濱口雄幸

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濱口 雄幸[注釈 1](はまぐち おさち、1870年5月1日明治3年4月1日) - 1931年昭和6年)8月26日)は、日本大蔵官僚政治家位階正二位勲等勲一等空谷

大蔵大臣(第25代)、内務大臣第43代)、内閣総理大臣第27代)、立憲民政党総裁などを歴任した。

来歴

土佐国長岡郡五台山(現高知市)の林業を営む水口家に水口胤平の3人兄弟の末子として生まれる。幸雄と命名されるが、父親が出生届を出しに役所に行く途中で酒を飲み、役所に着いたときには酩酊状態になっていた。その状態で出生届を記入し、誤って名前を前後逆に記入した届が受理されてしまい雄幸となった。

1889年明治22年)、高知県安芸郡田野村(現田野町)濱口義立の長女夏子と結婚し、濱口家の養嗣子となる。旧制高知中学(現高知県立高知追手前高等学校)、第三高等中学校を経て、1895年(明治28年)帝国大学法科政治学科(後の東京帝国大学、現:東京大学)を3番の好成績で卒業。同窓会であった二八会は後に政治ネットワークに発展した。幣原喜重郎とは、第三高等中学校、帝国大学を通じての同級生であった。

大蔵省に入り、専売局長官、逓信次官大蔵次官などを務め、1915年大正4年)に立憲同志会に入党、衆議院議員に当選して代議士となる。加藤高明内閣大蔵大臣第1次若槻内閣内務大臣などを務める。立憲民政党初代総裁として、張作霖爆殺事件の責で総辞職した田中義一内閣の後に内閣総理大臣に就任(任期:1929年7月 - 1931年4月)して組閣を行う。財界からの信任のある井上準之助日本銀行総裁を蔵相に起用して金解禁や緊縮政策を断行し、また野党立憲政友会の反対を排除してロンドン海軍軍縮条約を結ぶ。明治生まれでは初の内閣総理大臣である。

ライオン宰相の生き様

官僚出身でありながら、その風貌から「ライオン宰相」と呼ばれ、謹厳実直さも相まって強烈な存在感を示しつつも大衆に親しまれた首相である。濱口が政治家として過ごした大正から昭和初期は、まさに激動の時代だった。この激動を乗り切って首相に上り詰めたのは、濱口の実直さや正義感、頑固さを高く評価して彼を押し上げていった周囲の政治家・財界人たちの期待の結果である。

濱口は大蔵省入省後、一度上司と衝突、しばらく地方回りをしてかなり苦労した。見るに見かねて若槻禮次郎ら先輩や友人が、帰京の嘆願を行って東京に呼び戻したというエピソードもある。その後、濱口の有能さを見込んで後藤新平財界入りを口説き、さらに政治家となってからは加藤高明が自身の腹心として重用した。やがて蔵相を歴任するなどした濱口は、憲政会の幹部として影響力を増していった。中でも、後に国際協調と呼ばれる軍縮に賛同する姿勢が終始一貫していたのは注目される。第一次世界大戦中より帝国海軍拡張は当然の空気もあり、軍部、とりわけ海軍省・海軍軍令部帝国国防方針に基づく八八艦隊確立のため、国防費増額を要求していた。しかし濱口は、大戦も連合国の勝利に終わり、平和の到来が確定するや国防の充実に理解を示しつつも、国家予算の多くが国防費に消費されていることによる国民生活の危機を感じ始めていた。その上、戦後軍拡の名の下に際限なき海軍費の膨張が始まると、列国間の建艦競争が激化することをも憂慮していた。特に米国が国際社会の中で早晩一番の大国となるのは明らかであり、そのことについて濱口は「我国の貧しきを以て米国に追従せんことを到底思ひも寄らず」、「我国は国力の関係上仮令一切を犠牲とするも英米二国の海軍力に追従することを能はず」とまで述べている。

日本の国力、実力を知る濱口は、英米との対決は不可能であることを理解していた。このことは国民生活の負担の軽減と見事にリンクする。戦後不況、社会不安が増大する中で、軍拡から軍縮に転換し、その軍縮余剰金を財源に、国民負担を軽減する施策を提示したのである。明治以来、軍備拡張が当たり前の空気がある中で、大戦後、戦争から平和へ、軍拡より軍縮へ、積極財政から緊縮財政へという政治家の信念を貫き通す姿勢は高く評価する声がある一方で、反面緊縮財政がデフレ不況を悪化させ、国民生活を圧迫し(後述)社会不安を増大させるなど、経済政策においては酷評されることもある。

