照葉樹林文化論

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照葉樹林文化論(しょうようじゅりんぶんかろん)とは、1970年代以降の日本の文化人類学において一定の影響力を持った学説である。具体的には、日本の生活文化の基盤をなすいくつかの要素が中国雲南省を中心とする東亜半月弧に集中しており、この一帯から長江流域・台湾を経て日本の南西部につづく照葉樹林地域に共通する文化の要素は共通の起源地から伝播したものではないかという仮説である。また日本列島の縄文文化は照葉樹林文化の一種であるとの誤解を一部にまねいた。

概要

照葉樹林文化論を主に担ったのは中尾佐助佐々木高明といった文化人類学者である。彼らは日本の生活文化の基盤をなす主な要素が中国雲南省を中心とする東亜半月弧に集中するとして、類似した文化の広がる地域を照葉樹林文化圏と名づけた。照葉樹林西日本から台湾華南ブータンヒマラヤに広がる植生である。この一帯でも、華南は照葉樹以外の偏向植生と成って居て、気候的に照葉樹林は成立しない。この地域に住む民族の文化要素には、森林や山岳と良く結びついたものが多い。佐々木はさらに、西日本の照葉樹林文化に対応させるかたちで東日本にナラ林文化という概念を設定し、中国東北部や朝鮮半島に広がるモンゴリナラブナ林の分布する地域にみられる文化要素との関連も示唆している。

具体的には、根栽類の水さらし利用、焼畑農業陸稲の栽培、モチ食、酒、納豆[1]など発酵食品の利用、鵜飼い漆器製作、歌垣お歯黒入れ墨、家屋の構造、服飾などが照葉樹林文化圏の特徴として挙げられる。照葉樹林文化論を肉付けする形で稲作文化や畑作文化なども考証されているものの、稲栽培の起源である華南。

照葉樹林文化論に関連する中尾佐助の諸論文は、『中尾佐助著作集』全6巻として体系化されて出版されており、論は現在でも学術の多方面に影響を与えている。

栽培イネの発祥地は、一時、雲南地域とされたが、近年の考古学や分子生物学の知見は稲作が長江文明の湿地帯に始まった事を明らかにした。稲作文化の多くの要素は、後から照葉樹林文化の要素を包摂した。これを受け、佐々木高明は『日本文化の多重構造』において長江文明論を包摂しながら、自説を発展させた[2]。佐々木は最近の総括のなかで、照葉樹林文化論を「未完の大仮説」とし、今後を展望している[3] 鳥居赤飯については各項目参照のこと。

中尾は農耕文化の4大体系から見て、照葉樹林文化圏が「ニジェール川上流域を発祥地とする、サバンナ系雑穀文化(稲入る)」の影響を承けた「マレー半島起源の、芋(ウビ)系文化の温帯発展型」であり、両方の農耕文化(なお、サバンナ系の代表作物に入る水生植物(レンコン等)は、アフリカの一部と照葉樹林文化圏しか栽培されない)から作物を受け取っているとする。

批判

照葉樹林文化論はある一時期、極めて強力な影響力を持ち、日本列島西半分の文化の全てをこれで説明しようとするような論考も珍しくなかった。しかし現在では多方面からの検討が加えられ、否定的な意見も多く提出されている。照葉樹林文化は、日本列島に影響を及ぼした様々な文化圏のうちの一つに過ぎないという見方もあり、亦そもそもそのような文化圏は存在しないという見方もある。

池橋宏による批判

池橋宏はイネの栽培法や古文献の検討により、稲作の開始は初期の照葉樹林文化論で説明された「中東から伝播した[4]」、焼畑での陸稲栽培ではなく、タロイモなどとともに低地集落内の屋敷内水田で栄養繁殖された水稲であったと主張している。なお池橋の著書『稲作の起源』[5]には、中尾佐助がオセアニア、インド、アフリカなどを踏査しながらも、「実は華南からインドシナ半島は殆ど見逃されている」[6]など、事実に反する引用・記述も見受けられる。[7]

