(現在清水寺とは別法人) 地主神社境内地も社殿と一体をなして価値を形成するものとして重要文化財に指定されている。

以上の建物のうち特記のないものは寛永年間(1630年代)の建立である。

重要文化財(美術工芸品)

  • 木造千手観音坐像(奥の院本尊)
  • 木造十一面観音立像 - 本堂本尊の十一面千手観音立像とは別個の像である[23]
  • 木造伝・観音菩薩・勢至菩薩立像(もと阿弥陀堂安置)
  • 木造大日如来坐像(もと真福寺大日堂安置)
  • 木造毘沙門天立像(塔頭慈心院所有)
  • 渡海船額(末吉船図3・角倉船図1)4面
  • 板絵著色朝比奈草摺曳図(伝・長谷川久蔵筆)
京都市内の社寺に残る大絵馬では最古のもので、寛永6年(1629年)の旧本堂炎上の際、これ1点のみ焼け残ったもの。天正20年(1592年)の奉納銘があり、筆者は長谷川等伯の子・久蔵とされている。
  • 鉄鰐口 - 嘉禎2年(1236年)銘(もと阿弥陀堂所在)
  • 梵鐘 - 文明10年(1478年)銘

重要文化財の仏像のうち、千手観音坐像は秘仏、その他の像は宝蔵殿に収蔵され非公開である。本堂本尊の秘仏千手観音像は指定文化財ではない[24]

その他

御詠歌

松風や 
音羽の滝の 
清水を 
むすぶ心は 
涼しかるらん

 作者は松尾芭蕉。

札所

  • 西国三十三所観音霊場 第16番
  • 法然上人二十五霊跡 第13番(阿弥陀堂
  • 洛陽三十三所観音霊場 第10番(善光寺堂)、第11番(奥の院)、第12番(本堂)、第13番(朝倉堂)、第14番(泰産寺
  • 神仏霊場巡拝の道 117番(京都37番)

前後の札所

西国三十三所
15 今熊野観音寺 -- 16 清水寺 -- 17 六波羅蜜寺

アクセス

  • 京阪電気鉄道京阪本線清水五条駅」下車徒歩約22分、または「祇園四条駅」下車徒歩約25分
  • 「清水道」または「五条坂」バス停(京都市営バス8086急行100急行106急行110202206207系統、京阪バス83・83A・84・84C・85・85A・86・86A・86B・87・87A・87B・88・88B・88C系統)下車徒歩約10分。
  • 最寄りバス停は「五条坂」から五条坂経由、又は「清水道」から清水坂経由で行くのが近いが、五条坂は観光バスの通行が多く、清水坂(松原通)も五条坂との合流点まではタクシーや一般車の通行が多い。少し遠回りになるが、清水道バス停からすぐ北側の信号を東側に曲がる八坂通を通行したほうが車も少なく、法観寺の八坂の塔を見ながらの石畳道で風情があるのだが、京都駅方面からのバスは五条坂バス停で清水寺方面の乗客の下車を促す案内放送をあえて流す。これは五条坂から乗車する乗客も多いため、五条坂と清水道の両バス停間のバスの混雑を避ける措置である。

脚注

  1. (横山、2008)、pp.10 - 12
  2. 奈良県高市郡高取町に現存。
  3. (横山、2008)、pp.17 - 20
  4. (横山、2008)、pp.20, 38
  5. 下坂(2003)、pp.191-192。
  6. 下坂(2003)、pp.194-197。
  7. 下坂(2003)、p.191。
  8. (横山、2008)、pp.12, 25,27
  9. (横山、2008)、p.28
  10. 清水寺の新たな寺宝「清水寺平成縁起絵巻」奉納清水寺、2015年4月25日
  11. 4/25~5/13箱崎睦昌名誉教授が制作、奉納した「清水寺平成縁起絵巻」展が清水寺で開催されます。京都嵯峨芸術大学ニュース、2015年4月7日
  12. NHKクローズアップ現代「絵巻がひもとく清水寺~知られざる1200年の歩み」2015年4月23日
  13. 「音羽の水」とも。飲料可。
    小野芳朗『水の環境史「京の名水」はなぜ失われたか』(PHP新書) PHP研究所、2001年 p.208 ISBN 9784569616186
  14. 新建築社 『NHK 夢の美術館 世界の名建築100選』 新建築社、2008年。ISBN 978-4-7869-0219-2。
  15. (横山、2008)、pp.81 - 96
  16. 『成就院日記』には記録が抜けている時期があり、記録が残っている148年分の合計。2度飛び降りて2度とも助かった女性がおり、飛び降りた実人数は234人。
  17. 『京都清水寺さんけいまんだら』、pp100 - 101
  18. 222年ぶり随求堂で本尊開帳へ 京都・清水寺 京都新聞 2018年2月15日
  19. 京都・清水寺 京都新聞 2018年3月2日
  20. 清水寺信徒総代であった仏師・西村公朝の調査によると、秘仏本尊は寄木造、素地仕上げで像高は173cm、鎌倉時代中期頃の作であるという(横山正幸『京都清水寺さんけいまんだら』、p88)。
  21. 彫像では神奈川・龍峯寺像、画像では愛知・天永寺護国院本などがある。
  22. 文化財保護法第2条「これらのもの(注:建造物等の有形文化財)と一体をなしてその価値を形成している土地その他の物件を含む」
  23. この重要文化財の十一面観音像を本堂本尊と誤認している文献があるので注意を要する。
  24. たとえば、以下の文献で清水寺本堂本尊を「重要文化財の十一面観音像」としているが、事実誤認である。
    • 村田靖子『もっと知りたい京都の仏像』(里文出版、2007)、p.55
    • 『週刊朝日百科』「日本の国宝」70号(朝日新聞社、1998)、p.318
  25. 京都府指定・登録等文化財”. 京都府教育庁. . 2015閲覧.

関連項目

参考文献

  • 井上靖塚本善隆監修、大庭みな子大西良慶著 『古寺巡礼京都24 清水寺』 淡交社、1978年
  • 竹村俊則 『昭和京都名所図会 洛東上』 駸々堂、1980年
  • 『週刊朝日百科 日本の国宝』 70号(智積院・知恩院・清水寺)、朝日新聞社、1998年
  • 『日本歴史地名大系 京都市の地名』 平凡社
  • 『角川日本地名大辞典 京都府』 角川書店
  • 『国史大辞典』 吉川弘文館
  • 下坂 守 『描かれた日本の中世 - 絵図分析論』 法藏館、2003年。ISBN 4831874787。
  • 奈良国立博物館・NHKプラネット近畿編 『西国三十三所観音 霊場の祈りと美』 (特別展図録)、発行:奈良国立博物館、名古屋市博物館、NHKプラネット近畿、NHKサービスセンター、2008(解説執筆は頼富本宏、清水健ほか)
  • 横山正幸 『京都清水寺さんけいまんだら』 清水寺発行、2008

外部サイト

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