日本の首相で初めて当時最新のメディアであったラジオを通じて国民に直接自身の政策を訴えた首相でもある。

根回しに頼らない正面突破

以上の経験は、1929年(昭和4年)に成立した濱口内閣に遺憾なく発揮された。田中義一内閣が異例な形で総辞職した後を受けて、濱口は、政治空白は許されないとしてわずか1日で組閣を行った。その電光石火の早業に、牧野伸顕内大臣が「意気込頼母しく感じたり」と記すのも無理はなかった。

濱口は、内には大戦の好況に時代慣れした弛緩に警告を与えて不況からの脱出を唱え、他方、外には外務大臣幣原喜重郎を重用して国際協調路線を貫いた。しかし、そのためには政府与党が磐石でなくてはならない。第2回普通選挙で政友会に圧勝した濱口は、政局運営に自信を持った。だが、その濱口でさえも、政党政治は最高の形態と見ていたわけではない。「世界多数の文明国に於ける政治の形式であって、他に代るべき良き政治の形式を見出すことが出来ないため」としている。ベストではないがベター・チョイスというわけである。それゆえに濱口は、この時代を政党政治の「試験時代」と認識した。この認識はロンドン軍縮でも活用された。濱口は日本側の首席代表に若槻禮次郎を任命した。ワシントン会議では加藤友三郎ジュネーブ会議では齋藤實と、それまでの海軍軍縮会議の責任者は海軍出身者だったが、今回は民政党の大幹部たる若槻、つまり文官を任命しただけでも、濱口のスタイルが理解できる。ロンドン軍縮会議は紛糾を重ねた。軍令部を中心に、強硬派が巡洋艦の日本の対英米保有比率7割に猛反対、これに右翼や野党も同調して対外問題は一挙に国内問題に転じた。濱口首相は根回しを山梨勝之進海軍次官に依頼するが、反対派には伏見宮博恭王東郷平八郎といった大物が存在し、速やかな解決は不可能だった。宮中ではこの事態を危惧して、侍従長鈴木貫太郎に根回しをさせるほどだった。

圧倒的な議席を有する民政党を率いる濱口は、大衆に支持されていた。また宮中からも信頼されているという自信があった。そこに彼自身の頑固な性格が加味されて根回しに頼らず、正面から難局を突破しようとしたのである。いみじくも、財部彪海軍大臣に「唯一正道を歩まん」、「仮令玉砕すとも男子の本懐ならずや」と述べているのは、まさに濱口の真骨頂なのである。料亭政治を嫌い、また根回しを回避し、断固たる姿勢で政局に臨んだ濱口は、戦前の首相としては珍しい存在である。その政治手腕はその意味で一長一短はあったが、自らの政治哲学を頑固に追い求めた点、首相としては稀有な存在といえる。

金本位への転換

濱口が内閣総理大臣を引き受けるにあたって、主眼となっていた課題は経済政策であった。第一次世界大戦後の国内好況が既に終わりを告げて久しく、1927年(昭和2年)に起きた金融恐慌をはじめ、日本国内が長い不況に喘いでいる一方で、軍拡の動きも活発であった。軍部の動きを抑え、同時に日本を不況から脱するためには、金解禁が不可欠であると濱口は考えたのである(実際には第一次世界大戦後に再建された新たな金本位制は、諸外国においても正貨不足から軒並みデフレの原因となっていたため不況から脱するどころか、むしろ各国を不況に追い込んでいた)。

一貫して国際協調を掲げていた濱口は、蔵相に元日本銀行総裁の井上準之助を起用し、彼の協力の元、軍部をはじめ内外の各方面からの激しい反対を押し切る形で金解禁を断行。当時、日本経済はデフレの真っ只中にあり「嵐に向かって雨戸を開け放つようなものだ」とまで批判された。特に当時の日本経済の趨勢を無視して、旧平価(円高水準)において解禁した(石橋湛山らジャーナリストは新平価での解禁を主張していた)ことで、輸出業の減退を招き、その後のより深刻なデフレ不況を招来することになる。結果としては、直後に起きた世界恐慌など、世界情勢の波にも直撃する形となり、濱口内閣時の実質GDP成長率は1929年(昭和4年)には0.5%、翌・1930年(昭和5年)には1.1%と経済失政であると評される事になる。