考古学からの批判

考古学者の松木武彦は、照葉樹林文化論は5000年という膨大な時間経過を無視し、20世紀の雲南と縄文社会を安直に結びつけた粗雑な論であるとして、厳しく批判している。その傍証として松木は、縄文期の西日本が人口密度の点で東日本に大きく劣っている事実を挙げている。[8][9]

これらの批判について

照葉樹林文化論を縄文文化[8]や稲作起源論[5]と同一視して批判する議論は、照葉樹林文化論に対する初歩的な誤解にもとづくものである。照葉樹林文化論は、日本列島の狩猟採集文化(縄文時代)および稲作そのものの文化(弥生時代)とは別の文化要素群(焼畑納豆モチ歌垣婚姻形態など)によって認知される文化複合ととらえている未完の大仮説である。またその発展段階が、(1)プレ農耕段階・(2)雑穀を主とした焼畑段階・(3)稲作ドミナントな段階の3段階に整理され、このうち焼畑段階が典型的あるいは焦点であるとされている。このことは、1976年の『続・照葉樹林文化』[10]ですでに示されており、佐々木高明の最近の著作[11]でも説明されている。

照葉樹林文化論を特徴づけるのは、照葉樹林帯という共通の生態環境をもつ地域一帯に、この環境で生まれた文化要素群が起源地から伝播して他地域へ広がったのではないかとする生物地理学的な観点である。したがって、仮説の枠組みとしての照葉樹林文化論を科学的に否定するためには、(1)これらの文化要素の分布が実際には照葉樹林の分布と対応しないことを示すか、または(2)これらの文化要素群が照葉樹林帯とその周辺一帯に分布するのは起源地から伝播した結果ではなく、それぞれの地域で独立に生じた結果であることを主張し、そのことを証明する様な全面的且つ根本的な意味での否定は、これまでなされていない。

影響

日本国内で栽培植物起源論への関心を高め、世界の農耕の起源の多様性を広く認知させることにつながった。また稲作の起源や縄文時代焼畑農耕に対する関心を高めることにも役立った。

  1. 熊本大学の横山智「納豆菌プラスミドDNAによる研究」[1]参照、トゥア・ナオについても記述。。
  2. 佐々木高明『日本文化の多重構造−アジア的視野から日本文化を再考する』小学館,1997,第三章ほか。
  3. 中尾佐助『中尾佐助著作集第IV巻 照葉樹林文化論』所収の佐々木高明による解説、北海道大学出版会、2006年
  4. 池橋宏『稲作渡来民』(講談社メチエ、2008年) 7頁
  5. 5.0 5.1 池橋宏『稲作の起源』(講談社メチエ、2005年)
  6. 同書61頁
  7. これについては山口裕文の書評で批判されている書評『稲作の起源』照葉樹林文化研究会ニュースレター第二号2008年1月 また池橋は中尾が初期において麹酒をインド由来としたと記述するが(同書29,64頁)、中尾にそのような記述は存在しない。山口裕文前掲書評 『栽培植物と農耕の起源』68頁では、インドには外来の酒しかないとし、ソーマも「果物の汁」とある。山口裕文は池橋の誤認引用を指摘するだけでなく、中尾の作業仮説を批判するとしたら、その仮説を乗り越えるような仮説を提出すべきだと批判した。この山口書評については池橋は直接応答していないが、2008年に『稲作渡来民』を発表し、照葉樹林文化論による稲作渡来説への批判的応答をはたした。池橋宏『稲作渡来民』(講談社メチエ、2008年)
  8. 8.0 8.1 松木武彦『日本の歴史1:列島創世記』小学館、2007年
  9. 縄文前期から中期、西日本の植生は照葉樹林であったが、東日本は暖温帯落葉広葉樹林である。
  10. 上山春平中尾佐助佐々木高明『続・照葉樹林文化』(中公新書、1976年)
  11. 佐々木高明『照葉樹林文化とは何か』(中公新書、2007年)

参考文献

  • 松木武彦『日本の歴史1:列島創世記』小学館、2007年
  • 池橋宏『稲作の起源:イネ学から考古学への挑戦』講談社、2005年
  • 中尾佐助『中尾佐助著作集第Ⅵ巻 照葉樹林文化論』北海道大学出版会、2006年
  • 佐々木高明『照葉樹林文化とは何か』中央公論社、2007年