無神論

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無神論(むしんろん、英語: atheismラテン語: atheismus)は、世界観の説明にの存在、意思の介在などが存在しない、または不要と主張する考え方である。

定義と範囲

無宗教」と混同されがちだが、無宗教は特定の宗教を支持しない状況を指しており、が居ない事を支持する無神論は全く異質の概念として考えられるべきである。唯物論機械論を無神論とみなす者もいるが、これらの理論は霊魂や物質世界への超越的な力の介入を否定しているのであって、必ずしも神の存在を否定しない。

無神論は一般的には既存宗教と対立するとみなされる考え方であり、両者の間には軋轢が生じることも多い。しかし、近年では科学の発展や浸透に伴って唯物論的な考え方が一般に受け入れられてきており、無神論に対する風当たりは弱まってきているとされる。一方で、保守的な地域では無神論に対する根強い不信感もある。さらに、アメリカ合衆国で台頭したインテリジェント・デザイン論のように、表向きでは科学と宗教の融合ないし折衷を自称しながら、実質的に自然科学を排斥する運動も見られる。厳格な無神論者は、宗教に対する激しい敵意を抱くことも多い。共産主義国における宗教の弾圧や虐殺などが無神論と結び付けられることも多い。

神の観念は実に多様であるため、神の定義如何によってどんな考え方も無神論とみなしうるし、その逆も成り立つ。故に一部の一神教徒が汎神論宗教や仏教を「無神論」とすることがあり、逆に一部の多神教徒が一神教徒を「無神論」とすることもある。そのため無神論にはいくつかの定義が存在する。

  • 広義には、また歴史的には「一神教におけるような唯一絶対の造物主を認めない立場」を指す。
  • 狭義には、「神もしくはその他の類似の名前の付いた、人間や自然を超えた存在すべてを認めない立場」を指して無神論と呼ぶ。

広義の定義に当てはめれば、仏教儒教は無神論的宗教であるが、狭義の定義に当てはめれば有神論的宗教とみなされる。現在のキリスト教的世界観では広義の定義が定着していると言えるが、多神教的世界観では狭義の定義が一般的な無神論の定義として扱われることが多い。

無神論は、神の存在についての考察や議論を避ける消極的無神論と、神の不在を明言する積極的無神論に分けられる。無神論の明確な対義語は有神論である。理神論汎神論は、無神論と対義的に扱われることもあるし、消極的無神論の一部とみなされることもある。消極的無神論と不可知論は、時に見分けがつかないか重複する。積極的無神論者は常に宗教を批判するわけではない。したがって、反宗教主義と積極的無神論は区別されなければならない。宗教批判を行う強い無神論者は、しばしば「戦闘的無神論者」と呼ばれる。この語は信仰を持つ人を愚かであると見なすような、節度を越えた宗教批判へ非難の意味を込めて用いられることもある。

キリスト教の教義では神は、人間の「生前の行動が、最後の審判(死後の裁き)での判断基準となる」としている(解釈されている)が、全知全能たる神が、どの人間が正しい行動をとり、どの人間が正しくない行動をとるかを前もってわからないわけがないはずであり、この「全知全能たる神」の存在に関しての解釈(または説、説明)は、矛盾する点が指摘されている(予定説を参照)。

仏教は宗教学の類型では無神的宗教と呼ばれ、無神論とされることが多い[1]。フォイエルバッハやジークムント・フロイトのように神を人間の発明とする考え方は、仏教に通じるとされる[2]。ショーペンハウアーは仏教を「完璧」と言ったことがあり、エンゲルスも部分的ではあるが仏教のを評価した[3]。しかし、仏教においてはキリスト教的な意味における「全知全能たる神」の存在を「考えていない」だけに過ぎないとする見方がある。仏教では、そのような問題を無意味な議論として忌む傾向が強い。このような考え方はむしろ不可知論に近いとされるが、不可知論は「存在の可能性」を想定した上で、その「不可知」を論じている点など、根本的な違いがある(詳しくは、諸法無我ブッダ(仏)と神等を参照)。また、仏教自体が宗教ではなく衛生学であると(好意的に)解釈したニーチェのように、仏教を宗教とはみなさない者もいる。

神について「敬して遠ざける」としている儒教についても、無神論とみなされる場合がある。事実、儒学者の中には無神論を積極的に唱える者もおり、「宗教として扱われる思想ではない」という見解が多い。

上述の通り、今日においても宗教学はキリスト教中心主義的な定義を行っており、唯一神教以外の宗教は無神論とみなされがちである。仏教などを無神論として分類する欧米の学者に対しては、それらの宗教の中で自説にあう側面のみを選択的に取り上げているという批判もある。

より中立的な定義として、神またはその他の名を持つ、人間を超えた超自然的な存在を考えない立場のことを無神論とするという意見もある。この場合、既存の宗教はほぼすべて有神論に分類され、純粋な唯物論や機械論が無神論となる。