濱口自身「我々は、国民諸君とともにこの一時の苦痛をしのんで」と語るように、国内の経済問題が一日にして好転するとは考えておらず、むしろ金解禁は経済正常化への端緒であり、その後長い苦節を耐えた後に、日本の経済構造が改革されると考えていた。しかし、結果的には大不況とその後の社会不安を生み出した原因ともなり、経済失策は、後に禍根を残した。

任期中に濱口自身が凶弾に倒れたため、その後の経済政策は第2次若槻内閣が引き継ぐ。そして1931年(昭和6年)の成長率はまたも0.4%と低迷することとなる。この大不況は民政党内閣から交代した政友会犬養内閣において蔵相を務めた高橋是清リフレーション政策により、長きに渡るデフレを終熄させることでようやく終わりを告げることになる。高橋の取った政策は金輸出の再禁止と日銀の国債引き受けによる積極財政という濱口内閣とは正反対の政策であった。犬養内閣において、成長率は1932年(昭和7年)に4.4%、1933年(昭和8年)に11.4%、1934年(昭和9年)に8.7%と劇的な回復を見せ、日本は世界に先駆けて不況からの脱出に成功する事になる。

濱口首相遭難事件

濱口内閣の政策は激しい攻撃に晒され、その反発はやがて銃撃事件として噴出する。

1930年(昭和5年)11月14日、濱口は現在の岡山県浅口市で行われる陸軍の演習[注釈 2]の視察と、昭和天皇行幸への付き添い及び自身の国帰りも兼ねて、午前9時発の神戸行き特急「」に乗車するため東京駅を訪れる。午前8時58分、「燕」の1号車に向かって第4ホームを移動中、愛国社社員の佐郷屋留雄に至近距離から銃撃された。銃撃された首相は周囲に大丈夫だと声を掛けるなど、気丈で意識ははっきりとしていたが、弾丸は骨盤を砕いていた。自身の回想によれば、銃撃の直後は小さな音と共に腹部に異状を感じたが、激痛というべきものはなく、ステッキくらいの物体を大きな力で下腹部に押し込まれたような感じであったと云い、同時に「うむ、殺ったな」「殺されるには少し早いな」というような言葉が脳裏に浮かんだという。駅長室に運び込まれた濱口首相はかけつけた東京帝国大学外科学主任教授の塩田広重の手によって輸血が施され、様態の安定に伴い、東京帝国大学医学部附属病院に搬送され、同病院にて腸の30%を摘出する大きな手術を受けて一命を取り留めた。

当時、原敬暗殺事件以降、駅における首相の乗降時は一般人の立ち入りを制限していたものの、首相自身の「人々に迷惑をかけてはならない」との意向により、立ち入りは制限されていなかった。また、銃撃発生当時、同ホームではソビエト連邦に向けて赴任する広田弘毅大使が出発しており、見送りに万歳三唱を行っていた幣原喜重郎外相やその他多勢は、当初銃撃に気付かなかったといい、広田大使らを乗せた列車もそのまま出発している。その後、銃撃に気付いた幣原外相は事件直後に搬送された駅長室に首相を見舞っている。犯人である佐郷屋は「濱口は社会を不安におとしめ、陛下の統帥権を犯した。だからやった。何が悪い」と供述したが、「統帥権干犯とは何か」という質問には答えられなかったという。

入院中は幣原外相が臨時首相代理を務め、濱口首相は翌1931年(昭和6年)1月21日に退院した。しかし、野党・政友会に所属する鳩山一郎らの執拗な登壇要求に押され、同年3月10日、無理をして衆議院に姿を見せ、翌11日には貴族院に出席している。それでも政友会からの議場登壇要求は止まず、18日には登壇するも声はかすれ、傍目にも容態は思わしくなかった。4月4日に再入院した首相は翌5日に手術を受け、これ以上の総理職続行は不可能と判断。4月13日に首相を辞任した。民政党総裁も辞任し、退院後は療養に努めたものの、治療の甲斐なく8月26日午後3時5分にアクチノミコーゼ(放線菌症)のため[1]死去した。

濱口の死因に関しては、後日濱口が特殊な細菌(放射状菌)の保有者であり、その細菌が傷口に侵入して化膿した事による症状の悪化であると判明したため、犯人である佐郷屋の裁判では、被告の罪状が殺人罪と殺人未遂罪のどちらが適用されるべきか大いに紛糾した。審理の結果、狙撃と死亡との間に相当因果関係がないとして、殺人未遂罪が適用されたものの、1933年(昭和8年)の判決の内容は死刑であったが、昭和9年(1934年)に恩赦無期懲役に減刑され、1940年(昭和15年)11月に仮出所している[注釈 3]。佐郷屋にモーゼル式八連発拳銃を渡した岩田愛之助と松木良勝も幇助の罪で逮捕され、岩田は懲役4月、松木は懲役13年の判決を受けた[2]

襲撃現場にあたる位置は現10番線で、現在も東海道本線(在来線)ホームで8号車乗り場付近であるが、ホームには目印などはない。真下にあたる中央通路の新幹線中央乗換口付近(圓鍔勝三作『仲間』の彫刻の後方)に、事件の概要を記したプレートと床面に埋め込まれたマークがある。

栄典

家族・親族

系譜

  • 浜口氏
       昭和天皇━━━━━今上天皇
                  ┃
             ┏━━━美智子
       正田英三郎━┫
             ┗━正田  巌
                  ┃
             ┏━━━━淑
小林和介━━━━━━直  ┃
          ┣━━╋━浜口  宏
浜口雄幸 ┏━浜口 雄彦 ┃
  ┃  ┃       ┗━━━━幸
  ┣━━╋━━━━富士 ┏━大橋 宗夫
  ┃  ┃    ┣━━┫
  夏  ┃ 大橋 武夫 ┗━大橋 光夫
     ┃
     ┗━浜口 巌根 ┏━━━━郁子
          ┣━━┫
          稜  ┗━━━━英子
       古沢 潤一      ┃
          ┣━━━━古沢 義文
鳩山一郎 ┏━━━百合子
  ┣━━┫
  薫  ┗━鳩山威一郎

脚注

注釈

  1. 学術誌、研究書、辞典類、文部科学省検定教科書では歴史人物名の表記として「浜口雄幸」、存命当時の『職員録』など印刷物では「濱口雄幸」、御署名原本における署名も「濱口雄幸」である。
  2. 演習は11月14日に現在の福山市で、15日に浅口市で実施。天皇は14日の演習から観閲したが、濱口は15日の演習に随伴する予定だった。
  3. その後の佐郷屋の経歴は佐郷屋留雄の項を参照のこと。

出典

  1. 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)23頁
  2. 濱口雄幸『兇器乱舞の文化 : 明治・大正・昭和暗殺史』高田義一郎 著 (先進社, 1932) p326-330
  3. 『官報』第8257号「叙任及辞令」1910年12月28日。
  4. 『官報』第1038号「叙任及辞令」1916年1月20日。
  5. 『官報』第8723号「叙任及辞令」1912年7月17日。
  6. 『官報』第4158号「叙任及辞令」1926年7月3日。
  7. 『官報』第4176号「叙任及辞令」1926年7月24日。
  8. 『官報』第91号「叙任及辞令」1927年4月21日。
  9. 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。
  10. 『官報』第1298号「叙任及辞令」1931年5月1日。
ファイル:Osachi Hamaguti's Handwriting1.jpg
濱口雄幸の揮毫「南朝四百八十寺多少樓臺烟雨中」、杜牧「江南春絶句」より

伝記・参考文献

  • 川田稔 『浜口雄幸 たとえ身命を失うとも』
ミネルヴァ日本評伝選ミネルヴァ書房 2007年

著作(新版)

関連項目

外部リンク

公職
先代:
田中義一
日本の旗 内閣総理大臣
第27代:1929年 - 1931年
次代:
若槻禮次郎
先代:
若槻禮次郎
日本の旗 内務大臣
第43代:1926年 - 1927年
次代:
鈴木喜三郎
先代:
勝田主計
日本の旗 大蔵大臣
第25代:1924年 - 1926年
次代:
早速整爾
党職
先代:
結成
立憲民政党総裁
初代 : 1927年 - 1931年
次代:
若槻禮次郎
日本国歴代内閣総理大臣
26
田中義一
27
1929年 - 1931年
28
若槻禮次郎

伊藤博文
黑田清隆
山縣有朋
松方正義
大隈重信
桂太郎
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