共産主義国家、マルクス・レーニン主義政権国家の多くでは、虐殺や宗教施設(聖堂モスク寺院など)の破壊を含む手段で宗教弾圧が行われ、キリスト教徒やイスラム教徒を始めとする宗教の信者は過酷な迫害に苦しんだ。マルクス・レーニン主義無神論English版を参照。

語源

一般的な語源は古代ギリシャの「atheos」「asebs」「atheots」である。古代ギリシアの民族や国家(ポリス、ギリシアの都市国家)においてその守護神を信じない「ある人々」(例:アテナイで女神アテナを信じない人たち)を示した。

キケロがラテン語で翻訳したことから、ラテン語を語源とする説もある。無神論者はラテン語で「atheus」という。

歴史

古代から中世

古代インドブッダと同時代人のアジタ・ケーサカンバリンがおり、彼を中心とする順世派(チャールヴァーカ Cārvāka)は無神論的な思想を展開した。神のような超越的な原理でなく、社会倫理やその改革を訴えた。

古代ギリシアでは、まずデモクリトスエピクロスが唯物論に基づく無神論的な思想を提唱し、ローマ時代にはルクレティウスがそれをより明確な無神論の形で提唱した。

キリスト教との関係

ファイル:Feuerbach andreas.jpg
ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハが書いた『キリスト教の本質』(1841年)は エンゲルスマルクスシュトラウスニーチェなどに多大な影響を与えた

原義から、原始キリスト教徒は「ギリシアの神・ローマの神を信じない者」という意味で無神論者とされた時期があるが、中世や近代ではキリスト教の宗教観に反対する立場をとる者が無神論者を名乗ることが多い。反キリスト教的な無神論者の中には、マルクスやニーチェのように、むしろ古代ギリシャに傾倒した人物が少なからずいる。

日本近世期における無鬼論

日本においては幽鬼、すなわち霊魂や鬼といった妖怪の存在を否定する「無鬼論」として始まる。無鬼論は、儒学における「気(万物を構成する要素)」と「祭祀(招魂といった先祖崇拝)」の解釈(現象と関係)に伴う矛盾から発展していったものであり[4]、西洋のような一神教による絶対的な世界観を科学解釈によって徐々に崩された(科学的な根拠の積み重ねによる否定の)上で成り立ったものとは異なる。中国の朱子は、気(現代でいえば、原子のようなもの)の集まりが「生」と捉え、気の離散が「死」と解釈した上で、気の離合集散によって魂魄の現象を合理的に説明しようとした(魂魄の項の「儒学における魂魄現象の解釈」も参照)。結果、霊性を否定しかねない矛盾した論考(一度、離散した気=魂魄は二度と戻らない=死と主張したために、祭祀による招魂儀礼を行うことに矛盾が生じた)に至ってしまい、後世、林羅山といった儒学者に鬼神(魂魄)の有無について半信半疑な立場を取らせ、江戸期日本の朱子学者を「無鬼論者」(伊藤仁斎)と「有鬼論者」(荻生徂徠)に二分させた。

多神教(道教神道など)では、先祖を人物神として祀る信仰観から、祭祀による招魂儀礼が行なわれるが、魂魄=気の離散が死であり、離散した気は二度と戻らないとする朱子学の主張(仏教の輪廻転生を否定するために生み出した合理的論説)は、一部で無神論にも通じることになる。

近代

フランスの啓蒙思想によって、無神論は飛躍的に発展した。

フランスの思想家ドルバックは無神論、唯物論運命論を唱えた。ドルバックは、ヴォルテール流の理神論汎神論ではなく、最も早い時期に無神論を唱えた思想家の一人である。おそらくドルバックに先行するのは、ジャン・メリエEnglish版ただ一人である。ドルバックの自然観の根底には、人間は理性的な存在であるという確信がある。全ての宗教的な原理から道徳を切り離し、自然的原理だけに道徳を還元するというのが彼の目論見であった。主著『自然の体系』では、あらゆる宗教的観念や理神論的観念を排して、無神論と唯物論と運命論(科学的決定論)を説く。しかし、しばしば矛盾とも思える様々な主張の寄せ集まりであると批判されてもいる。

19世紀後半のドイツは合理主義及び自由思想の影響を受けて無神論の卓越性が増し、フォイエルバッハショーペンハウアーマルクスニーチェなど多くの顕著な哲学者は神の存在を否定した[5]。特にフォイエルバッハの『キリスト教の本質』(1841年)はマルクス、シュトラウス、ニーチェら若い哲学者に熱烈に歓迎され、キリスト教は前代未聞の激しい攻撃に晒された。マルクスは「宗教は民衆の阿片である」とし、またニーチェはユダヤ教―キリスト教の精神構造を「ルサンチマン」にあると『道徳の系譜』で論じた。またラッセルは、宗教や信仰を死や神秘的なものへの恐怖にあるとした[6]

無神論の一形態に人間中心主義 (anthropocentric) がある。人間中心主義は倫理及び価値の源として人間性を支持し、個人が神や宗教に依存しないで道徳的な問題を解決することを主張する。代表的な論者にマルクス、ニーチェ、フロイトサルトルなどがいる。朝鮮民主主義人民共和国および朝鮮労働党が主張するチュチェ思想も、この一種といえる。

主張・発言

無神論者の指摘・主張・発言には以下のようなものがある。

  • 神の存在や、神が存在することで我々の世界、我々の精神にどのような影響があるのかを、飛躍や矛盾なく論理的に説明することができない。現時点でその存在や影響を証明できない、「神の存在」以外で説明がつくのであれば、存在しないものと考えても差し支えはない。(オッカムの剃刀
  • 全知全能の神が存在するなら、その神は『全知全能の神が知らない物』(あるいは『全知全能の神が持ち上げられない大きさの岩』)を作れるか。」というパラドックスが解決できない以上、全知全能の神は存在しない。(全能の逆説、ただしここでは神=全知全能と定義している。「神」という存在が全知全能であるかという問題があり、このままでは無神論を証明はできない)
  • 全知全能の神が存在するなら、なぜ社会悪や不幸が存在するのか説明できない。社会悪や不幸を神が解決できないのなら、それは全知全能ではないし、また全知全能であるにもかかわらず解決しようとしないのなら、それは神とはいえない。
  • 信仰とは、立証責任を果たさずに、「あるものはある」という同語反復(トートロジー)で、押し付けてくる(ドーキンス)
  • インドで、宗教とよばれるものは、あまりに恐ろしく、わたしは掃き清めたかった。それは盲信、反動、ドグマ、偏見、迷信、搾取である(ネルー

無神論と社会

現代では憲法によって信仰の自由が保障されているが、宗教的に保守的な国や地域(イスラム教国や、アメリカ合衆国やヨーロッパ諸国等の一部地域)では、無神論者であることを口にすることがタブーとされることが多い。神を信じず、信仰の対象を持たない人間は、気違い悪魔を信仰する者(サタン)、道徳のない者、無教養扱いにされることがある。欧米では、これら有象無象の誤解や不利益を回避するための方便として、神や霊魂の存在を必ずしも肯定しない「思想」を持つと主張する場合もある。もっとも近年の欧米では、無神論を口にすることへのタブー意識は低くなってきている。それでも周囲との軋轢を避けるために、無神論の代替語として不可知論を用いる場合がある。リチャード・ドーキンスはこうした「無神論者」へのいわれなき差別を是正すべきだとしている[7]

西洋における意味

欧米の保守的な一部地域では、「無神論者」という表現は非常に大胆な表現であり、無慈悲な人物像を連想させてしまうため、注意が必要となる。ただし、一般的には無神論は哲学上の立場として広く受け入れられている。

アメリカ軍の認識票には、葬儀を行う都合上、宗教を記入する欄が存在しており、略記号を用いて刻印されているが、無神論者は未申告として刻印される。ただし、第二次世界大戦中はナチスがユダヤ人を差別したため、ユダヤ教が未申告として刻印されていたこともあるので、一概に未申告=無神論者とは言えない。

イスラムにおける扱い

イスラム教の価値観では、無神論であることは悪として扱われる。無神論者であるということは無明時代の人間であるということであり、文明を知らない原始人のような者と見なされ、異教徒(ズィンミー)よりも下位として扱われる。エジプト、イラン、サウジアラビアなど、戸籍や入出国に関する書類に宗教欄の記載が必須の国では、無神論者と宣言することが不利な扱いになる場合もある。特にイランやサウジアラビアなど、シャーリアが法制度となっている国では、法的権利の制限を受けることもある。

著名な無神論者

脚注

  1. Buddhism and Atheism
  2. Walpola RahulaのWhat the Buddha Taught 1974 51~52頁
  3. 「自然の弁証法」
  4. 加地伸行 『儒教とは何か』 中公新書 11版1995年(初版1990年) p.207
  5. Subjectivity and Irreligion
  6. 「自由人の信仰」
  7. 「神は妄想である」および項目「リチャード・ドーキンス」を参照

参考文献

  • アンリ・アルヴォン『無神論』文庫クセジュ474、白水社。
  • Zuckerman, Phil. "Atheism: Contemporary Numbers and Patterns." The Cambridge Companion to Atheism. Ed. Michael Martin. Cambridge University Press, 2007. Cambridge Collections Online. Cambridge University Press. 03 February 2012 doi:10.1017/CCOL0521842700.004

関連項目

外部リンク